有智子内親王墓
京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町、京都嵯峨野、落柿舎のとなりに有智子内親王墓はあります。 実は嵯峨野の落柿舎には何度か行ったことはあるのですが、有智子内親王の墓があるとは最近まで知りませんでした。 再度嵯峨野を訪れたときには是非とも行ってみたいと思います。
落柿舎の入り口前にある看板(撮影:クロウ)
平安時代807-847年に生きた有智子内親王は嵯峨天皇の第八皇女として、母を交野女王に持ち、生まれます。 弘仁元年(810年)4歳で賀茂の齋院となり、823年三品に叙せられ、さらに二品に上り、承知14年に41歳で崩じます。 平安朝随一の女流詩人としてだけではなく、歴史的には「賀茂斎王の初まり」としての有名です。 810年、薬子の変を平定した嵯峨天皇は、戦勝の礼と、平安京の安泰を願って、賀茂社に、4才の皇女、有智子内親王を捧げます。 そして伊勢神宮の斎宮にならって賀茂斎院を設立し、伊勢斎宮と同様に、賀茂斎院に入る前には「野宮」と呼ばれる潔斎所で禊ぎを行い、3年間の潔斎を経て斎院へ移ったのです。 「延喜式」巻五・斎宮によれば、卜定によって選ばれた斎王は、まず宮城内の初斎院にて1年間を過ごし、翌年8月上旬に初斎院から野宮に入り、野宮でさらに1年間、翌年9月の伊勢群行/賀茂斎院入院までの期間を精進潔斎します。 天皇が在位している間、斎院は賀茂神社で居住し、退下は天皇の譲位か肉親の喪による時なのは、伊勢斎王と同じである。 野宮は斎王が選ばれる毎に占定によって造られ、伊勢斎宮の場合は嵯峨野に、賀茂斎院の場合は紫野・有栖川に作られたが、必ずしも一定した場所が定まっていたわけではないようである。 賀茂斎院の場所は、一条大路の北方、紫野に所在したため紫野斎院とか、略して紫野院とも呼ばれ単に野宮とも称していた。 今日の京都市上京区の七野(ななの)神社がその跡といわれている。斎院にも伊勢斎宮同様に斎院司という役所があり、長官以下の官人や多くの女官たちが働いていた。
有智子は斎院を退いた後は、嵯峨西荘に住み、生涯を通して独身のまま、847年に41才で没しました。有智子 の墓は京都嵯峨野の落柿舎のすぐ西隣にあり、そこは彼女の春日山荘の跡であります。 因みに「落柿舎」は、松尾芭蕉の門人向井去来の宅で、芭蕉もここに滞在したことがあるといいます。 斎院は嵯峨天皇から順徳天皇まで4百年ばかり続いたが、それは神祇史の上ばかりでなく、平安文学にとっても欠くこ とのできない役割を果たしました。 初代斎王の有智子内親王にはじまり、選子(のぶこ)内 親王、祐子(みわこ)内親王、式子(のりこ)内親王等は錚々たる閨秀歌人であった。式子内親王彼女は、「新古今和 歌集」随一の女流歌人である。