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織田信長

2008年04月18日 | 戦国時代

1573年

 信玄は早々に三河にはいり野田城を攻めたが、この頃から病状が悪化していたらしく長篠で西進を諦め帰国の途中、4月12日になくなった。 死に臨んで信玄は三年間は喪を秘すように遺言したといわれている。 しかし飛騨の河上富信は上杉謙信に噂を伝えており、 信長にとってはこれほどの幸運はなかった。 足利義昭は反 信長同盟結成の立役者として挙兵の機を狙い、信玄の西上を頼みとしていたから三方が原での信玄勝利に歓喜し、挙兵にふみきった。 信長は岐阜をたって上洛すると、足利義昭重臣の細川藤孝、荒木村重が逢坂まで迎えに来たというから義昭と決別して 信長に忠節の意を表したのである。 信長は義昭に和議を申し立てたが、義昭はこれに同意せず、 4月 信長は義昭の御所を包囲して放火した。 勅使が両者に和議を仲介したのでこれに応じたが、 信長は義昭がいずれ敵対するとみて、このときに大軍を一度に運ぶための大船の建造を行い、二ヵ月後には完成させている。 7月義昭は宇治川の槙島城に移り立て篭もると、 信長は大船で琵琶湖を渡り 槙島城の外構を破り攻めたため、義昭は降伏する。 しかし紀伊由良を経て備後に逃れた。 そして各地の大名と通じて 信長打倒を画策し、毛利のもとで上洛の機を窺っていた。 

 信長は浅井・朝倉攻めを準備していた。 義昭の没落は江北の諸勢に同様を与えたため 信長に寝返るものも現れ、 朝倉義景は大軍をひきいて援護にかけつけたが織田軍の攻撃に撤退し、一族の朝倉景鏡の裏切りもあって 8月には母、妻、嫡男の愛王丸も含めて自刃に追い込まれ、長きに渡る朝倉氏は滅亡したのである。 景鏡は義景の首をもって 信長に出仕したため生き延びている。 信長はすぐに近江に軍を返し浅井長政を攻め、討ち取っている。 長政の嫡男・万福丸は関ヶ原で磔にされ、 信長の妹・お市と3人の娘は 信長のもとにひきとられた。 これにより反 信長同盟は解体し、 義景、長政、久政の首は京都で獄門にかけられた。 浅井の領地はこの戦いで功績のあった羽柴秀吉に与えられ、琵琶湖岸の長浜城主となった。

小谷のふもとにある小谷城跡碑

 

1575年

 織田信長は岐阜を出発して三河長篠へ出陣した。徳川・織田軍に攻勢をかける武田勝頼が長篠城を奪回すべく大軍で包囲したために家康が救援を求めてきたのである。 長篠城は信濃と三河を結ぶ交通の要であり難攻の要塞でもあったために武田勝頼としては是非とも確保したかった城である。 信玄が没後に家康の手に属したため奪回を狙ったが、家康もそれを予想して奥平信昌を城主にして兵を増強していた。 信長は長篠の近くに進み落城寸前の西方に三万の軍で陣取り、先陣を努める家康軍を東方の高松山に、その左手には滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀を置いて武田軍を待ち構えた。 信長は好機とみるや家康の重臣・酒井忠次を大将に鉄砲衆を中心とした別動隊を編成して武田軍を襲撃した。 退却を余儀なくされた武田軍は大きな打撃を受けて、後に再興をはかることになる。 鉄砲による三段撃ち戦法で圧勝した長篠の戦いである。 信長は家康の陣にやってきて佐々成政らを奉行に鉄砲隊を編成し戦闘を開始した。 武田側は山県昌景の軍隊が突撃したが、鉄砲隊に打たれて退き、次に武田信廉隊、小幡隊と繰り出したが 有力武将は討ち死にした。 

1576年

 1575年の越前一向一揆の壊滅により本願寺は加賀二郡を失い、同年 信長との和睦を成立させたが、 信長にとって瀬戸内海、中国地方進出を阻む敵は本願寺であり、その攻略が重要課題であった。 1576年 信長は荒木村重、細川藤孝、明智光秀、原田直政に大坂攻めを命じる。 本願寺側も毛利輝元と結び、海上から抗戦するのである。 児玉就英を大将として能島・来島の村上水軍とともに、毛利水軍は大阪湾に進み、 信長側の船と木津川で敵対したが 毛利側の大勝利となった。 毛利はこれまで 信長と友好関係にあったがこの年から転換したのである。 播磨の別所長治らが信長に出仕し 山陰では尼子勝久、山中鹿介らの挙兵を 信長が支援し 山陰侵功の機を窺っていたが、 明智光秀の丹波侵功が本格化したことで 毛利は信長との対決の道を選んだ。 この決断は四国の伊予河野氏や上杉謙信、武田勝頼にも報じられ 足利義昭の働きかけを受けていた謙信も、長年敵対していた加賀の一向一揆を和睦し、 信長包囲網の一角に加わることとなった。 こうして本願寺、毛利、上杉の反織田信長軍が成立した。 毛利は播磨の上月城を攻略し、姫路城も攻めているが、このときは御着城主・小寺政職の家臣・黒田官兵衛の活躍により退けられている。  反織田信長陣営であった本願寺・一揆方であった紀州雑賀の一部が 信長方に寝返って内通した。 これにより毛利水軍の一角が崩れ 信長は和泉で一揆の立て篭もる貝塚をを攻め、紀州雑賀に進撃した。 これにより雑賀衆の代表が降伏した。 8月には松永久秀親子が天王寺砦を引き払い信貴山城に立て篭もるが 信忠率いる大軍に攻められ焼死する。 9月能登平定を進めていた謙信は七尾城を攻め、ただちに加賀に進み、金沢南方で柴田勝家に快勝した。 しかし翌年、謙信が49歳で病死すると、二人の養子である景勝と景虎(北条氏政の弟)との間で家督争いが続き、 反 信長陣営から脱落する。

重臣・羽柴長秀を総普請奉行に据え築城させた安土城 天主閣址

 

1577年

 播磨の三木城・別所長治につづいて摂津の荒木村重が寝返り本願寺・ 毛利と手を組んだ。 これにより瀬戸内海沿岸には強大な反織田信長同盟が成立する。 荒木村重はもともと 信長に忠節を尽くして大名に取り立てられたが、ここでは光秀・秀吉の遣いにも応じようとはしなかった。 これに呼応して 毛利水軍が本願寺へ向けて木津川河口へと向かった。 ところが織田信長は先の大敗に懲りて、志摩の九鬼嘉隆、滝川一益に大船の建造を命じていた。 鉄板で装甲し大砲三門を積んだ大船により毛利方は近づくことができず大坂への物資補給ができないまま引き返したため、織田信長は大坂海上を制圧し、本願寺は最も重要な補給路を断たれた。

1579年

 荒木村重が有岡城をでて尼崎城に移ると、織田信長の命により一門・家臣らは六条河原などで磔にされ、残るものは焼き殺されたという。 別所長治・荒木村重は毛利軍の東上を期待して挙兵した。 織田信長の豊後の大友宗麟に通じ、また備後の宇喜多直家が秀吉の調略を受けて寝返り、山陰でも丹波、丹後を明智光秀におさえられ、毛利軍は身動きができなかった。 こうして、別所長治は孤立し自害することとなる。 続いて本願寺が信長に屈服すると大坂を退城し、荒木村重は海路、毛利領へ逃れることになるが、後に茶人として秀吉に仕える。

三木城城主・別所長治の石像

 

1580年

 織田信長は天皇を利用して講和の場に本願寺を引き出そうと画策していた。 加賀・越中で信長侵攻は進み丹波の諸城が開城し本願寺は孤立する。 顕如は三木城がおちたことで戦況が悪化すると講和せざるをえなかった。 織田信長は血判起請文を勅使に提出し、天皇が本願寺を赦免する形をとることにより信長を正義とした。 顕如は有岡、三木の残虐な行為にさらされることを避けたのである。 しかし顕如の子・教如はこれに強く反対し、再決起を各地の門徒に呼びかけると雑賀、淡路島の一揆衆をはじめ、信長への抵抗勢力は決して少なくなく、同調した。 顕如はその動きの拡大をおそれ紀州雑賀へ移る。 抵抗を続けていた教如も 信長の退去命令に屈し本願寺、寺内町は灰と化した。 本願寺の屈服を機に柴田勝家の加賀一向一揆制圧はほぼ達成され、一揆の指導者は安土城にて晒し首となった。

 織田信長は本願寺を屈服させると佐久間信盛・信栄親子を追放した。 大坂攻めで攻撃・調略がなく戦功がなかった為、改易追放の処分とされた親子は高野山に隠匿したがそこも追われて流浪し、家老の林通勝、安藤守就、丹羽右近も追放された。 

1581年

 この年、越中では佐々成政、神保越中守は上杉勢・一向一揆に攻勢をかけ、徳川家康は武田勝頼に奪われていた遠江高天神城を奪回し、中国方面の大将を努める秀吉は、因幡鳥取城攻めのため出陣し、毛利方の吉川経家を兵糧攻めにすると経家を降伏させた。 中国・四国地方の平定には武田家の攻略が不可欠であった。 織田信長の侵攻に備えた武田勝頼は新府城に移り、勝頼親子・武田信豊は信州諏訪に出陣するが、松尾城、大島城などほとんどは織田信忠側に寝返り、勝頼弟の仁科盛信守る高遠城も織田信長軍に攻め込まれ、城主・盛信らは討死し落城した。 これにより武田勝頼は夫人とともに小山田信茂を頼るが裏切られ、最後には自害し名門武田家は滅亡するのである。 織田信長は勝頼親子の首を検分し、盛信・信豊をくわえた4人の首は京都に送られ獄門にかけられた。

正親町天皇が眠る深草北陵

 

誠仁親王(陽光太上天皇)が眠る月輪陵

 

1582年

 織田信長は4月安土に凱旋し、天皇・誠仁親王の勅使・勧修寺晴豊より祝勝の品を受け取った。 このとき勧修寺晴豊は太政大臣、関白という天皇方の意向を伝えているが、織田信長は送り返し、すぐさま神戸信孝に四国攻めを命じている。 一方備中に侵攻した秀吉は城々を落とした後の五月、毛利の清水宗治が籠もる高松城を囲み、足守川の水を引き入れて水攻めの策をとった。 救援を求める 毛利軍に対して織田信長は明智光秀、細川忠興らに先陣を命じた。 信長は5月29日に上洛すると、6月1日には本能寺に博多の豪商・島井宗室らを招いて茶会を催し 信忠、公家衆、僧なども集まった。 一方、光秀は出陣に備えて坂本城から丹波・亀山城に移った。 ここで光秀は反乱を計画して戦勝を祈願し愛宕山に参詣している。 決意した光秀は斉藤利三らに計画を明かし全軍を東の本能寺に向かわせた。 2日未明、本能寺を取り囲んだ光秀軍は攻め込むと、信長は本能寺の炎の中で自刃し、森蘭丸や小姓衆も討死したのである。 信忠は信長のもとに行こうと妙覚寺をでるが、村井貞勝の勧めで二条御所に逃げ込み、誠仁親王らを内裏に逃がした。 しかし応戦むなしく信忠も自害した。 安土城の留守居・蒲生賢秀は信長の妻妾を連れて自分の日野城に非難させたという。

織田信忠邸跡                森蘭丸邸跡

 

織田信長公一族の墓碑(左から順に秀雄、信雄、信長公、信忠、秀勝、信高、信好)

 

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