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平安絵巻七 道長の栄華

2007年01月16日 | 平安時代

 平安絵巻七 道長の栄華

 一条・冷泉と相次ぐ死により翌1012年は寂しい年になると思われたが、道長の周りは活気に満ちている。2月14日、三条帝の女御・妍子19歳が立后し中宮となり、中宮彰子25歳は皇太后に、皇太后遵子56歳は太皇太后となったからである。道長と三条帝はなんのわだかまりもないように見えたが、三条帝が女御娍子を立后させたい意を表した時からぎくしゃくしだした。藤原済時の娘である娍子を立后させるということは道長の念頭には全くなかった。三条帝の娍子を愛する気持ちはわからないでもないが、故一条が愛する定子の子・敦康を東宮にしなかった賢明さに比べて三条帝は・・・と思うからである。 結果的に妍子は中宮となったが後に大変な苦労をすることとなる。 まして妍子は禎子内親王しか産まなかったからである。 道長と一条の間には行成という蔵人頭がいたが、三条との間を取り持つ優秀な人材がいなかったことも大きな原因である。

 19歳の妍子と同じ年の明子所生の次男・顕信はこのとき既に出家の意思固く、叡山にこもっていた。原因は不明である。しかし、道長を追い抜くほどに叙せられた鷹司の倫子に比べて我が母・明子は無官位である。そのような欲もなにもない妖精のような明子に惚れた道長であるから仕方ないが、この母の影響があったのは確かであろう。

 そして三条が強硬に表す娍子の立后が頭を悩ませた。大納言の娘が立后した前例がないと見ると早速、故済時に右大臣の称号を与えてしまった三条帝である。 これ以上道長には断る理由もなく、2月27日故済時の娘・娍子41歳は立后し皇后宮となった。 しかし妍子と立后の儀に格段の違いがあったことは事実である。後ろ盾のない娍子に比べて妍子の参内の日4月27日は豪雨にもかかわらず、里邸である東三条邸には続々と公卿が集まった。一方の娍子のほうは主催者側の右大臣、内大臣すらやってこない有様で未曾有の寂しい立后の儀となってしまった。

 1013年、立后問題でこじれてしまった道長と三条の間を修復するかのように妍子が懐妊したのである。しかし7月6日、道長の期待に反して生まれたのは女児、後の禎子内親王である。一方、娍子の方はと言うと第一皇子・敦明が成人し右大臣・顕光の娘・延子を妻とし、その延子が懐妊したという。延子といえば一条帝女御元子の妹であるが、元子は忌まわしい出産のあと源頼定とねんごろになりしのびあいを続けているという。 娍子の第一皇子・敦明親王に敦貞親王が誕生し、妍子には禎子内親王ということになると益々道長と三条帝の争いは絶えることがなかったが1015年9月に、内裏が完成すると三条は移転を終えた。この頃には前々から異常をきたしていた眼病がさらに悪化して譲位をせざるを得なくなった。もちろん道長は敦成を即位させた後、敦良を東宮に考えている。腹心の中納言・俊賢、大納言・公任もその意を受けて動き出す。 二ヵ月後の11月に再び内裏が不審火で焼け落ちてしまった。内裏にいた娍子は皇后宮亮である弟・為任の邸に移り三条帝を苦しめることになるのである。不審火は帝徳薄きがためであると・・・。

 三条帝はいよいよ譲位を決意したのであるが、敦明親王を東宮にするという条件付きであった。根負けした道長は受け入れ、1016年1月29日に三条天皇41歳で譲位し、後一条天皇が9歳で即位、三条天皇第一皇子・敦明親王23歳が立太子した。 そして倫子は道長と並んで三宮に准じて年官年爵を得、今や彰子は幼帝後一条に代わって政治の中心にいる。倫子の母・穆子も75歳で亡くなり、大きく時代の波は変わった。 道長は左大臣の座を顕光に譲り、内大臣公季が右大臣になると道長の息子の頼通が内大臣になり、摂政となった。 ここで道長は従一位に叙せられ、倫子に並んだ。 一方三条はこの後42歳の生涯を終えると、蔵人頭を務めていた明子所生の能信が道長に伝えてきたのは東宮の辞意であった。

 三条帝の臨終の際に中宮・妍子に詠んだ歌が次である。「心にもあらで浮き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな」 悩まされ続けてきた眼病のために、いよいよ眼が見えなくなり、何よりの慰めにしていた降り注ぐ月光を仰ぐことができない気持ちを素直に詠んだ名歌である。 最後の妍子とのやりとりなどは赤染衛門が書いたといわれる「栄華物語」に詳述されており、中宮・妍子も恐怖に陥り、道長や倫子も悲嘆に暮れたという。

 かくして新東宮になったのは後一条の実弟・敦良親王である。 東宮を降りた敦明親王は以前から政争社会に愛想をつかしており、父三条が亡くなり、いよいよ孤立していく自分を感じたのであろう。 これ以降敦明康親は小一条院と呼ばれ道長からは上皇並みの待遇を受け、明子所生の寛子とも結婚し、寛子・明子がいる高松殿に通い始めている。

 2018年1月3日、後一条帝の元服が行われると、前年になった太政大臣をやめてしまった道長にまたしても幸運が迫る。 円融の后であた太皇太后・遵子が他界し、皇太后・彰子がその座につき、また、妍子25歳が皇太后になったのである。 そして3月7日、従三位尚侍の地位を与えられている威子を後一条帝に入内させた。 10月16日、威子が20歳で立后し、中宮となったが、後一条は元服を済ませたばかりの9歳であり、叔母甥の関係にあたる。威子はこの入内には乗り気ではなかったが、太皇太后・彰子の説得が功を奏している。

 三条帝時代に焼失した内裏が完成し、後一条帝は母・彰子とともにここに移った。後一条帝は清涼殿、彰子は弘徽殿、東宮・敦良親王は凝華殿に入り、女御の宣旨を受けた威子は飛香舎にはいった。 道長の上東門邸も再建を終え、源朝光からの献上物で埋め尽くされたのには度肝を抜かれた。 藤原実資などは新邸に早速駆けつけて世辞を忘れてはないが、日記には汚れた手の奉仕と、書き綴っている。 あと残された絵巻は女御・威子の立后である。 2018年10月、威子が新邸に里下りをしたとき、勅使より立后の儀の報告を受け、改めて内裏入りするのである。立后宣下は10月16日。 道長は早々を参内して立后の儀に参列する。 こうして無事に儀が終わると華やかな酒宴となり、この時に道長は彰子、妍子、威子の3人の娘を立后させた喜びを「この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることのなしと思えば」と詠ったのはあまりにも有名である。 道長の栄華を称えた「栄華物語」にはこの歌は載ってはおらず、藤原実資の「小右記」により語り継がれているのである。

 この頃から道長の持病が再発して1019年3月21日、比叡山の僧侶・法印院ん源の手により受戒の儀式が行われ、娘、公卿連中ともども慌てふためいている。当時病気の特効薬は出家であったが、ご利益がないままに、道長は政治の表舞台から引退する。 実はこのとき道長には遣り残した仕事があった。それは嬉子の入内である。威子に代わって尚侍に任じられていた13歳の彼女が東宮・敦良親王の后になったのは1021年2月1日。 倫子は母として、全てを終えたその月に出家した。 あとは威子、嬉子の出産を待つばかりである。 この頃道長の周りにはめでたいことばかりではなく、7月9日に小一条院・敦明親王妃・寛子が27歳で他界している。そして1025年8月3日、嬉子19歳は、東宮の第一皇子・親仁親王を出産するのであるが、その二日後に他界した。実は、明子所生の顕信も2年後の5月に亡くなり、9月14日には皇太后・妍子も34歳で忘れ形見・禎子内親王を残して崩御している。

後朱雀天皇皇后であり三条天皇の第三皇女・禎子内親王御陵(撮影:クロウ)

 

 この頃世は乱れ、1052年から末法の世が始まると信じられていた。道長が仏寺の造営に力を入れたのもそのためである。上東門邸の東に造営された中河御堂は後に法成寺と呼ばれ規模を拡大していく。嬉子の死後、三昧堂が建てられ、妍子の為に阿弥陀堂で大掛かりな供養が営まれた。 道長がこの世を去るのは妍子の死後間もなくの12月4日である。 妍子の死の直後から痩せ衰え、重態に陥り背中の腫瘍の切開に手間取ったために病状がさらに悪化した後に息を引き取った。

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