後醍醐天皇塔尾陵に眠る長慶天皇皇子・世泰親王墓
藤原教子と長慶天皇の第一皇子・世泰親王(1360-1377)は、近世の南朝系図においては後亀山天皇皇子とされています。 長慶天皇は、1368年、後村上天皇崩御の後を継ぎ即位した南朝3代目の天皇である。 弟の4代目後亀山天皇に譲位するまで16年間在位し、南朝は4代を以て終焉を迎え、後亀山天皇は北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し、およそ60年に及ぶ南北朝時代は終わった。 長慶天皇も父・後村上天皇と同じく対北朝強硬派で、南北朝の戦乱の中にその生涯を過ごした。 足利幕府の軍勢は、各地の行宮に頻繁に攻撃をしかけ、帝はこれに応戦し続けた。大和吉野から、河内金剛寺、大和五條の栄山寺と転戦し、弟に譲位した後は、各地の南朝方の武将を訪ね、南朝への協力を求めたと言われている。
大塔宮護良親王の死後、後醍醐天皇は建武の中興を果たすが、束の間の夢と破れた後醍醐天皇は、1336年京都花山院をのがれて吉野山に身を寄せ、その後も吉野山にいて吉野行宮を起こすが、1339年皇位を後村上天皇に譲った後、52歳でこの世を去ります。 「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」 と詠み都を憧れつつ、吉野金輪王寺でついに崩御。 後醍醐天皇の遺骸は後醍醐天皇が勅願所とされていた如意輪寺の裏山、塔の尾へ埋葬され、 京都に対する願いを表すために、天皇家の墓陵としては唯一北向きとなっており、「北面の御陵」として有名です。
藤原教子
姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院) ┣海門承朝王1374-1443
90亀山天皇1249-1305┣- 阿野廉子 藤原勝子 ┣世泰親王1360-1377
┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324 ┣成良親王 ┣98長慶天皇
洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王 ┣99後亀山天皇
1245-1272 ┃堀河(源)基子 ┣- ┣義良親王(後村上)1328-1368
(京極院) ┃(西華門院) 藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王 ┣憲子内親王(新宣陽門院)(1343?-1391)
┃ ┃ ┣坊雲
┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339 源顕子?-1359
藤原忠子 ┣懽子内親王 ┃┃┣護良親王1308-1335
西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘
┣西園寺禧子(礼成門院) ┃┣尊良親王
┣左大臣公衡 ┃┣宗良親王
┣太政大臣兼季 ┃二条為子
┣西園寺金章子 藤原実俊┣世良親王
┗西園寺瑛子 ┃┣静尊法親王
┗遊義院一条局
同じく長慶天皇・皇子 海門承朝王は長慶天皇嵯峨東陵に眠っています。