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永観堂

2009年09月30日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 紅葉で知られる永観堂は禅林寺という正式名称を持っている。 この寺の創建は極めて古く、南禅寺が禅寺・永観堂の南に位置したから命名されたくらいである。 禅の名がついているが、禅寺ではなく最初は真言宗、後に浄土宗の寺となった。 永観というのは、かつてこの寺の住持だった僧の名前であるが開祖ではない。 永観堂の開山は空海の高弟・真紹僧都(797-873)で、清和天皇から863年に禅林という寺名を与えられこのときに開いた道場が永観堂の起源となったという。 真紹僧都から第7代の住持として永観がこの寺にきた。 学問に励む永観は浄土教の影響を受けて念仏信仰の道に入り、平等院鳳凰堂を建てた藤原頼通などの知遇を受けたが、光明山に隠棲生活を送り始めた。 1072年に再び禅林寺にもどった永観は一生をこの地で過ごした。 勧進や地域開発を行った行基のように、永観も衆生救済のために奔走し京都の人々から親しまれたという。

 当時の念仏者たちは恵心僧都・源信の往生要集が説く観想念仏をさらに進めて称名念仏を説き、当時の人々に受け入れられた。 この教えはその後に登場する法然に受け継がれた。 真言宗だった永観堂が浄土宗に変わったのは第12代の住持・静遍僧都(1166-1224)の頃という。 静遍僧都は平頼盛の子であり、池禅尼の孫に当たる。 つまり源頼朝が平家を滅亡させた後も頼盛一族だけは池禅尼から受けた庇護を恩に思い保護さえ行った。 そして静遍僧都は真言密教の僧として 名声を得るようになる。 静遍僧都は笠置の貞慶僧都を師と仰ぎ、論敵の法然を論破しようと貞慶の意思を受け継いだ。 しかし法然の念仏集を読むうちに自分の間違いに気づき、法然の信仰に傾倒していくのである。 この静遍僧都の後を継いだのが善恵坊証空である。 証空は法然の高弟のひとりで念仏は徹底していた浄土宗西山派の開基という。 そして応仁の乱の頃には永観堂は真言・浄土の寺ではなく阿弥陀仏を本尊とする浄土宗西山派の寺にかわっていった。 本尊の阿弥陀如来は「みかえり阿弥陀」として知られており、永観が修行中に合掌をして祈ると阿弥陀は振り返ったことから、その姿をとどめてつくられたという。念仏を唱えて阿弥陀来迎を待ち望むというのは当時の人々には普通のことであり、熱心な浄土教の信者であった藤原道長も臨終の際には阿弥陀如来像から五色のひもを引き、そのひもの先を握り締めて息をひきとったという。

 

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