【ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 1853-1890】
父は牧師、3人の叔父は画商
ゴッホは画商に努めるが女性関係でクビ(ストーカー)
牧師を目指すもダメ(思い込みが激しい)
ベルギー炭鉱の仕事もダメ(人懐っこさがうっとおしい)
1880 画商の弟テオの勧めで画家を目指す@27才
1881 従妹の旦那アントン・マウフェに師事して学ぶ@1881年 破門される
1882 基礎デッサンに努め1882年オランダ・ハーグで独学
ハーグ派:ハーグを中心に農民風景、田園生活を描く(オランダの暗いバルビゾン派:オランダの冬空は暗い)
アドルフ・モンティセリ1824-1886から影響を受ける
農民を描くが農民の娘を妊娠させるなどして嫌われる
1886 そして弟テオ(テオドルス)の呼びかけでパリへ移る@1886年。最後の印象派展ではスーラの点描を学び、浮世絵の影響から暖かいアルルへ移る@1886年。代表作は「黄色い家」1886/9 ここに友人(エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家)を集める夢を持つが誰も来ない。
フェルナン・コルモン1845-1924画塾に通う(ロートレックも通っていた)
ジョン・ピーター・ラッセル1858-1930と出会う:ゴッホのことをマティスに教えた男
当時のゴーギャンは超貧乏 必要経費は支払ってもらえるし、描いた絵は全部買い取ってくれる
パリ時代に描いた自画像は27点:85%
筆触分割に目覚める:絵具を混ぜずに明るく描く---印象派展が終わった頃
【印象派展が終わった理由】
ドガ(反サロン派)とモネ(サロン派)の仲裁役のピサロがスーラの点描画出品是非で揉める
筆触分割派のモネ、ルノワールは点描を嫌った
筆触分割:自然を生き生きとえがく手法
点描 :史記さい理論から埋めれた人工的自然を描く手法---現実にはあり得ない色を使う
1888 アルルに移住----暖かくて明るいイメージだが
パリ:北緯48度 札幌:北緯43度 アルル:43°41′
しかし平均気温は東京とほぼ同じ 日照時間は東京よりも多い
南仏に吹く乾いた風---ミストラル@11-4月 白と黒
小氷期:19世紀半ばが終焉(温度高低を4回繰り返し今のヨーロッパは異常高)----印象派の始まり
氷の上をすべる伝統行事・スケートマラソンが1997年以降開かれなくなった
オーストリア気温上昇。葡萄農家ダメージ
オーストリアのフェーン現象は異常に暑い
テオの呼びかけで・・・ゴーギャンが1888/10月/23日にアルルに来る
12月には耳切事件
1889 5月にはサンレミ療養院
1890 5/16にンレミ療養院を出発--パリのテオ、ヨハンナ、甥ヴィンセントに会う
5/20にはオ-ヴェル・シュ-ル・オワ-ズ駅に到着(コロー、セザンヌ、ピサロと共にする)
ピサロ紹介のポール・ガシェ医師1828-1909を訪ねる
ガシェ通り78番地にガシェ医師の家があった--今は記念館・サロン:写真展示
ガシェ医師も絵を描いていた:オルセー美術館所蔵(青いリンゴ1873)
ガシェ医師---妻の療養のためパリから移住(ピサロ一家のかかりつけ医がガシェ)
「庭に佇むマルガリート・ガシェ」を描く---マルガリートに恋してガシェ医師と揉める
ゴッホはラヴー亭に住む@3.5フラン(今はゴッホ記念館、元々レストラン 2回はブティック)
アドリアーヌ・ラブーを描く
死ぬまでの70日間に、ここで「プロバンスの田舎道」など80点の油絵を残す:数か月に一度の発作を恐れて
7/6 パリのテオ訪問---ゴッホとヨハンナ喧嘩 仕送り?
未亡人ドービニーの絵をかく
近くにはオヴェールの坂、オヴェールの教会
7/27 ピストルで腹部撃たれる?@麦畑---アパートに帰る
7/29 ゴッホ死亡
1891 1/25 テオ死亡。
遺作はテオ夫人ヨー(ヨハンナ)が受け継ぎ、オランダへ移ると展覧会を開催。このときブレマーが訪れたことで、ヘレーネ・クレラー・ミューラーというゴッホ作品収集家の目に留まる。
1911 ヘレーネは美術館建設を決意
1912 ゴッホ作品を収集、第一次世界大戦や世界恐慌を経て1938年開館。 2022/3/8 BS放送「ゴッホ展」により解説。
大塚国際美術館所蔵の「ひまわり」陶板絵
有名な「ひまわり」は合計7枚。そのうち1枚は焼失(芦屋の山本顧彌太が武者小路実篤の依頼で購入:白樺派美術館所蔵予定だった)、1枚は個人所蔵。残る5枚はロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵の「黄色いひまわり:アルルで描いた」とドイツ・ノイエ・ピナコテーク所蔵の「青い背景のひまわり:アルルで描いた」、及びそれら2枚のコピー3枚である。そのうちの1枚は新宿のSOMPO美術館にある。詳細は動画をご覧下さい。ここでは、ゴッホが何故このようなひまわりを描いたのかを説明。
【ゴッホが南フランスへ行った理由】 ゴッホはオランダで生まれ、弟を頼って1888/2南フランス・アルルで暮らす。1枚も絵が売れずに渡航費、アルルの黄色い家(WW2で破壊され現存しない)は全て弟:画商の金である。アルルで暮らしたのは仲間の画家をパリから呼んで共同生活を夢見ていたからである(憧れの日本の画家は皆共同生活をしている・・・という誤った情報を信じていた模様)。そしてそこの食堂を華やかなひまわり(芸術家の象徴であり人数分描こうとしていた説)の絵で飾ろうとしたのである。映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」参照
では何故南フランスのアルルだったのか。それは日本を暖かい国と勘違いしたからである。1867年に開かれたパリ万博で日本は数多くの浮世絵を出品した。明治政府は起立工商という会社と提携して国内の美術品を海外に輸出していたことから、当時のパリは日本ブーム(ジャポニーズ・ブーム:浮世絵などの日本美術がいっぱい販売されていた)。
明治政府は日本の工芸品をヨーロッパに輸出するために「起立工商:支配人は林忠正」を設立。ゴッホはこの会社に入り浸り、弟の金で浮世絵を買いまくった。浮世絵のカラフルな色彩(明るくて暖かい日本に違いない!と錯覚)に憧れて1888/2月/20日に南仏のアルルに行ったのである。
そして5月(入居は9月)アルルに黄色い家を借りて画家仲間を呼ぼうとした。ところが画家仲間は、そこまでしてゴッホと暮らそうとは考えていない。何故なら皆はゴッホの困った性格を知っているから・・・・。なんとか弟・テオはゴッホの為にゴーギャン(元海軍軍人)を説き伏せて、やがてアルルに10月に行くのである。喜び勇んだゴッホであったが、二人は我が強くてうまくいかず。
【耳を切った理由】 部屋は汚い、金にルーズ、話は長い、二ヶ月もすると、同居が我慢できないゴーギャンは帰ることを決意。この時に、耳切事件(1888/12/24に耳を馴染の娼婦に送り付けたらしい)が発生。部屋で血まみれになったゴッホを発見した郵便局のルーランさんが警察を呼ぶなどして、ゴッホは精神病院に入るまでになる。ゴーギャンはゴッホがひまわりを描いているところを描いたが、ゴッホは「耳が変、頭がおかしいように描いている」と激怒したことがあったらしい。ということで、ゴッホは、ゴーギャンが居ると思った娼婦のところに耳を送ったのかもしれない。この年に「切り裂きジャック事件」@ロンドンで発生
そして耳は一部ではなくてほとんどを切っていたということが2016年に分かったという。それは病院の担当医・フェリックス・レイが1930年頃に尋ねられて返事をした証拠が見つかった。その返事の手紙には耳切断の状況が書かれていたのである。因みに耳切の犯人はゴーギャンだとする主張もあるが、オランダのゴッホ美術館は否定している。
ひまわりの2枚、アルルの家などの絵は病院からアルルの家に帰ってきたときに描いた絵である。唯一ゴッホに親切にしてくれた郵便局のルーラン夫妻がマルセイユに転勤し、弟・テオが婚約した。かくして寂しさからか入退院を繰り返して暴れたことで近所から苦情の署名が集まり、1889/2には黄色い家は封鎖され病院に強制入院となった。病院の担当医・フェリックス・レイが精神科専門医の指導の必要性を言ったようである。そして専門の精神病院に移るが、1890年に自殺したと言われている。ゴッホは自分に優しくしてくれた人の肖像画は必ず書いている。
【ポスト印象派ゴーギャン1848-1903について】 生まれは1848年、フランス2月革命の時、両親ともに超左翼であっただけに帝政が崩壊すると危険を逃れてペルー(母親はインカ帝国の皇帝の血筋:トリスタン家)に移住。7歳で仏に帰国、海軍軍人となり普仏戦争1870-1871を経験している。やがて株式マンとなり25歳で結婚、5人の子をもうけながら風景画がサロンで入選している。1879年からは印象派展に毎回出品するなど順風満帆であった。ところが、1882年の金融恐慌で株式マンをやめたことから人生は転落街道をたどる。
そして1886年物価の安いポン・タバン(仏ブルゴーニュ地方)に移動、ここで多くの売れない画家と出会い(ポン・タバン派)、グラネックの宿がたまり場となる。この後エミール・ベルナール1868-1941を介してゴッホ1853-1890と知り合う。やがて若者画家はゴーギャンをリスペクトしてナビ派(ナビ:ユダヤの賢人)を結成する。1888年には仏南部のアルルに居るゴッホからの誘いで一時アルルに行った。ポン・タバンの良き生活があったので行きたくはなかったが、ゴッホの弟テオの手前・・・行った。
その後、ル・ブルージェの安宿では絵を店主に買い取ってもらって食いつないだという。1891年にタヒチに行くまでのゴーギャンは本当に貧乏だったようだ。
【自殺?した理由】 弟は結婚し、ゴーギャンは逃げていき、自分は精神病院に入る。この時代に描いた絵は歪んでいる。20世紀(フォービズム、キュービズムの時代)になるとこれらの絵が評価されるようになる。1890年1月に、アルベール・オーリエという美術評論家に注目され、アンナ・ボックが「赤い葡萄畑」を購入、唯一売れた絵である。その頃弟テオに子供が生まれヴィンセントと命名する。この頃の絵に対してモネも絶賛(テオがアンデパンダン展に出品)、1890年5月には精神病院を退院した。しかしゴーギャンやアルベールが来なかったことが原因なのか、テオの妻・ヨハンナに金の無心の事などを言われたことが原因なのか・・・すぐにオーベールという避暑の町に行き(1890-5-20 以降80日間で75点の絵を残す)、ポール・ガシェという精神科の医師と出会う。7月27日に画材を持って出かけたゴッホは、手ぶらで帰った時には腹から血を流し、宿の主人には大丈夫と言って寝たらしい。たまたまオーベールに来ていた産婦人科医が診察するが治療はできずに帰ったという。翌日パリから弟テオが駆けつけて様子は落ち着いていたようであるが、翌日1890-7-29に死亡した。死因は腹に銃弾を浴びたことによる出血死であるが、狂言自殺、つまり構ってほしいばかりに自分を撃ってしまったのか。これが自殺の定説ではあるが、そもそも貧乏なゴッホはどこで銃を手に入れたのか?銃の行方も謎なのである。
ところで当時オーベールではカウボーイが少年の間で流行っていて、とある薬剤師の息子・ルネス・クレタンとゴッホはよく遊んでいたという。当時の人の証言ではゴッホは少年たちにからかわれていたという。そこで銃が暴発してゴッホは流れ弾に当たったのかもしれない。のちにルネス・クレタンは銃が自分のものであると証言しているという。警察の現場検証でも撃たれたゴッホは少年たちを庇って自分で撃ったと証言するような人物だったのかもしれない。因みに弟テオもその後錯乱して入院してすぐに死んでいる1891-1-25没。
【自殺?に使われた銃】 銃は1965年に農家の人が畑で発見し、アムステルダムのゴッホ美術館に預けられたが、2019年オークションにかけられて162500€:約2000万円で落札された。この銃の弾丸とゴッホの体内に残っていた弾丸は一致。銃はルフォシュ(ルフォーショー(1802~1852)が考案)7mm口径ピンフィア(ピン打式銃)・リボルバーで、当時は流布し、12mm口径については世界中の軍で採用されていたという。南北戦争でも使用され、威力はパーカッション・リボルバーよりも低い。銃弾の初速は168m/s程度で現在の銃の1/9程度。従って当時の銃を体に押し付けて発砲すれば、充分に体内に残る可能性がある。また出血は少ないが弾丸は鉛むき出しであり、鉛中毒で死に至らしめることもある。自殺なら至近距離故に弾丸は体内に残らないのでは?という仮説は消えることになる。
避暑地オーベールの「ポール・ガシェ」という精神科の医師
王子製紙名誉会長・齊藤了英氏が1990年に 125億円で購入
オーベールの教会