基経の娘・温子に仕えた伊勢姫
生没年未詳(872-938?)で、本名も不明です。 『古今集』(醍醐天皇の勅命によって905年に奏覧)の時代に活躍した女流歌人。 父親は文章生の出身で参河守・伊勢守・大和守などを歴任した藤原継蔭です。 伊勢という女房は、父親が伊勢守になった時に、出仕したためにつけられたものと思われます。 藤原基経の娘温子(七条の后)が宇多天皇の女御になった前後の15歳の頃に出仕し、温子の相手をすることになります。 定子と清少納言、彰子と紫式部のような関係でしょう。
伊勢が出仕して3年後に温子の父・太政大臣の基経が亡くなり、温子は喪に服するために宮廷より退出します。 この時に伊勢姫は温子の弟の藤原仲平と恋に落ちますが、貴族の娘・藤原善子と結婚したために淡い恋は終わり、翌年宮廷を退出して父のいる大和へ下ります。ところが伊勢を必要とした温子をはじめとする宮中人は伊勢を呼び戻し再出仕させます。 そして仲平、温子の兄の時平との恋が始まりますが、時平には正妻、他の恋人もおり、立場は低いものでした。 しかも仲平からの再びの求愛に対しては「わたつ海と荒れにし床を今さらに払わば袖や泡と浮きなむ」と撃沈させています。 もう一人あえなく撃沈されたのが平貞文で、恋文の返答さえもしなかった伊勢姫に対して「見た」とだけでもいってください、に対して「見た」と返したのだから相当執拗であったのでしょう。 そして伊勢姫20歳の頃、温子の夫である宇多天皇の寵愛を得て行明皇子を産んだことにより伊勢生涯の名誉を得ることになります。
京極大路に面した宇多上皇の院で花の宴が催された時に伊勢姫も参上した際に、京極院の泉水に写る梅の花を詠んだ歌に「春ごとに流るる河を花と見て折られぬ水に袖や濡れなむ」があります。
伊勢姫は行明皇子を8歳で亡くし(しでの山越えて来つらんほととぎす恋しき人の上語らなん)、それから4年後に伊勢がもっとも敬愛していた温子皇后が36歳で崩じたため退下しますが、温子の忘れ形見・均子内親王に再出仕します。 ところが910年、均子内親王がなくなると、その夫である敦慶親王(宇多天皇第四皇子)の寵愛を受け、一女・中務(平安朝を代表する女性歌人)をもうけてます。 この一回り以上年下の親王との恋は、敦慶親王が44歳で亡くなるまで続いたようです。 見てみると、出仕していた温子の夫、温子の兄弟、とエリート相手に大変な関係の持ち方である。 どう見ても、その後浮き名を流した和泉式部以上の活躍であるが案外、伊勢姫の名は知られていないのは何故なんでしょう。
藤原基経
┣ 藤原時平
┣ 藤原仲平875-945
┣
┗ 藤原温子女御872-907年 東七条后、七条后とも称される
┣━━ 均子内親王890-910
(59代)宇多天皇867-931 ┣
┣行明親王 敦慶親王888-930(宇多天皇皇子・母は藤原胤子)
┃ ┣中務912-991
? ┃ ┏━━━━━━┛ ┣元良親王(歌人)890-943
┣ 伊勢姫872-938 ┣源信明
藤原継蔭
藤原胤子 女御(藤原高藤・娘)-896年 敦仁親王(醍醐天皇)敦実親王(孫は倫子)産む
橘義子 女御(橘広相 ・娘)? 斉中親王・斉世親王・斉邦親王を産む
菅原衍子 女御(菅原道真・娘)? 源傾子
橘房子 女御
源貞子 更衣(源昇 ・娘) 依子内親王
徳姫女王 更衣(十世王 ・娘)
藤原保子 更衣(藤原有実・娘)
藤原褒子 尚侍(藤原時平・娘) 雅明・載明親王
能因法師(988年~1058年頃?)は、伊勢姫を尊敬し、生涯心の恋人にしたとか・・・。
伊勢姫ゆかりの地、伊勢寺(撮影:クロウ)
難波潟みじかき蘆のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや(百人一首19番)
ほんのひと時でも逢いたいのに…
あなたは恋しい人に逢わないでこの世をひとりで過ごせと仰言るのですか…
愛することをおしえてくれたのはあなたなのに…
宇多天皇との間に生まれた行明親王を幼くしてなくし、天皇崩御後はここ摂津の地にて多彩な生涯を閉じた。