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陽成院と元良親王

2007年01月17日 | 平安時代

陽成院とその一宮・元良親王の悲劇

 876年、病身で政治に倦んだ父・清和の譲りを受けて貞明親王は陽成天皇として9歳で即位し、母・高子とその兄・基経の庇護の下に成長する。 政界の兄・基経と内廷を支配する妹・高子は連携どころか対立を深めた。 兄は学問好きの実直な性格、妹は自由奔放な人柄である。高子は当代きっての花形・在原業平を蔵人頭に抜擢する。業平は和歌は作るが才学は無く、基経に評価されるはずもない。陽成の乱行に業を煮やした基経は陽成を廃位し、皇族の長老・時康親王を立てて光孝天皇として即位させた。基経と光孝天皇は母同士が姉妹であり古くからの友人であり、その温厚で優雅な人柄は正史に「性、風流多し」と記されたほどである。基経は光孝を立てることにより群臣の総意を纏めることができ、存分に権力を振るうことが出来たが、光孝帝は死に臨んで第7皇子の源定省を次期皇位に就けることを望み、また基経の妹で尚侍・淑子(定省を養子にしていた)の政治力にも押されて承認せざるを得なかった。思いもよらず、王位についた光孝帝と宇多帝は、後に陽成上皇に罵声を浴びせられている。陽成上皇にしてみれば、格が違うというところだろう。先に触れたように陽成上皇の母・高子は奔放な性格だった。そして高子が建立した東光寺の僧・善祐と高子は密通しており、高子55歳の時に表沙汰にされている。極めて老いらくの恋であるが・・・。このとき丁度、宇多天皇が我が系統を確保するために醍醐天皇に譲位する直前であるから、陽成上皇に罵倒された仕返しともいえる政治的な策略の感がある。896年高子の密通は暴露され廃位が決まると、僧・善祐は流され、高子は910年に69歳の生涯を閉じた。 

 一方の宇多上皇も腹心の菅原道真の追放によって政治から切り離されたため、高子との対立は自然と解消し、太平の世が続くことになる。宇多上皇が同母妹の釣殿の皇女・綏子内親王を陽成院に婚嫁せしめたのも政情安定を考えたためか。 「筑波嶺の  峰より落つる みなの川  恋ぞつもりて  淵となりぬる」と陽成院が詠んだ百人一首にもある相手が宇多上皇の妹・綏子内親王である。 陽成院は父・清和や嵯峨のように子沢山ではない。当時としては少ない9人である。因みに文化人嵯峨天皇には50人余りの子女がいるし、陽成院の父・清和は後宮において30人ばかりの女性を相手にしている。 陽成院はひょっとしたら純情な思いで恋をしたのかもしれない。そして綏子内親王との間には元良親王が生まれたが、隔世遺伝のためか元良親王は極めて色好みであり、彼の死後間もなく成立した大和物語に見ることが出来る。数ある恋のなかでもひとかたならぬ恋は、京極のみやす所との恋、つまり藤原褒子といって左大臣・藤原時平の娘との熱愛である。 実は藤原褒子は醍醐天皇の女御として入内することになっていたが、その美貌に一目ぼれした宇多法皇が有無を言わさず我が物にして、六条京極の河原院に置いて寵愛したという。 当時、宇多法皇と褒子の父・藤原時平とは菅原道真の左遷をめぐって対立していたので、褒子の入内は両者の和解のための政略結婚とも考えられるが、なにしろ3人の子をもうけているから寵愛を受けたのには間違いない。

宇多天皇陵へ通じる参道(撮影:クロウ)

 六条河原院で宇多法皇と褒子が月夜の晩に仲むつまじく愛を交わしていた時、河原左大臣(源融)の亡霊が現れて宇多の腰にしがみつき、褒子は失神したという。 源融はもともと河原院の持ち主であったが、孫姫・源貞子を宇多の更衣として入内させている。そして寵愛を受けさせたかったこともあり、ここ河原院を献上したのであるが、宇多は源貞子をあまり寵愛しなかったために、亡霊として現れたという史実が残っている。 この話は、源氏物語の「夕顔」の巻きの素材として使われた話と考えられている。

 

六条河原院のモデルとされた京都・渉成園左が臨池亭 正面が滴翠軒   傍花閣(撮影:クロウ)

  

 元良親王は、この藤原褒子と密通したのである。陽成院が敗退しなければ、一宮・元良親王は皇位についていたはずであるから、宇多上皇に対する挑戦とも思える密通である。

わびぬればいまはた同じ難波なる身を尽くしてもあはんとぞ思ふ

百人一首 陽成院百人一首 元良親王

 元良親王が藤原褒子に逢う為に、身の破滅を覚悟で送った詩である。

 元良親王のその後であるが、史実には彼の身の破滅は伝えられていない。藤原褒子は亡き宇多上皇を慕って次のような詩を詠んでいる事からも、元良親王の褒子に対する思いが叶えられずに、ある意味で悲劇の人になれなかったことは一層心に染入る感じがするのである。

すみぞめの濃きも薄きも見る時はかさねてものぞかなしかるける

        ┣朝忠 
     ┣ 定方 ┣藤原穆子 
     ┣ 胤子      ┃   婉子972-998(為平親王娘,花山女御) 
 ┣藤原高藤  ┣醍醐天皇 ┃    ┣資平(養子)かぐや姫   
良門      ┣敦実親王 ┣倫子┏実資サネスケ957-1046(小右記)実頼三男・斉敏四男 
順子     59宇多帝   ┣源雅信-993┣頼忠924-989┳公任966-1041 
            ┏娘     ┃      ┗遵子957-1017(円融妃)
長良802-856       ┣褒子(宇多妃)┃
 ┣国経       ┏時平871-909  ┣敦敏912-947┳佐理スケマサ944-998 (懐妊中死亡)
 ┣遠経       ┃  (小野宮殿)┃      ┗為光妻     藤原忯子-985
  ┃             ┃  ┏実頼 ━╋斉敏928-973━懐平 63冷泉帝 ┣
 ┣基経836-891   ━╋仲平┃(九条殿)┗述子933-947(村上女御)┣65花山帝(師貞親王)
 ┣淑子         ┣忠平╋師輔-960━┳伊尹(一条殿)    ┳懐子 
 ┣高子842-910    ┃-949┗師尹      ┣為光942-992   ┣挙賢 清少納言
 ┃┣貞保      ┃   (小一条)  ┃(母:雅子内親王)┃   ┃
 ┃┣敦子      ┃    ┣芳子   ┃ ┣誠信964-1001┣義孝━行成
 ┃┣陽成帝869-949 ┃    ┃(村上妃┃  ┣斉信967-1035┣義懐ヨシチカ
 ┃┗━━━━━━┓┃    ┗済時995┃ ┃タダノブ  恵子女王
乙春   ┣元良-943┃┃      ┣為任┃ ┗忯子(花山妃)
   ┏綏子-925  ┃┃      ┃  ┃
   ┣簡子-914  ┃┃     ┗娍子┃(堀川殿)  ┏媓子(円融中宮)   
   ┣周子-912   ┃┃    (三条妃)┣兼通925-977╋顕光┳元子(一条帝女御)┓
   ┣定省867-931┃┣頼子(清和女御) ┃         ┗朝光┗延子(敦明女御)  ┃
 58光孝帝     ┃┣妹子(清和女御) ┃キンスエ   ┗姚子(花山帝女御)  ┃
 55文徳帝     ┃┃        ┣公季957-1029━義子(一条帝女御),実成┃
      ┣清和850-881┃        ┃(母:康子内親王)           ┃
    ┣惟喬親王  ┣温子(宇多女御) ┣兼家929-990(東三条殿)         ┃
 潔姫 ┣恬子内親王 ┃        ┣安子927-964              ┃
  ┣明子      ┗穏子885-954 盛子-943┣憲平親王(冷泉帝63代967年)     ┃
 良房804-872      ┃         ┣守平親王(円融帝64代969年)     ┃
     淑姫      ┣寛明親王(61朱雀帝)┣為平親王(安和の変で失脚)      ┃
     ┣源兼明   ┃         ┣姫宮 ┣    源頼定         ┛
        ┃16皇子   ┣成明親王(62村上帝)-967 高明娘保子┣ ?     
    60醍醐天皇885-930               ┃          ┃
      ┣源高明914-983(第十皇子)    ┣広平親王     綏子(すいし)
      ┣雅子内親王(斎宮,師輔室)   祐姫
        源周子-912              藤原元方┛南家の学者    

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