平城京の一角に左大臣・長屋王676-729の邸宅があり、その跡地から無数の木簡が出土した。その木簡から長屋王の妹とみられる竹野女王に送られたとみられるさまざまな食材の木簡が発見された。竹野女王、まさに丹波にゆかりのある女性であり、ここからも丹波の食材が一級品であったことが伺える。丹波は機内では播磨、近江についで農業の盛んなところであったことが和名抄に記載の田の面積からわかる。天皇が即位後はじめて新穀を天照大神に供える儀式が大嘗祭であり、この祭りで用いる新穀を栽培する国の筆頭が近江、二番目が丹波と備中であったという。その昔、天照大神の朝夕の御食の神にした等由気大神が丹波にあり、伊勢の山田村に移したという。 そこが伊勢神宮の外宮であり、豊受大神として祀られているのである。考えてみると現在の丹波は米だけではなく、大豆、小豆、松茸、猪肉、栗など多くの食材で有名な産地であり、当時と何らかわっていないのかもしれない。
長屋王妹・竹野女王へ贈られた米荷の木簡
竹野皇子二取米三升○余女 竹野王子進米一升大津/甥万呂/ 竹野王子御所進粥米二升受老
この時代をさかのぼること約300年、但馬国を支配していた覇者がいた。彼の墓と云われるのが和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中にある茶すり山古墳という畿内随一の大型円墳である。直径約90m、高さ約18mの円墳で、2段に築成されていたと考えられる。墳頂には東西約36m、南北約30mの楕円形の広い平坦面があり、円筒埴輪が並べられていた。
墳頂部には二つの埋葬施設があり、大型の第1主体部とこれより小さい第2主体部が並んでいる。調査の結果、ヤマト政権と強く結びついた首長の墓であることが確認されている。棺内から多量の副葬品が出土、盤龍鏡をはじめとした銅鏡4面、畿内以外からの出土は極めて珍しい三角板革綴襟付短甲を含む2組の甲冑類、ほかにも、1埋葬施設からは刀剣類や鉄鏃など多量の武器が出土しており、ここに葬られた人物が相当な武力を持って、この地域を治めていた人であったことが想像される。