藤原佐理
関白藤原道隆の三条邸の新邸では多くの公家達がある男を待ちかねていた。 慌てる様子もなく照れ笑いをした彼は、早速無造作に筆を執りそのあざやかな運筆で新邸の障子に一筆いれた。 名筆の色紙ではあるが 道隆は満たされぬ思いで満ち溢れていた。 藤原佐理はまたしても失態をしでかしたのである。 人が集まらないうちに道隆の邸にきて色紙に書いていればよかったものを・・・。 「大鏡」ではこのエピソードを語るにあたって藤原佐理を懈怠者(げたいしゃ)とか如泥人(にょでいじん)と評しています。
藤原佐理の直筆として残っている書簡の半ば以上は自身の失策をわびるためにかかれたものでした。 981年に書かれた「国申文帖」 では 伊予権守に任じられていたが、書類の決裁が遅れて時の関白藤原頼忠の不興をかったらしい。藤原佐理は頼忠の側近である丹波守藤原為雅に手紙を書いて陳弁つとめている。 頼忠は藤原佐理の叔父にあたりひどく恐れていたようである。 大饗の折には関白が帰らぬうちに先に帰ってしまったり、頼忠の娘・遵子が宮中入りしたときも行列のお供をしなかった怠慢が頼忠の機嫌をそこねたらしい。
藤原佐理の家は藤原氏のなかでも名門のひとつである。祖祖父忠平は関白太政大臣を極め、忠平の子・実頼も摂政太政大臣となっている。 当時は外威政治時代で娘を天皇や皇太子の許にいれ、その所生の皇子が皇位につくことによって実権を掌握するのであるが、実頼の娘達は皇子に恵まれずに実頼の実権は完璧なものとはなりえなかった。 これに代わって実権を握ったのは実頼の弟・師輔一族であった。 師輔の娘・安子が村上天皇の皇后となり、その皇子が皇位(円融、冷泉)についたからであり、息子達の藤原 伊尹、兼通、兼家が次々と実力者となり、娘を入内させて権力を確実なものとした。 この師輔系を九条流、実頼系を小野宮流というが、以来小野宮流は政界の主流からは脱落する。
藤原佐理の父で実頼の長子・敦敏は栄光に包まれて誕生するが、36歳という若さでなくなった。 また、小野宮家は二人の娘(述子は円融妃、婉子は花山妃)を入内させているが、続けてなくなった。 これにより藤原佐理の前途は暗いものとなった。 藤原佐理は祖父の実頼に養われ、最初は官位も順調に昇進する。 真筆として名高い「詩懐紙」が書かれたのは26歳のときである。 このとき、娘に先立たれて外戚としての権力を完全に握れなかった実頼は自ら「陽名の関白」つまり名ばかりの関白といったらしいが、 権力者が主催する優雅な花の宴の翌年にこの世を去る。 小野宮家に変わって九条家が台頭するのはこれ以降のことである。藤原 伊尹、兼通、兼家が次々と実力者となるに従って藤原佐理の昇進は加速を緩めたのである。
九条家の藤原伊尹、兼通、兼家らは揃って切れ者であり、権力欲も強かった。 見事に小野宮家から権力の座を奪い取ったが、次は兄弟同士が激しくいがみ合うこととなる。 関白兼通は三男の兼家との折り合いが悪く、瀕死の床にありながら弟に権力を握らせまいとして小野宮家の実頼の次男・頼忠を後継者に 指名したのである。 思わぬ拾い物をしたのは頼忠である。 そのおかげを被ったのは藤原佐理であり、一躍参議の座に迎えられた。 こうして亡き父よりもはるかに高い地位を獲得する。 しかし彼の地位にふさわしい能力はなかったようで、982年に書かれた「恩命帖」に窺える。 ともかく頼忠の関白就任は九条流に押されていた小野宮家にとっては光であった。 頼忠はここぞとばかりに遵子を円融妃とし、益々頼忠の地位は強化されるはずであった。 小野宮家に連なる公家は揃って門出を送らねばならないところであったが、藤原佐理は姿を見せずに怠慢さを露見したのである。
頼忠の期待に背いて、遵子は一向に身篭らず、やがて円融天皇は皇位を甥の花山天皇に譲った。 この隙間を縫って政界に躍り出たのが亡き藤原伊尹の息子・義懐である。 花山天皇は藤原 伊尹の娘・懐子の所生だから、花山の即位を契機に一気に参議にもなっていなかった義懐は権中納言へと昇進し、影の実力者となり、頼忠は飾り物の関白となったのである。 ところが翌年兼家は詐欺に近い手法で花山帝を出家させ、自分の娘・詮子が円融帝との間にもうけた皇子を即位させてしまった。 一条天皇である。兼家は即座に摂政として天皇の代行を勤め、頼忠は関白を停められ、成り下がった。 この間藤原佐理は、29歳の義懐が自分を追い抜いていくのも、叔父の兼家が義懐をねじ斃すのも眺めていたようである。 元来藤原佐理は権力とは無縁の存在なのである。 そして頼忠の権力喪失と比例して彼の地位は足踏み状態となる。 もっとも花山、一条即位の大嘗会の屏風の色紙型を書いたり、書に関しては重宝がられたが・・・。
権力の座についた兼家は廟堂を兼家一家で固め、長男道隆を参議を超えて権中納言とし、続く道兼、道長も権中納言に押し上げた。 が権力に欲の無い藤原佐理は憎悪をかきたてられることもなく、兼家がなくなり道隆が関白になる頃にはむしろ親しい往復があったようである。 三条道隆邸の障子の色紙を書いたという話もそれを裏付けるものといえる。 こうした九条家に対する親和策のおかげか、48歳の藤原佐理に朗報が舞い込んできた。 当時高級官僚の憧れであった太宰大弐の職が舞い込んできた。 ところが藤原佐理はこのときまたしても大失策をしでかした。 出発にあたっては罷申といて権力者の家に挨拶をするのが常識であったのだが、藤原佐理はこれを怠ったのである。 藤原佐理は長門まできて悔いたのか、甥の藤原誠信に宛てて、手紙をだし、道隆へのとりなしを頼んでいる。 これが藤原佐理の手紙の中で最も優れているという「離洛帖」である。
何故彼は罷申を怠ったのか、太宰大弐に任じられたときに参議と兵部卿の地位を辞しているのである。 そのときに参議となったのは道隆の次男伊周である。 道隆は太宰大弐という餌をまくことにより、参議をやめさせたのである。 これに加えて藤原佐理は皇后宮権太夫に任じられているが、時の皇后は冷泉上皇の后・昌子内親王で、既に日の当たらない過去の人であった。 政略に疎い藤原佐理は道隆にしてやられたことを感じ取ったが故に挨拶を省略したのかもしれない。
その道隆もすぐに亡くなり、弟の道長が権力の座についた。道隆派の藤原佐理に対して道長は情容赦はなかったようで、太宰大弐の職をうばわれた彼のの肩書きは元参議という空しいものであり、朝参も許されず、天下の浪人となってしまった。 が、2年後朝参を許され、太皇太后宮権太夫に復し、翌年には兵部卿に任じられたが、参議を取り戻すことはなかった。 藤原佐理の真蹟といわれる書簡のうち最後のひとつ「頭弁帖」をかいたのはこの頃である。 不遇の身となり、もう少しましな地位が欲しかった藤原佐理の申し出を頭弁が握りつぶしたらしいのである。 頭弁とは蔵人頭であるながら弁官を兼ねた役人であり、今で言う官房長官であるが、この要職にあったのは三蹟のひとり、藤原行成である。 藤原佐理とならんで名筆の誉れ高い行成であるが、彼は藤原佐理が足元にも及ばないほどの能史である。 藤原道長の片腕として見事に行政を裁いている。 行成も藤原 伊尹の孫で父に早死にされ、不遇の身であったが常に政治の中枢にいて、権大納言までのぼている。
┏為時━紫式部
┏□ ┏朝忠 ━藤原穆子
┏兼輔┣定方(三条右大臣)┣倫子
┏利基 ┣胤子 伊勢姫 ┃
┃ ┃ ┣醍醐┣中務 ┃ 婉子972-998(為平親王娘,花山女御)
┣藤原高藤 ┣敦慶親王 ┃ ┣資平(養子)かぐや姫
良門 ┣敦実親王 ┃ ┏実資サネスケ957-1046(小右記)実頼三男・斉敏四男
順子 宇多 ┣源雅信-993 ┣頼忠924-989┳公任966-1041━定頼
長良802-856 ┏娘 ┃ ┗遵子957-1017(円融妃)
┣国経 ┏時平871-909 ┣敦敏912-947┳佐理スケマサ944-998
┣遠経 ┃┣敦忠(恋仲右近)┃ ┗為光妻 (懐妊中死亡)
┃ ┃┣顕忠(小野宮殿)┃ 藤原忯子-985
┃ ┃┗保忠┏実頼 ━╋斉敏928-973━懐平 63冷泉帝 ┣
┣基経 ━╋仲平 ┃(九条殿)┗述子933-947(村上女御) ┣65花山帝(師貞親王)
┃836-891 ┣忠平━╋師輔-960┳伊尹コレタタ(一条殿・謙徳公)┳懐子
┣淑子 ┃-949 ┗師尹モロタタ┣為光942-992 ┣挙賢 清少納言
┃ ┃(貞信公)(小一条)┃(母:雅子内親王) ┃ ┃
┣高子 ┃ ┣芳子 ┃ ┣誠信964-1001 ┣義孝━行成
┃842-910 ┃ ┃(村上妃┃ ┣斉信967-1035 ┣義懐ヨシチカ
乙春┣陽成帝┃ ┗済時995┃ ┃タダノブ 恵子女王 ┗成房
┃┣元良┃ ┣為任┃ ┗忯子(花山妃)
┃綏子 ┃ ┣娍子┃
┃ ┃ ┗通任┃(堀川殿) ┏媓子(円融中宮)
┣貞保 ┃ (三条妃)┣兼通925-977╋顕光┳元子(一条帝女御)┓
┣敦子 ┣頼子(清和女御) ┃ ┗朝光┗延子(敦明女御) ┃
┗━━┓┣妹子(清和女御) ┃キンスエ ┗姚子(花山帝女御) ┃
良房804-872 ┃┣温子 ┣公季957-1029━義子(一条帝女御),実成┃
┣明子 ┃┃ ┣均子内親王 ┃(母:康子内親王) ┃
潔姫 ┣56清和┃宇多天皇 ┣兼家929-990(東三条殿) ━━━┓ ┃
55文徳帝 ┃ ┣安子927-964 ┃ ┃
┣恬子 ┗穏子885-954 盛子-943┣憲平親王(冷泉帝63代967年) ┃ ┃
紀静子 ┣保明親王 ┣守平親王(円融帝64代969年) ┃ ┃
淑姫 ┣寛明親王(61朱雀帝)┣為平親王(安和の変で失脚) ┃ ┃
┣源兼明┃ ┣姫宮 ┣ 源頼定 ┃ ┛
┃16皇子┣成明親王(62村上帝)-967 高明娘保子┣ ? ┃
60醍醐天皇885-930 ┃ ┃ ┃
┣源高明914-983(第十皇子) ┣広平親王 綏子(すいし) ┃
┣雅子内親王(斎宮,師輔室) 祐姫 ┃
源周子 藤原元方┛南家の学者 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃ 藤原守仁娘・(伊予守)
┃ ┣ 道頼971-995(兼家養子) 藤原為光娘(忯子の妹)花山法皇狙撃事件
┗┳ 道隆953-995(中関白家) ┣
┃ ┣━┳伊周コレチカ974-1010┳道雅(三条帝娘・当子内親王と恋愛)
┃ 高階成忠┳タカシナ貴子┃ ┣大姫
┃(高二位殿)┃ -996 ┣隆家979-1044 ┗小姫
┃ 923-998 ┣信順マサノフ┣御匣殿985-1002(定子亡き後、養母として入内)
┃ ┣明順 ┣頼子姫(敦道親王師ノ宮の妻)
┃ ┗光子 ┣原子姫980-1002(居貞親王女御)
┃ (定子乳母)┗定子977-1000 里邸二条
┣ 道兼961-995┳兼隆985-1053┣脩子内親王 996-1049
┃ ┣兼綱 ┣敦康親王 999-1018
┃ ┣尊子984-1022┣よし子内親王1000-1008
┃ 繁子(師輔娘)┃ ┃
┃ 66一条帝980-1011(乳母は橘徳子)
┃ 966-1027 992-1074(平等院鳳凰堂を造る 源重信の旧領)
┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通
┃ ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后) ┗ 頼長
┃┏源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)
┃┃(鷹司)┃ ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后) ┣信長
┃┗時中 ┃ ┣ 真子(後冷泉女御) 公任娘
┃父:雅信┃920-993 ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御)
┃ 重信┃-995 ┃延子(藤原頼宗娘)
┃ ┃ ┃ ┃嫄子(敦康親王娘)1016-1039
┃ ┣ 彰子988-1074上東門院 ┃ ┃┣祐子内親王,禖子内親王
┃ ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子内親王(斎院)
┃ ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71後三条帝)
┣ 道綱 ┃ 66代一条帝980-1011 ┃┃┃┣貞仁72白川帝1053-1129
┣ 道義 ┃ ┃┃┃┣篤子内親王(斎院)1060-1114
┃ ┃ 67代三条帝976-1017 ┃┃┃藤原公成娘
┃ ┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院 ┃┛┃
┃974-1004┃ ┃ ┣馨子内親王1028-1093斎院
┣ 綏子 ┣ 妍子994-1027(枇杷殿) ┣章子内親王1026-1105
┃ ┃ ┣ 威子998-1036 ━━━━━┛ ┃藤原教通娘・歓子1021-1102
┃ ┃ ┗ 嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母)┣- ┣ -
┃ ┃ ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部部娘賢子が乳母)
┃ ┗━━━━┓69代後朱雀 ┣ -
┃954-982 ┃娍子972-1025(堀河女御 済時娘) 藤原頼通娘・寛子1036-1127
┣ 超子(ゆきこ)┃ ┣敦明親王994-1051小一条院
┃ ┃ ┃ ┃ ┣敦貞親王
┃ ┃ ┃ ┃延子985-1019(顕光娘、一条帝女御元子の妹)
┃ ┃ ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王
┃ ┣居貞イヤサダ親王67代三条帝976-1017
┃ ┃ ┣-
┃ ┃ 道隆次女・原子
┃ ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
┃ ┃ ┣
┃ ┃ 九ノ御方(伊尹娘)
┃ ┣敦道親王981-1007(師ノ宮:和泉式部を寵愛)
┃ 63冷泉帝 ┣
┃ ┣ - 藤原娍子の妹
┃ 昌子内親王950-999
┗ 詮子(東三条院 兼家娘)962-1001出家後土御門第へ移り、道長は一条院へ。
┣懐仁カネヒト親王(66代一条帝)
64円融帝959-992
┣ -
后・遵子-1018(頼忠小野宮殿娘)