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西園寺姞子の離宮・南禅寺

2008年11月23日 | 鎌倉・室町時代

 哲学の道の最南端に位置する南禅寺から話を始めてみたい。 南禅寺は東西一直線に配置された勅使門、三門、法堂、方丈の規模は大きく塔頭も立派で五山の筆頭である。 五山という制は鎌倉幕府が始めた禅宗寺院の格付けで、後醍醐天皇の建武の新政下では南禅寺と大徳寺を五山の第一位とし、建仁寺、東福寺、建長寺、円覚寺の順位を定めた。南北朝では足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために嵯峨に天竜寺を建立し、足利義満が室町幕府に隣接して相国寺を建立すると五山の制に変化がおこった。 南禅寺を五山の上におき、京五山として天竜、相国、建仁、東福、万寿の各寺を位置づけたのである。 万寿寺はもともと六条御堂ともいい後に東福寺の三聖寺のあった地に移っている。 南禅寺塔頭の金地院の境内は大きく以心崇伝が南禅寺の住持になってから鷹峰より移し、規模を拡大したといわれるが本来の名称は以心崇伝である。 崇伝は1608年から徳川家康の諮問をうけ公家諸法度や武家諸法度の作成にも関与し、黒衣の宰相とよばれて権勢をふるった。 開山堂の前をとおって伏見城の遺構と伝える方丈は崇伝が徳川家光からもらったものである。 方丈の前にある鶴亀の庭は東山を借景にした枯山水庭園は江戸初期に大名茶人として知られる小堀遠州の代表作である。 14世紀に五山派寺院の統制のため僧録が任命され僧録司という役所で管理されたが、金閣寺(鹿苑寺)がその任を務めていたのである。崇伝がこれに任命されてから代々の金寺院の塔主が任じられ江戸時代末まで続いている。

 鎌倉時代に亀山天皇の母・西園寺姞子(後嵯峨天皇皇后)のために造営した離宮を後に禅寺に改めたのが南禅寺の始まりである。このとき亀山は法王、院政は後深草上皇により実権握られていた。 後深草も亀山と同様後嵯峨と西園寺姞子との間の皇子で後深草が兄であるが亀山のほうが先に上皇になった。 兄弟の対立は持明院統、大覚寺統に分離し、南北朝の動乱のきっかけはこの兄弟にあったのである。 大覚寺統の後醍醐が新政府を樹立してから南禅寺を五大の最上位においた背景はここにある。

 南禅寺ができるころ、境内に死霊がでるという噂がたち、それを鎮めるために東福寺の無関普門を招いたら鎮まったという。そこで亀山法王は普門を南禅寺の開山とした。 応仁の乱などの戦火のあとの再興は豊臣秀吉の寺領の安堵からはじまり、法堂の完成、御所の移築による大方丈をみた。また内裏の日御門を移築したのが勅使門である。 寛永年間には徳川の武将として知られる藤堂高虎が壮大な三門を建立して寄進した。 大盗賊の石川五右衛門が「絶景かな」と花を眺めたのはこの三門の楼上である。

 

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