1573年 浅井氏滅亡により長浜城城代 藤堂高虎が仕官
1574年 長島一向一揆討伐
1575年 羽柴の名字を与えられる
中国攻めのときには、山陰道及び但馬国平定の指揮
1578年 別所長治討伐 黒井城の戦いに参戦
1579年 別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃(三木合戦)
1580年 1月に三木合戦が終戦 但馬国平定 秀長は有子山城主となる
1581年 3月に吉川経家が鳥取城に入城 秀吉は鳥取城を取り囲み兵糧攻め開始(鳥取城の戦い)
1582年 4月、秀吉軍は備中高松城を包囲し、水攻めを行う(備中高松城の戦い)。秀長は鼓山付近に陣を張り参戦、城主・清水宗治が切腹
1582年 6月、本能寺の変、秀吉軍は毛利家と和睦協定、畿内へ撤退 秀長も山崎の戦いに参戦
1583年 賤ヶ岳の戦いに参戦
1584年 小牧・長久手の戦いでは守山に進軍 信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉
1585年 紀州征伐 和歌山城の築城時に藤堂高虎を普請奉行に任命
1586年 3月、摂津国有馬湯山へ入る
1587年 九州平定では日向方面の総大将として出陣(根白坂の戦い)
1591年 2月、秀長は郡山城内で病死 家督は養嗣子・秀保に継がせた
1595年 秀長の家系は秀保が17歳で死去したことにより断絶