平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

大河清盛・待賢門院堀河局と令子内親王

2012年03月18日 | 平家物語

 大河清盛では、堀川局は待賢門院藤原璋子1101-1145に仕え、佐藤義清1118-1190(出家して西行)とは何とも言えぬ雰囲気を漂わせた恋仲が描かれている。そこで堀川局の出自を調べてみた。 当時の北面の武士は鳥羽上皇の護衛という大儀のもとに朝廷の女房たちに取り入って自らを引き上げようということも考えていたであろうが、 佐藤義清は堀川局や待賢門院藤原璋子との親交や朝廷との理想的な関係に夢破れて出家するような人物である。 大河には少し脚色が加わりすぎた感があるというのが私の印象である。 堀川局は歌人としても名高い源顕仲(白河皇后・藤原賢子の異母弟)の娘で、姉妹の大夫典侍・上西門院兵衛とともに歌人として名高い。はじめは前斎院・令子内親王1078-1144(白河第三皇女。鳥羽院皇后)に仕え六条と称された。令子内親王は堀川天皇の姉にあたり、甥である鳥羽天皇即位のときに皇后(尊称皇后)となったが、1144年に亡くなると左大文字山近くの「石陰」に埋葬されたという。 義清が出家した数年後のことである。堀川局は1142年の待賢門院の落飾により出家すると仁和寺に住んだ。実はこの頃に西行との親交が知られていることから、大河での恋仲はやはり脚色かもしれない。ところで、堀川局の年齢であるが実のところはわからないが、系図を辿ってみると次のようになる。 堀川局の祖父・源兼房は藤原道長の孫にあたるという大変高貴な系統で、1037年生まれである。兼房の娘・賢子は白河天皇に寵愛された中宮(亡くなった時の白河は尋常ではなかったという)で、堀川局の父・源兼仲1064-1138の異母姉にあたる。 したがって堀川局は遅くとも1085年頃の生まれと考えてよい。堀川局は令子内親王の少し年下という関係で令子内親王に仕えていたから藤原璋子よりも20歳くらい年上ということになる。すると西行よりも40歳年上となる。1150年に開かれた崇徳院主催の歌会にその名が見えるので、歌人堀川局の名を残した最後の歌会当時、70歳弱の年齢となる。話を元に戻すと、文武両道で朝廷との理想的な関係に夢破れて出家するような人物・佐藤義清が、自らの保身のために40歳も年上の堀川局と恋仲になることは考えにくいというのが私の考えである。

令子内親王は上醍醐陵に母・藤原賢子 姉・媞子内親王とともに眠っている

ここ上醍醐寺は三国三十三霊場の最大の難関と云われ、ご本尊御開帳ということで頑張って登山をしたのを思い出します

コメント    この記事についてブログを書く
« 大河清盛・平盛康とその子・盛俊 | トップ | 大河清盛・1142年の出来事 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

平家物語」カテゴリの最新記事