【ミケランジェロ・ブオナローティ1475-1564(イル・ディビーノ:神のごとき人)】 ローマ教皇をパトロンに持ち、彫刻、絵画、建築など多才であった。代表作はダビデ像(イスラエルの王)、システィーナ礼拝堂(ローマ教皇個人の礼拝堂)の天井フラスコ画・天地創造がある。因みに壁には、ギルランダイオ1448-1494、ボッティチェリ1445-1510、ペルジーノ1446-1523(ラファエロの師匠)などの先輩の壁画がある。
1492年 ロレンツォ・デ・メディチが死去でメディチ家から離脱
1494年 ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチから依頼
フランス軍侵攻 メディチ家はフィレンツェから追放される
1496年 ミケランジェロはローマへ移
1499年 ピエタ@サン・ピエトロ大聖堂
1504年 ダビデ像@シニョリーア広場
1505年 ユリウス2世1443-1513から霊廟の制作@サン・ピエトロ聖堂を命ぜられる---何度も中断、完成は40年後
メディチ家の墓を優先--ユリウス2世の遺族から告訴
1508年 システィーナ礼拝堂天井画・天地創造(旧約聖書の世界):描かれている人物像は300超、完成は1512
弟子6人を投入するが、全員クビにして一人で仕上げた(弟子には仕事を任せられない性格)
壁面にはフィレンツェから読んだ著名な画家が描く
レオナルド・ダ・ヴィンチは呼ばれなかった
1513年 ユリウス2世死亡、ローマ教皇にレオ10世1475-1521就任
1521年 メディチ家出身のローマ教皇レオ10世急死
1523年 後継のハドリアヌス6世死去、メディチ家のクレメンス7世が後継
かくしてローマはメディチ家の支配下に置かれたため、ローマ市民はメディチ家を追い出してフィレンツェ共和国の再興を図ったが政情は混沌としていた。
1527年 メディチ家に対する市民の反乱が勃発。
これまでミケランジェロはメディチ家をパトロンとしていたが、市民による反乱のときは市民に加担して要塞計画の中枢を担った。つまり彼はメディチ家を裏切ったのである。ところが市民の反乱はあえなくメディチ軍により鎮圧され、首謀者は処刑された。
このときミケランジェロも捉えられて反逆罪で処刑されるところであったが、メディチ家出身のローマ教皇・クレメンス7世は彼の反逆罪を許して、メディチ家礼拝堂彫刻(1533年完成)や、システィーナ礼拝堂の正面に「最後の審判」描くようにと課した。
1533年 メディチ家礼拝堂彫刻完成
元々ここにはラファエロ1483-1520の師匠ペルジーノ1446-1523の絵があったが、その上に最後の審判をふらふらになりながら描いた。かくして1541年から6年の歳月をかけて最後の審判は1541年に完成したのである。(マニエリズム:技巧主義 マニュ=手 マニュアル=手引き マニエラ=手法 ルネサンス時代は批判されたが20世紀に見直された)
1530年 神聖ローマ帝国のカール5世がフィレンツェを陥落させたことでメディチ家は権力を取り戻したのである。
1541年 システィーナ礼拝堂壁画制作に従事--1547年完成
1547年 サンピエトロ大聖堂の修復開始: 完成はミケランジェロの死後30年後
1559年 メディチ家礼拝堂ほぼ完成?
システィーナ礼拝堂の正面に「最後の審判」
この壁にはラファエロの師匠・ペルジーノが描いた「聖母被昇天」があったが、時のローマ教皇の命により「最後の審判」を描く
中央のキリストはダイナミックに断罪を与え、頭上の天使は悪人である強欲な聖職者をなぐり、地獄行きの名簿は大きくえがかれている。実はミケランジェロは登場人物を全員裸で描いていたが、バチカンのチェゼーナ儀典長が服を着させるようにとクレームをつけた。怒ったミケランジェロは壁画の下に地獄の裁判官ミノスの顔をチェゼーナに似せ、馬鹿の象徴であるロバの耳、罪の象徴である蛇を巻き付かせ、蛇に陰茎を嚙みつかせた。後に腰を覆う布を描いたのはミケランジェロの弟子ヴォルテッラで、腰巻野郎というあだ名がついたという。