島津17代当主・島津義弘は島津貴久の次男として生まれ、足利義昭から諱を賜って義珍と改め、更に義弘と改めた。 豊臣政権にはは協力的で1592年、1597年の二度に渡る朝鮮出兵に参加し、敵兵38717人を討ち取ったといわれる。この勝利により、島津軍は「鬼石曼子」と呼ばれて恐れられ、武名を明にまで轟かせたという。徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評しており、島津恐るべしの思いを強くしたといわれる。 後に関ヶ原の戦いでは西軍に参加し徳川軍に破れたときに敵中突破を果たして退却した。薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川との対決姿勢を図り、国境を固める一方で全知全能を傾けて徳川との和平交渉にあたり、1602年島津本領安堵は決定されると義弘の三男・島津忠恒(長男・久保は文禄の役で陣没、次男は夭折)への家督譲渡が無事承認された。
この時代から約250年後に再び島津藩に登場したのが島津斉彬(11代薩摩藩主)で、 尊王攘夷という国民運動ともいえる流れのなかで、開国・近代化を具体的に推進した。 外国人を先生にして技術を学び交易を結ぶことが祖国を売る裏切り者とする風潮が高まり、開国論者が暗殺されるという危険な状況のなかで道を開いた。黒船の大砲に対抗するために、溶鉱炉の建設から始め、蒸気機関によるわが国最初の軍艦・汽船を作り交易を盛んに行ったが、これを薩摩だけにとどめることなく日本全体のものにする構想を持っていた。 幕府は井伊直弼を大老にして開国し強引な弾圧によって反対派を抑えようとしたが、後に安政の大獄という形で井伊直弼は暗殺される。 島津斉彬はこれを阻止しようと挙兵を決意し、西郷隆盛を先遣隊として準備を整え、自らは3千の将兵を率いて上洛しようとしたのであるが真夏に赤痢で急死した。 藩主ひとりが赤痢で急死するのもおかしな話で、薩摩の現体制を保守すべきとする旧勢力によって毒殺されたという説もあるという。
16代島津義久1566-1587
┗17代義弘━18代忠恒(初代薩摩藩主)━2代光久━3代綱貴━4代吉貴━5代継豊┓
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┗6代宗信━7代重年━8代重豪┓
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┣広大院1773-1844(11代徳川家斉正室) 徳川宗尹┓
┗島津斉宣1774-1841(第9代薩摩藩主 母:春光院 養母:保姫)
┣島津斉興1791-1859(第10代薩摩藩主)
┣┃┃━島津忠剛1806-1854(今泉家10代当主)
┃┃┃ ┃┃ ┣忠冬1824-1859(今泉家11代当主)
┃┃┃ ┃┃ ┣久敬1829-
┃┃┃ ┃┃島津久丙 ┣一1836-1883
┃┃┃ ┃┃ ┗お幸(島津久丙娘)-1869
┃┃┃ ┃┣島津忠敬1832-1892(今泉家12代当主)
┃┃┃ ┃河野通記娘
┃┃┃ ┣お熊1838-1842
┃┃┃ ┣お龍1840-1840
┃┃┃ 海老原庄蔵娘
┣┃┃━松平勝善1817-1856(伊予松山12代藩主)
┃┃┃ ┗松平勝成(聟養嗣)
┃┃┃ 貞姫(斉彬娘)
┗┃┃━郁姫(島津興子)1807-1850 ┣篤麿1863-1904
┃┃ ┣忠房1838-1873
┃┃ 近衛忠熈1808-1898(安政の大獄で失脚)
┃┃
┃┃直仁親王┓
┃┃ 鷹司政熈(関白)┓一条忠良(公卿)┓堀利邦(旗本)┓
┃┃ 鷹司任子(天親院),一条秀子(澄心院),お志賀(豊倹院)
┃┃徳川家慶1793-1853 ┣-
┃┃ ┣13代徳川家定1824-1858
┃┃実津 ┣-
┃┃ ┏篤姫1836-1883(近衛忠熈養女)
┃┣島津斉彬1809-1858
┃┃ ┃┃┣夭折
┃┃ ┃┃恒姫(徳川斉敦娘)1805-1858
┃┃ ┃┣寛之助1845-1848
┃┃ ┃横瀬克己娘
┃┃ ┣篤之助
┃┃ ┣暐姫(島津忠義室)1851-1869
┃┃ ┣典姫(島津珍彦室)
┃┃ ┣寧姫(島津忠義室)1853-1879近衛忠熈養女
┃┃ 伊集院寿満
┃┣池田斉敏1811-1842
┃┣候姫1815-1880
┃┃┣- 督姫(家康次女)
┃┃山内豊熈1815-1848
┃周子(池田治道娘)
┣島津久光1817-1887
┃┃┣忠義1840-1897薩摩藩12代藩主
┃┃┣久治1841-1872宮之城家15代当主
┃┃┣珍彦 重富家
┃┃島津千百子
┃┗忠欣 今和泉家
┣唯七郎
┣智姫
由羅1795-1866斉彬廃嫡を謀略(お由羅騒動)