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福井-3 羽柴秀長(1540-1591 豊臣秀吉の弟)の墓

2021年11月14日 | 戦国時代

1573年  浅井氏滅亡により長浜城城代 藤堂高虎が仕官 

1574年  長島一向一揆討伐

1575年  羽柴の名字を与えられる

     中国攻めのときには、山陰道及び但馬国平定の指揮

1578年  別所長治討伐 黒井城の戦いに参戦

1579年  別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃(三木合戦)

1580年  1月に三木合戦が終戦  但馬国平定  秀長は有子山城主となる 

1581年  3月に吉川経家が鳥取城に入城  秀吉は鳥取城を取り囲み兵糧攻め開始(鳥取城の戦い)

1582年  4月、秀吉軍は備中高松城を包囲し、水攻めを行う(備中高松城の戦い)。秀長は鼓山付近に陣を張り参戦、城主・清水宗治が切腹

1582年  6月、本能寺の変、秀吉軍は毛利家と和睦協定、畿内へ撤退 秀長も山崎の戦いに参戦

1583年  賤ヶ岳の戦いに参戦  

1584年  小牧・長久手の戦いでは守山に進軍 信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉 

1585年  紀州征伐 和歌山城の築城時に藤堂高虎を普請奉行に任命

1586年  3月、摂津国有馬湯山へ入る

1587年  九州平定では日向方面の総大将として出陣(根白坂の戦い)

1591年  2月、秀長は郡山城内で病死 家督は養嗣子・秀保に継がせた 

1595年  秀長の家系は秀保が17歳で死去したことにより断絶

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