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稲作の伝来は朝鮮半島からではないかも

2021年06月01日 | 陵 古墳 墓 遺跡

【稲作が伝来したのはいつなのか】  

【奈良県御所市の中西・秋津遺跡】

約2300年前の弥生時代に朝鮮半島から渡来人によってもたらされたというのが通説である。ところが2019年に奈良県御所市の中西・秋津遺跡で2400年前の水田3500平米が発見された。確認された水田跡面積は43000平米にも及び、朝鮮半島から渡来人が来る前に大規模な水田が存在したことを意味する。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになった。プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。最も古いプラントオパールというと、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されています。かくして1990年代に入って、ようやく縄文時代にも稲作があったということが考古学界でも認められるようになったという。

【青森・三内丸山遺跡という縄文遺跡】

およそ5000年前、縄文人がクリを大量に栽培していたという。普通、野生植物の集団というのは、DNAの並びはバラバラであるが、三内丸山遺跡のクリの場合は、DNAパターンが揃っていて意図的に選抜して植林したため考えられる。つまりクリを育てるという高度な知識が4000年以上も前からあったと推測できる。さらに、ヒョウタンやマメ、ゴボウなどの栽培植物も発見されている。

【稲作の伝来は朝鮮半島からだけではない】

実は、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分った。これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になる。いろいろな時代のいろいろな遺跡の稲のDNAを調べることによって、どこからどのルートでその遺跡に稲作が伝わってきたのかが見えてくる。

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