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平安絵巻六 藤原彰子

2007年01月15日 | 平安時代

平安絵巻六 藤原彰子

 1001年、詮子の遺児に対する面倒は、明らかに霊に対する鎮魂の意がある。彰子も、まだ子供がいないこともあり、敦康親王の世話をこの頃から始めるのである。詮子の体調が膠着状態のまま、道長は詮子の四十の賀を9月14日に催した。が、この直後いよいよ重態に陥った詮子は髪を剃り、12月16日には伊周を本位に戻すが甲斐むなしく12月22日にこの世を去ったのである。

 暫く時は流れて1002年8月3日、故道隆次女・東宮女御原子が亡くなり、1003年2月20日、長男・頼通が12歳で元服し正五位下となり、同28日侍従に叙された。1004年12月26日には道長次男・頼宗が13歳で元服し従五位上となる。1005年12月29日には紫式部が中宮彰子のもとへ出仕したと思われる。1006年12月5日、道長三男・教通が11歳で元服し正五位下となり、同16日侍従。道長五男・能信は12歳で元服し従五位上侍従に叙せられた。そして翌1007年、倫子が6人目を身篭った。43歳のときである。 この時彰子中宮は19歳になっていたが懐妊の兆しはなく、道長はご利益を得ようと5月17日に御嶽(みたけ)詣のための精進潔斎を開始した。御嶽詣というのは吉野山奥の金峯山寺に詣でることをいう。そして8月2日に御嶽詣のための出発である。

 御嶽詣の効果があったのか、翌1008年9月11日昼、中宮彰子が第一皇子敦成(後一条天皇)を出産した。土御門邸の白い御帳台での詳細は紫式部日記に詳しく書かれている。1005年に出仕した紫式部は、このときには源氏物語を書き進めている。当時彰子に仕えていた赤染衛門の夫・大江匡衡は文章博士であり、今誕生した第一子に敦成という名を選んだのである。 また親王家の別当には権中納言の藤原斉信が選ばれ、中宮の母・倫子は従一位に叙せられた。道長が正一位であったから夫を超えてしまったことになる。

 1009年1月17日、帰京して復官した伊周は正二位となったが2月20日、朝参を差し止められた。 内裏で呪詛の符が見つかったからである。呪詛したのは高階光子。伊周の母・高階貴子の妹で今は亡き中宮定子に乳母として仕えていた女性である。検非違使が逮捕に向かったときには光子は行方知れずであった。 一条院を詮子に献上し、定子の第一子・敦康親王を次期東宮にと画策してはいたものの、今となっては詮子は亡くなり、敦康は彰子の庇護のもとにいる。彰子に男子が生まれれば敦康の東宮への道は絶たれ、高階一族が立ち直る可能性はなくなる。 従って光子が敦成の命を狙って呪詛した・・というのである。そして一条帝の意向を受けて発表されたのは光子及び高階家の官界追放と伊周への内裏への立ち入り禁止であった。

 暮れの11月25日中宮彰子が第二皇子敦良親王(後の後朱雀天皇)を出産する。続けざまに男子を産むとは彰子の強運も父親譲りである。彰子の妹・妍子は今年17歳で、以前から尚侍に任じられて宮中入りをしていたが、道長は東宮の後宮に入れるつもりでいた。東宮の妃・原子は既に他界しており、故大納言・済時の娘・娍子がいるだけとはいうものの東宮との結婚生活も長く多くの子供に恵まれているから、そこに割り込むのは並大抵ではない。かくして道長次女・尚侍妍子は従二位に叙せられると1010年1月20日に入内を果たした。この直後の1月28日に伊周が37歳でこの世を去った。 若き才能の持ち主ではあったが道長の強運に押しつぶされるかのように去った。臨終間際まで定子の忘れ形見を気にかけ、残した娘にも物笑いの種にならないようにと言い残したが、 後に伊周の娘の一人は明子の所生・頼宗と結婚し、残る一人は彰子に仕える身となっている。

 翌1011年再建された一条院へ移ったのも束の間、俄かに体調を崩していた一条帝の容態はどうにもならない状態になっていた。 全幅の信頼を寄せている権中納言・藤原行成を呼び寄せて次期東宮についての相談をしている。定子・伊周亡き後、脩子内親王、敦康親王に対して細かい気遣いを見せている行成も、次期東宮は二宮・敦成親王を推している。かくして6月13日に譲位した一条は19日に出家すると22日に片時も離れずにいた妻・彰子の手を握り、32歳の生涯を閉じた。

一条・堀河天皇合葬陵(撮影:クロウ)

 

 10月16日、一条の後、居貞東宮が三条帝として即位した。一条よりも4歳年上の三条帝は36歳である。三条帝は道長の姉・超子と冷泉上皇の間にできた皇子で、娍子という藤原済時の娘を妻とし敦明親王をはじめ敦儀、敦平、師明親王、当子内親王、子内親王と子に恵まれているが、後ろ盾藤原済時を亡くした今となっては、昨年入内した妍子が道長という後ろ盾を持ち、うまくやっていくだろう。三条帝はそれまで住んでいた道長の東三条邸を後に内裏へ移ると慣例とおり道長の息子、頼通・教通・頼通の妻隆子女王らに叙位を行うと、道長へは関白をすすめたが、これは流石に断っている。左大臣として権勢を充分に振るうことができる今、関白になる必要などないからである。そして直後の10月24日に18歳で即位、20歳で譲位、その後42年にわたって上皇を務めた冷泉がこの世を去った。

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