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市庭古墳

2007年09月07日 | 陵 古墳 墓 遺跡

市庭古墳

 平城京の造営は元明天皇和銅元年(708年)に、阿倍朝臣宿奈麻呂ら6名の造平城宮司によって開始された。 もちろん時の元明天皇が持統天皇の意思をついで、首皇子(後の聖武天皇)や安宿姫(光明皇后)のために造営されたものである。 翌、708年には元明天皇自らが造営工事を視察し、市庭古墳、神明野古墳を目の当たりにし、巨大前方後円墳の削平の必要性を知り、造平城京宮司に詔する。 この市庭古墳が部分的に削平され、現在では後円部の一部が平城陵として再利用されているのである。

第51代平城天皇楊梅陵は平城京跡のすぐ北隣にあります。(撮影:クロウ)

 

 市庭古墳はかつては、径100メートルの円墳と見られていたが、平城宮跡の発掘によって、濠の痕跡が見つかり、全長253メートルに達する巨大な前方後円墳(後円部径150メートル、前方部幅160メートル)で、くびれ部の両側に造り出しがあり、盾形の周濠(一部は二重)がめぐることがわかった。 いまも宮跡北端に整備されている場所で、墳丘址を示す石列を見ることができ、円筒埴輪と蓋形、家形、動物形の埴輪を伴っていた。 この市庭古墳は5世紀前半に造られたとみられるので、天長元年(824年)に崩御した平城天皇の陵墓として利用されたものかどうかは実は疑わしいが、この巨大な規模と位置を考えると、大王かそれに準ずる人の墓であることは間違いない。

 また同様に、神明野古墳も、全長100メートルの巨体を破壊され、その前方部端と濠の上に大極殿・朝集殿 (律令国家にとって最も重要な建物) が建てられた。 平城京の造営という国家的大工事によって、先人の墓を破壊したということは、続日本紀の記録にも出ており、これらのことを裏付けている。

 平城天皇陵として明治以前に考えられていたのは仁徳天皇の皇后磐之媛命の陵墓とされるヒシアゲ古墳である。 全長219メートル、後円部径125メートル、前方部幅145メートルもある前方後円墳で、しかも前方部の周濠が2重にめぐっている。 墳丘は3段に築成され、東側のくびれ部に、中期古墳特有の造り出しがある。 周濠の東側は空濠になっているが、外提の内側に円筒埴輪列が確認されている。大正時代に土馬、土師器などが採集されている。  この古墳は、元禄年間の本によると平城天皇陵とされていたが、明治になって磐之媛命陵に治定された。 

磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)(撮影:クロウ)

 

 ところで、養老律令には盗賊に対する令の記載がある。謀反を企てたり大逆を犯すものは皆斬殺刑である。古墳を発掘したものは懲役3年、ただし石室や棺を開いたものは遠島流罪、古墳を発掘したが石室や棺に到達しなかった場合は懲役2年、すでに盗掘されていた場合は懲役1年半。山陵内の樹木を盗んだものは百叩き、草を取ったものはそれより3等軽い叩き刑。 現在、宮内庁管轄下の天皇陵の立て看板には、必ず、「竹木等を切らぬこと」の表示があります。 これらは実は養老律令の規定からきているのです。 

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