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後深草院二条

2008年11月22日 | 鎌倉・室町時代

 後深草院二条(1258-)は中院雅忠の娘で鎌倉時代後期に89代・後深草上皇をはじめとして数人の男性との恋の遍歴を繰り広げた女性です。 そして彼女がつづった日記「とわずがたり」では、旅がすきで、出家後の1288年には熱田、江ノ島、鎌倉を旅し翌年には善光寺や浅草を訪れるなど長期の旅を続けている。 

 4歳から院の後宮に上がっていた後深草院二条は14歳のときの文永8年(1271)に後深草院の寵愛を受ける。 翌年、後深草院二条は父親・源雅忠を失う。 母親を2歳のときに失っていた後深草院二条は両親を失った悲しみと寂しさから、以前から慕っていた「雪の曙」という男性と交わってしまうが、その翌年の文永10年、後深草院の皇子を生んだ。 しかし後深草院二条は後深草院に偽って、雪の曙とのあいだに女児も生んだのである。 雪の曙は理解を示して、この子を引き取って自分の妻に育てさせるが、そこに悲報が届いた。 皇子がわずか2歳で死んでしまうのである。後深草院二条はもはや出家するまでと覚悟するが、その決断がなかなかできないでいる。 文永12年のこと、後深草院二条は18歳になっているのだが、その正月に粥杖事件というものが宮中でおこる。  一方、この年に後深草院の弟の亀山院から好意を示され、さらに、御室の仁和寺の門跡の「有明の月」という阿闍梨からも迫られて、契りを結んでしまう。  1年がたった建治3年、20歳の後深草院二条は後深草院と亀山院の遊宴に奉っているとき、またまた女楽事件という失踪騒動をおこしてしまう。 こんな後深草院二条に魅力を感じた近衛の大殿という男性と後深草院二条は交わりをもつことになる。  弘安4年(1281)になっていて、後深草院二条はふたたび有明の阿闍梨と交情して懐妊、男児を生む。 ところが後深草院は有明との関係を咎めない。そればかりか、懐妊を知るとその子を院の皇子として引き取って、後宮の女房の一人に育てさせようと言う。 有明が流行病に罹ってあっけなく死んでしまうと、亀山院との仲が世の噂となってきて、宮仕えがしにくくなり、後深草院二条は里居がちになる。 有明とのあいだの第二子も懐妊していることがわかって、自分が育てるしかないと悟る。 弘安6年、26歳のとき、後深草院の中宮であった東二条院がついに怒り、後深草院二条は後宮を退かされる。2年後、後深草院二条の母方の祖父の姉にあたる北山准后の90歳の祝賀会に出席、これまでの栄華を飾る人々との列席のなか、感興ひとしおになる。 後深草院二条31歳の1288年、「雪の曙」の娘が伏見天皇に女御として入内(永福門院)したとき、ここに奉仕する。 ときは流れて32歳の頃、東海道を下って鎌倉に入り、年を越してからは信濃の善光寺に参詣、八月十五夜には武蔵に入って浅草の観音堂を詣で、ふたたび鎌倉に戻っては多くの御家人たちと和歌や続歌を交わしている。 そのあといったん都に帰るのだが、休むまもなく奈良へ修行を試み、さらに石清水八幡に参拝したところで、後深草院の御幸とめぐりあう。  ここでは院が声をかけて一晩を語りあうが、後深草院二条の意志はすでに出家におかれており、その後も熱田神宮や伊勢神宮に赴いている。 36歳の後深草院二条は後深草院からお召しがかかって伏見離宮を訪れ、この数年後には伊勢の二見浦に行っている。 45歳となった後深草院二条は、安芸の厳島神社、讃岐の白峰から坂出の崇徳院御陵、さらには土佐の足摺岬をも訪れて、その2年後の嘉元2年(1304)、それまで後深草院二条を憎んでいた東二条院が亡くなり、やがて後深草院も亡くなる。 この年はまた父親の33回忌にもあたっていて、敷島の道に精進することを誓う。 翌年、柿本人麻呂を讃える人丸影供をみずから営み、熊野に参って写経にも向かった。 そしてその翌年の49歳のとき、石清水八幡宮で後深草院の忘れ形見の女院である遊義門院の御幸に出会って、門院の知遇を得る。 

 そもそも後深草院二条が後宮に入って寵愛されたのには、母親の縁がある。後深草院二条の母親は大納言四条隆親の娘で、後嵯峨院に仕える女房だった。 この家柄では、娘を典侍として内裏女房の重要な位置を占めるのが家の仕事だったのである。 それゆえ母親(大納言典侍)も、後深草院が東二条院(西園寺公子)と結婚するにあたっては、あらかじめ後深草院に性の手ほどきをしていた。 後深草は母親を慕い続けたのであるが、大納言典侍が源雅忠と結婚して、後深草院二条を生んだので、忘れ形見として後深草院二条をそばにおいておきたいと言い出したのだった。 父親は、中院大納言、院政期に力を増してきた一門で、曾祖父が内大臣土御門通親、祖父が太政大臣久我通光という血統である。  後深草院は父・後嵯峨院の譲位をうけて4歳で即位し、17歳で弟の亀山天皇に譲位する。 このとき後深草院二条は僅かに三歳である。 恋の相手として登場した「雪の曙」は西園寺実兼(娘の後京極院、礼成門院を後醍醐天皇の中宮としている)のことで、二条とは9歳年上にあたる。 次に「有明の月」が誰であるかであるが、真言密教の阿闍梨であり仁和寺の法親王の地位にいたもので皇室のかなりの血縁者と考えられる。

 

                        藤原立子(東一条院)
                   修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇  
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181        ┣84順徳天皇 
         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239    平棟子           
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王    
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃  源通子  ┃┣89後深草天皇
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    ┃

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃

 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃藤原嬉子1252-1318(今出河院)                   不明 
 ┃ ┣-   姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)         ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-             阿野廉子  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子┃┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
            ┃      ┣邦良親王     ┃
            ┃      ┣邦省親王     ┃
            ┃     藤原(五辻)宗子    ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
     藤原忠子 ┣懽子内親王       ┃┃┣護良親王1308-1335         
     西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
         ┣西園寺禧子(礼成門院)   ┃┣尊良親王
         ┣左大臣公衡        ┃┣宗良親王  
         ┣太政大臣兼季       ┃二条為子
         ┣西園寺金章子   藤原実俊┣世良親王
         ┗西園寺瑛子       ┃┣静尊法親王
                      ┗遊義院一条局

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