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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

陽明学者・熊沢蕃山

2009年11月07日 | 幕末

 熊沢蕃山1619-1691は江戸時代初期の陽明学者である。 父・野尻藤兵衛一利は織田信長の重臣・佐久間信盛に仕えていたが、信盛が追放されたときに浪人生活をしていたという。 やがて亀女との間に熊沢蕃山は長男として生まれたときも父は浪人生活をしていた。 幕府は大名を取り潰すことによって力を強めていき、浪人が溢れて、由井正雪が反乱を起こしたのは1651年であるから、熊沢蕃山が生まれた30年後である。 蕃山は母方の熊沢家の養子になり、その実家が仕えていた水戸藩で少年期を過ごし、水戸学という思想的影響を受けた。 養父の死後、1634年に池田輝政の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で、輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕することとなった。 備前岡山藩士となった蕃山は日々武芸に励み、3年後の1637年島原の乱に池田光政とともに参陣することを願い出たが受け入れられず、諦めきれない蕃山は光政を追いかけて従軍を申し出たという。 この事件をきっかけに一旦は池田家を離れ、近江国桐原の祖父の家へ戻る。 従軍が許されなかったのは蕃山がまだ元服していなかったためにであるが、当時蕃山は16歳、普通であれば元服していても不思議ではないが、光政と男色の関係であったという説もある。 

 1642年郷里の近江国に帰郷した蕃山は学問の修行のために独学で学問に励み、近江聖人と呼ばれていた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。1645年再び京極氏の口添えで岡山藩に出仕した蕃山は、陽明学に傾倒していた光政に重用されることとなる。 やがて番頭という家老に次ぐ職についた蕃山は1651年庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草し、これが閑谷学校の前身となるのである。 津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組んだが、大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらし、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けることとなった。 林羅山は幕府のおかかえ儒者であり、大学頭である羅山は朱子学の徒でもあり陽明学を学んだ蕃山を異端視する。 蕃山の国の 個性を重要視する陽明学が現実に適応した政治学として受け入れられ諸大名や幕閣に受け入れられたことで朱子学者・羅山や山鹿素行に疎まれた。 熊沢蕃山の政治学は机上の空論ではなく大名・旗本に歓迎されたが、不幸なことに由井正雪の乱が起こった。 浪人の不満が爆発して起こったこの乱で平和であった幕府は一気に警戒する。 つまり政道に批判的な人物・蕃山が警戒の的と成り、林羅山がその傾向を助長するのである。 由井正雪の腹心で槍の名人で知られる丸橋忠弥は蕃山の学問の支持者であり、やがて蕃山は正雪一味の思想的黒幕に仕立て上げられていく。 

 蕃山は、岡山城下を離れ和気郡蕃山村に隠棲を余儀なくされ、1657年幕府と藩の反対派の圧力に耐えがたく、遂に岡山藩を去った。京都に移り私塾を開くが、 時の京都所司代牧野親成により京都から追放され1667年には大和国吉野山に逃れ、1669年幕命により播磨国明石藩主松平信之の預かりとなり太山寺に幽閉されている。

 

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