1333年鎌倉幕府が滅亡、倒したのは北関東を拠点にしていた武士、新田義貞である。それまで権勢を誇っていた北条氏一族は鎌倉の東勝寺にて果てた。北条氏に仕えていた足利高氏が後醍醐天皇側に寝返ったのである。北条高塒1303-1333の幼子だった北条時行1325-1353は、その後生涯に渡って足利尊氏(北条高塒の高から後醍醐天皇の尊に替えた)と戦うこととなる。各地で北条の残党が反乱を起こす中、1335年に北条時行も諏訪氏と共に蜂起(中先代の乱:建武政権に不満を持つ東国武士3万が北条時行に集結して鎌倉を奪還)する。
1318 後醍醐天皇即位
1324 倒幕計画発覚 笠置山逃避
1331 倒幕計画発覚
元弘の乱
鎌倉幕府✖ VS 〇後醍醐天皇
1333 北条氏滅亡
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1333 建武の親政:鎌倉武士不満、後醍醐天皇暗殺謀略@京都By西園寺公宗
・北畠顕家建武の新政補佐
・北畠顕家陸奥守任命
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1335 北条時行蜂起-鎌倉制圧:中先代の乱
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1335 足利尊氏が鎌倉へ攻め上る---鎌倉奪還
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1335 北条時行勢力自刃@北条時行脱出
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1335 足利尊氏@鎌倉 京都からの帰還命令無視---後醍醐天皇に反旗
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1336 尊氏討伐命令to 北畠顕家By後醍醐天皇
・1/02 義良親王を奉じて上京開始
・ 足利義詮、桃井直常を破って鎌倉入り
・1/06 遠江入り
・1/12 近江入り
・1/13 新田義貞、楠木正成と合流
・1/16 連合軍は円城寺を攻めて足利方を破る
・1/27 足利尊氏を破る
・2/04 北畠顕家は大将軍の号を賜る
・2/10 足利尊氏が再入京---摂津で破り尊氏は九州へ逃げる
・2/14 北畠顕家は京へ凱旋
・3/02 北畠顕家は権中納言に叙される
・3/20 足利を討つために奥州への帰還開始 5月に戻る
・ このとき足利尊氏は立て直して上京
・ 新田義貞は比叡山に敗走
・ 楠木正成は湊川の戦いで自刃
1336 尊氏擁立の天皇承認(北朝に光明天皇) : 後醍醐天皇は南朝を開く
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1337 北畠顕家は東北平定のために霊山@福島を本拠地とする
・8月 尊氏討伐命令By後醍醐天皇
・ 義良親王を奉じて上京開始
・ この時には後醍醐天皇の新政に不満を持つ武士多数で北畠顕家は苦戦
・12月 足利軍の城杉本城@鎌倉にて奮戦勝利
・ 新田義貞の息子・義興と合流
・ 北条時行とも合流
1338 1/02 北畠顕家は鎌倉出発
・1/12 遠江 北条時行は遠州灘の嵐で行方不明
・1/21 尾張
・2/04 高師泰らが京に進撃:北畠顕家打倒目的
・2/21 北畠顕家は大和を占拠
・2/28 桃井に敗れて義良親王を吉野に逃がす
・3/08 天王寺の戦いで勝利
・3/18 敗戦して和泉へ転戦
・3/21 高師直が追撃
・5/22 北畠顕家は高師直に敗戦@石津の戦い
・6/10 同上 北畠顕家は戦死
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1340 相模次郎・時行を諏訪氏が支えて、足利の守護・小笠原勢と対峙@大徳王子城
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1352 南朝が鎌倉奪還 時行鎌倉入 南朝が京都を制圧、宰相義詮は近江に逃亡
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1352 鎌倉南朝は尊氏の反撃にあう 時行は鎌倉離脱 かくして南朝逼塞
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1353/5/20 北条時行斬首@鎌倉滝口寺