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河上彦斎に斬られた佐久間象山寓居跡

2010年01月07日 | 幕末

 佐久間象山1811-1864は、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれ、兵学・蘭学を学び、江戸では勝海舟・吉田松陰等に砲学を教えた。 ペリーの来航以来海軍に対する補強を強く唱えた人物なのである。 松代藩主で老中・真田幸貫を通じて幕府に海防八策が献策されたのはペリーの来航より11年も前のことである。 この献策は黙殺されたが、彼の高く評価したのが吉田松陰である。 象山の思想は単なる攘夷論ではなく、外国の科学を学ぶことの意義を唱えた。  開国論を唱え、1854年、吉田松陰の米艦乗込事件に連座し約8年間松代で蟄居した。 1864年幕命により上京し開国論を披瀝した後象山最後の住居であるこの地に移った。(京都木屋町通三条に佐久間象山寓居の跡を示す石標があるが、注意深く歩かないと見逃してしまいます)

 1833年に江戸で儒学者・佐藤一斎に朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至り、1839年には江戸で私塾・「象山書院」を開き儒学を教えていた。 しかし、1842年、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が海防掛に任ぜられると、江川英龍(江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。坦庵呼び名で知られる)の下で、兵学を学ぶことになる。 以降、象山は兵学のみならず西洋の学問に関心を寄せる。 1854年、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て失敗する事件に連座して象山も入獄することになり、松代での蟄居を余儀なくされる。 ところが10年後の1864年、象山は一橋慶喜に招かれて入洛すると慶喜に公武合体論と開国論を説いた。 尊皇攘夷派の志士が潜伏する中での開国論の主張は極めて危険な行動であり、ついに三条木屋町で河上彦斎により暗殺された。因みに象山の養子・格二郎は父の仇を討つために新撰組に入隊している。

木屋町通にある佐久間象山の寓居と遭難跡碑

 

 河上彦斎(げんさい、1834-1872)は、熊本藩士で尊皇攘夷派の武士で、幕末四大人斬りの一人と云われる。八月十八日の政変(文久の政変ともいい、薩摩・会津の公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都の中枢から追放した戦い) の後に長州へ移り、三条実美の警護を務めた後、池田屋騒動で新選組に討たれた宮部鼎蔵の仇を討つべく京へ向かう。 公武合体派で開国論者の重鎮・佐久間象山を暗殺した後は人斬りを行なっていないという。 

 尊皇攘夷派の長州藩と公家は、大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍・諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとした。しかし錦の御旗をもととした献策は事前に薩摩藩に察知され、薩摩藩・会津藩・孝明天皇・公武合体派公家は連帯して長州藩の計画を潰し、朝廷における尊攘派一掃をおこなったのがあ文久の政変でありやがて池田屋事件・禁門の変へと繋がっていった。

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