源 融(みなもとの とおる) 822年 - 895年 嵯峨源氏融流初代 紫式部『源氏物語』の主人公とされる
宇多天皇 ━┓ 蒼々たる后妃たち
┣ 藤原温子 女御(藤原基経・娘)872-907年 東七条后、七条后とも称される
(59代) ┣ 藤原胤子 女御(藤原高藤・娘) -896年 敦仁親王(醍醐天皇)敦実親王(孫は倫子)産む
┣ 橘義子 女御(橘広相 ・娘)? 斉世親王を産む
┣ 菅原衍子 女御(菅原道真・娘)?
┣ 橘房子 女御
┣ 源貞子 更衣(源昇 ・娘)
┣ 徳姫女王 更衣(十世王 ・娘)
┣ 藤原保子 更衣(藤原有実・娘)
┗ 藤原褒子 尚侍(藤原時平・娘)
嵯峨天皇の12男。侍従、右衛門督。大納言などを歴任し、従一位左大臣にいたる。河原左大臣とも呼ばれ、死後正一位を追贈された。奥州塩竈市|塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園の近く 平安大好きナギさんがご教示くださいました^^)を造営したという。また、別邸の栖霞観は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。
嵯峨天皇皇子・左大臣・源融は,陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、自分も皇胤の一人であると主張したが、摂政藤原基経(836~891年)の台頭により,この地に隠棲した。その邸宅は河原院と称され,北は現在の五条通,南は正面通,西は柳馬場通,東は鴨川を範囲とする八町(250mx500mくらい)におよぶ広大な敷地をもち,苑池を備えた景勝地として知られてります。 融没後は宇多上皇(867~931年)の御所となり東六条院とも呼ばれた。
河原院は 創始者である源融から その子の昇に譲られたのですが、昇はそれを宇多院に献じました。つまり、昇は、宇多院に入内した妃の一人である 娘の貞子と その子依子内親王のために 河原院を献じたのです。ところが・・・・、残念ながら 院の寵愛を一身に受けたのは、藤原時平の娘 尚侍・褒子でした。 宇多院には女御(皇太夫人):藤原温子・天皇推薦をおこなった藤原基経の娘、 女御:菅原衍子・あの学問の神様 菅原道長の娘、女御:橘房子・橘氏の貴公子で文章博士橘広相の娘とすごい血統の勢ぞろいです。更衣として入内した昇の娘・貞子には・・・勝ち目はありませんでした。 皇太后:藤原胤子は藤原高藤の娘で、 その皇子・敦実親王の系統は最も栄えた。敦実親王の娘・倫子は藤原道長の妻となり、一条天皇中宮・彰子や関白・頼道の母である。なお、宇多天皇は888年仁和寺を造立している。
六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられています。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融であります。 摂津国|摂津の渡辺氏(渡辺綱が祖)、肥前国|肥前(長崎)の松浦氏(松浦久が祖)は、いずれも源融の子孫です。 また、大阪の梅田にある太融寺もまた、源融にゆかりの寺だそうです。
みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れそめにし われならなくに(百人一首14番)
私を疑っているのですか
私の心を誰が染めたと思っていますか
黒髪の乱れ模様
忍ぶ心に信夫摺り
こんなにも乱れた心になったのは
あなたを恋しく思うからです
私を信じてください