有智子内親王墓
京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町、京都嵯峨野、落柿舎のとなりに有智子内親王墓はあります。 今まで何度か嵯峨野の落柿舎に行っておきながら見過ごしてきましたので、今回再び嵯峨野を訪れ有智子内親王の墓にいってきました。 があるとは最近まで知りませんでした。 再度嵯峨野を訪れたときには是非とも行ってみたいと思います。 絶景の桜を眺めながらの嵯峨野散策でしたが、とにかく人気のある場所ですから人でいっぱいでした。
落柿舎の西隣にある有智子内親王墓(撮影:クロウ 2008/4/5)
平安時代807-847年に生きた有智子内親王は嵯峨天皇の第八皇女として、母を交野女王に持ち、生まれます。 弘仁元年(810年)4歳で賀茂の齋院となり、823年三品に叙せられ、さらに二品に上り、承知14年に41歳で崩じます。 平安朝随一の女流詩人としてだけではなく、歴史的には「賀茂斎王の初まり」としての有名です。 810年、薬子の変を平定した嵯峨天皇は、戦勝の礼と、平安京の安泰を願って、賀茂社に、4才の皇女、有智子内親王を捧げます。 そして伊勢神宮の斎宮にならって賀茂斎院を設立し、伊勢斎宮と同様に、賀茂斎院に入る前には「野宮」と呼ばれる潔斎所で禊ぎを行い、3年間の潔斎を経て斎院へ移ったのです。 「延喜式」巻五・斎宮によれば、卜定によって選ばれた斎王は、まず宮城内の初斎院にて1年間を過ごし、翌年8月上旬に初斎院から野宮に入り、野宮でさらに1年間、翌年9月の伊勢群行/賀茂斎院入院までの期間を精進潔斎します。 天皇が在位している間、斎院は賀茂神社で居住し、退下は天皇の譲位か肉親の喪による時なのは、伊勢斎王と同じである。 野宮は斎王が選ばれる毎に占定によって造られ、伊勢斎宮の場合は嵯峨野に、賀茂斎院の場合は紫野・有栖川に作られたが、必ずしも一定した場所が定まっていたわけではないようである。 賀茂斎院の場所は、一条大路の北方、紫野に所在したため紫野斎院とか、略して紫野院とも呼ばれ単に野宮とも称していた。 今日の京都市上京区の七野(ななの)神社がその跡といわれている。斎院にも伊勢斎宮同様に斎院司という役所があり、長官以下の官人や多くの女官たちが働いていた。
有智子は斎院を退いた後は、嵯峨西荘に住み、生涯を通して独身のまま、847年に41才で没しました。有智子 の墓は京都嵯峨野の落柿舎のすぐ西隣にあり、そこは彼女の春日山荘の跡であります。 因みに「落柿舎」は、松尾芭蕉の門人向井去来の宅で、芭蕉もここに滞在したことがあるといいます。 斎院は嵯峨天皇から順徳天皇まで4百年ばかり続いたが、それは神祇史の上ばかりでなく、平安文学にとっても欠くこ とのできない役割を果たしました。 初代斎王の有智子内親王にはじまり、選子(のぶこ)内 親王、祐子(みわこ)内親王、式子(のりこ)内親王等は錚々たる閨秀歌人であった。式子内親王彼女は、「新古今和 歌集」随一の女流歌人である。
有智子内親王が初代斎王として卜定された賀茂斉院御所跡