goo blog サービス終了のお知らせ 

平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

藤原冬嗣の兄、真夏の子孫で、藤原兼家の家司受領・藤原有国943-1011

2011年09月13日 | 平安時代

 藤原兼家の家司・平惟仲と並んでその名を後の世に残した受領に藤原有国943-1011がいる。 有国は摂関家の祖となる藤原冬嗣の兄、真夏の子孫で、実務官人を多く輩出した中級貴族です。 村上天皇御代の文章生二十人の中に名を連ねた二人はやがて官界にデビューし、藤原兼家の家司になる。 その頃の藤原兼家は、兄・関白兼通の台頭により不遇の時代をおくるが、兼家の娘で、円融天皇の女御・詮子が産んだ懐仁親王が、円融天皇から花山天皇へ譲位されたことによって皇太子となる。 やがて一条天皇が誕生すると藤原兼家は孫の即位によって摂政となり、側近である在国(このころの名)にも運が向く。 990年、兼家は摂政を道隆に譲ると間もなく世を去り、摂政を譲られた道隆は、自分を跡継ぎに推薦しなかった在国に対して、復讐をすることになる。 その頃の在国の官職は、蔵人頭兼右大弁兼勘解由長官で、道隆は在国の位階を従三位に昇進させるが、従三位に叙された時点で蔵人頭を辞した在国の後任の蔵人頭に道隆の子息・伊周が任ぜられ、在国の残った官職・右大弁の後任には平惟仲が就く。 さて、在国が復帰をするのは、道隆の死後、道長が内覧になった後で、大宰大弐として大宰府に赴任する。 一方の惟仲も、順調に出世して中納言になり、在国が大宰大弐の任期を終えた帰京後に、惟仲は大宰帥として大宰府に赴任する。 しかし惟仲は、大宰帥の任期途中に宇佐八幡宮と問題を起こして、大宰帥を解官されると翌年に京に帰ることなく大宰府で薨ずる。 因みに、在国の妻は橘三位と言って、一条天皇の乳母であり、 惟仲の妻・藤三位が一条天皇の乳母であったのと同じである。 

藤原有国ゆかりの東三条院址 (藤原兼家邸)

コメント    この記事についてブログを書く
« 神国思想の成立 | トップ | 平安時代の祭祀:天皇が伊勢... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

平安時代」カテゴリの最新記事