思想家、橋本左内は幕末の日本を維新へと導いた人物。その意思を受け継いだ由利公正。福井の天才二人が仕えたのは松平春嶽である。1856年末日本の将来を憂いていた左内は薩摩藩邸に西郷隆盛を訪ねた。左内22歳、西郷29歳の時である。左内は福井城下町の一角で藩医の子として産まれ、元服した15歳で記した啓発録が今でも福井県民の常識となっている。後に医学を学ぶために大坂の適塾に入り最新の西洋医学を学んだ。その二年後にペリーが来航している。左内22歳の時、福井城に呼ばれ、藩主・松平春嶽の側近に抜擢されたのである。そして攘夷についての調査を命じられた。左内は江戸にのぼり、諸外国の国力を探るとともに優れた人物との交流を深めていった。1年後の1856年左内は春嶽に、攘夷ではなく開国論を進言した。有力な福井藩が攘夷から開国に変更したことで時代は動き始める。
左内は世界がどうなっているのかを正確に把握し、日本が今後どういう道をすすむべきかを考えていた。左内24歳の時、春嶽から新たな命をうけた。福井藩の学校責任者に任命されたとき、由利公正と出会う。その頃の江戸幕府は諸外国からの交易を迫られ、将軍・家定は病弱で政治手腕は震えなかった。徳川一門の松平春嶽は次の将軍に慶喜を押した。ここで左内は四賢侯といわれる伊達宗城、山内容堂、島津斉彬、松平春嶽を集め、オランダ本の講読会と称して春嶽の構想を伝え、一橋派の結束を固めた。しかし、ここに立ちはだかったのが幕府の大老・井伊直弼である。将軍継承には徳川家茂としたことで一橋派の構想は頓挫した。一方、福井藩の財政は軍事費の拡大により困窮を極めていた。井伊直弼の独断で日米通商条約が結ばれ諸外国との交易が始まると、由利公正は藩札を発行して元手を得、交易を始めた。また、左内は独断で交易を結んだことに怒りを覚えていた朝廷を利用して井伊直弼打倒を目指した。ところが井伊はこういう動きの徹底粛清を1858年7月始めた。いわゆる安政の大獄である。一橋派の公家には隠居謹慎を命じ、左内は1859年10月7日斬首となった。