平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

平安絵巻五 藤原定子

2007年01月13日 | 平安時代

平安絵巻五 藤原定子

 996年1月16日、伊周・隆家の従者が花山法皇を射るという事件が起きた。 このころ花山上皇は為光の四の君の許に通っていた。少し前には藤原伊尹の娘で九の御方という姫君の許に通っていたが、この姫君に仕える女に手をつけ、そのまた娘をも身篭らせてしまった。九の御方に気が咎めた花山上皇は異母弟の弾正ノ宮・為尊親王をあてがっている。為尊といえば和泉式部を寵愛した色男で有名である。事件で殺害された者は花山の従者であったが花山上皇はこれを隠し為光邸へのお忍びの遊蕩をも隠そうとした。しかしこういう事が広まるのは実に早い。この頃伊周は為光の三の君に通っていたが花山のお忍びを同じく三の君へのお忍びを勘違いしたようで、威嚇の為に伊周の弟・隆家が矢を放ち従者を殺害したのである。 かくして4月24日伊周・隆家兄弟は法皇を射た罪で23歳の伊周は大宰権帥に、18歳の中納言隆家は出雲権守に処せられることとなった。 中宮定子は伊周らの不祥事件を憚って内裏を退出し、一週間後の5月1日に落飾している。

 この年に倫子は二人目の男子・教通を出産している。将来を有望視された伊周、高階一族の政界追放、伊周の母・貴子の死に対して道長の運の強さが現れているとしか言いようがない。 7月に、道長は正二位・左大臣に昇進している。 また同日、大納言公季の娘・義子(後に弘徽殿の女御といわれた)が入内した。同じ頃、顕光と盛子内親王の娘である元子も入内している。またしばらく後の約1年後であるが道兼の娘・尊子も入内している。 尊子の母は藤原繁子といって一条帝の乳母であったが一条側近の女官の中では最も有力な一人である。彼女は道長の兄・道兼と密かに通じ尊子をもうけていたのである。中宮・定子が内裏を退出したあと里邸の東三条邸の東、二条北宮にいたため、さっそく母・繁子が働きかけてきたのである。 花山法皇狙撃事件以降一条帝はより一層定子を寵愛し続けたと見えて、この年の暮れ12月16日に第一皇女・脩子を出産したのである。後に入内した義子、尊子、元子は一条帝に寵愛されることはなかったようである。入内に際しては道長にとっては大きな賭けである。もしも彼女達に男子が生まれれば、その男子が次期東宮になる可能性は大である。 ところが一条帝は定子以外の女御を愛することはなかった。また何より一条帝が寵愛した定子に女子が産まれたのであるから、これも道長の強運を象徴する事柄のひとつである。

 定子の出産に先立って実は道長の妻明子が三人目の男子・能信を生んでいる。詮子にもひやかされたように道長の妻・倫子、明子がお互いに順番に子供を産んでいるからなかなか道長も器用な御方である。

 さて、定子の懐妊騒ぎに翻弄されていた最中に東宮の后で麗景殿尚侍と呼ばれていた綏子(道長とは異母妹)が身篭ったという。先頃定子が産んだのが女子であったから綏子の子つまり東宮の子が男子であれば皇位につく権利を得ることになる。ところが身篭った子の父は東宮ではなく、寂しさから情事に耽っていた遊び人の源頼定であった。ほんとうに身篭ったのかどうかを確かめるために道長は東宮の命により綏子本人に尋ねている。頼定の母・保子と道長の妻・明子は異母姉妹で源高明の娘である。頼定は大胆にも東宮の御殿にも忍び込んでいたとか・・・、東宮はここのところ綏子がいる麗景殿には渡っていないとかの情報を得て問い詰めるが綏子は何も言わずに黙っている。子供の頃気安く遊び戯れたことのある二人であったが、男を引きこむような綏子の物腰に今気付くと東宮が妬ましくなる道長である。頑なに沈黙を守る綏子に業を煮やした道長は彼女の肩を覆っていた紫苑色のものを引き剥がしてしまった。残ったのは薄物の単ひとつで上半身は裸に等しく、道長が触れた乳房は豊満に盛り上り、乳首は黒ずんでいた。思わず力をこめた瞬間、白い液体がほとばしった。妖艶で豊満な肢体は懐妊の事実を告げていた。と、そのとき綏子は静かに倒れ伏し、絵のように美しくすすり泣いている。 事の事実を東宮に告げると、同情の念を抱いていたようであるが、綏子が後宮にもどることは二度とないであろう。 

 997年、伊周・隆家の配流が落ち着いた翌年詮子の容態が悪くなった。読経や祈祷の効果がない場合、伊周一族の凋落ぶりに気が咎め、祟りのせいではないかと囁かれるのである。赦免そして帰京と口々に公卿が言うと、4月5日に恩赦が決まると隆家はさっそく4月21日に上洛している。 初夏の7月5日には人事異動が行われ、大納言・公季が内大臣に昇格した。そして大納言の後任には異母兄の道綱に与えた。 こともあろうに自分よりも後に中納言となった無能な道綱なだけに、藤原実資は不満の日記にぶちまけている。 道綱といえば蜻蛉日記を記した藤原倫寧の娘を母に持ったが、美人で才女の誉れ高い血が道綱には流れていないのか・・・。

 詮子の体調がよくなると今度は道長の体調が悪くなり、追い討ちをかけるように道長にとって悪い知らせが舞い込んだ。例の顕光の娘で一条帝に入内していた元子が身篭った。承香殿の女御といわれるその人に入内を薦めたのは道長であるから文句は言えない。道長と同じく心穏やかではない人がもう一人いる。 弘徽殿に住む公季の娘・義子である。 顕光の薦めで霊剣新たかな薬師如来像があるというので人気の太秦の広隆寺に元子は参籠することとなった。顕光はここで24時間切れ目なしで読経を行うという「不断経」を行っている。ところが驚いたことに陣痛の後、広隆寺で産まれたのは嬰児ではなく多量の水であったという。顕光はこの事件によって散々な目にあい、しかも北の方・盛子内親王まで亡くしている。そして998年の夏は新たな疫病のせいか、倫子の異母兄で参議の源扶義や書道家の藤原佐理が亡くなっている。

 999年2月9日、倫子の長女・彰子も11歳となり着裳の儀が行われ、従三位に叙せられた。昨年の秋に嵐に見舞われ、土御門邸から一条邸に移っていた詮子は、母以上の黒々とした髪を蓄えている彰子に惚れ惚れしている。そして詮子はこの姫の里邸として土御門邸を建て直すようにと提案した。 今詮子がいる一条邸はもともと為光が三の君に残した邸であったが、広すぎて手入れが出来ないということと、三の君は四の君と一緒に住みたいという意向から詮子が譲り受けていたのである。暮れに彰子の入内が決まったことから、娘の幸福を願って道長夫婦は、2月27日に藤原の氏神である春日大社に詣でている。さてこれからは倫子は母として多忙となるのであるが6月14日の深夜に内裏が焼失してしまった。 これでは入内できないと倫子は嘆くのであるが、倫子にとってもっとショックな出来事が知らされた。 定子の懐妊である。彰子の入内を目の前にして定子が懐妊するとは・・・・。8月になって定子は出産準備のために平生昌の三条邸に移った。9日のことである。定子の輿と3歳になる脩子内親王を乗せた車は無事に生昌宅の東門をくぐったが、清少納言たちがくぐるべき北門は狭くて車が入らず、殿舎まで歩くことを余儀なくされた。

 一方入内を控えた彰子は40人の女房を従えて西の京にはいった。道長もつきっきりであるが、とりわけ鮮やかな働き振りを見せているのは大納言の君と呼ばれる倫子の姪である。倫子にそっくりな君がかいがいしく彰子の世話をしているのを見ているうちに絶対に手放したくはないと思った後の事は覚えていない。惜しげもなくさらされた挑発的な肢体は貪欲に唸りをあげていた。彰子が入内を果たしたのは定子が第二子を産む一週間前であった。 そして女御の宣旨を受けた彰子に一条帝のお渡りがあったことを倫子は聞くと安堵したのも束の間、定子が出産したのは皇子であった。 姉の脩子内親王に准じて親王宣下が下され、いつか一条が譲位し現東宮の居貞が即位したときには次期東宮の最有力候補になるに違いないとされていた。 そうすると中宮定子は今の詮子のような発言力を持ち、今は政界から追放されている伊周、隆家も俄かに力を得てくるだろうと目されたが、後に不遇の人生を送る敦康親王である。

 やがて病臥にあった冷泉上皇の后・太皇太后宮昌子内親王が12月1日亡くなった。

 1000年は年頭から慌しく、2月21日に倫子が女児・威子を出産した。そして蔵人頭・行成が奔走する甲斐あって彰子の立后が叶ったのは2月25日である。 彰子が立后の宣旨を受けるために一条院から退出したのは21日、彰子の退出とひきかえに中宮定子は脩子内親王、皇子・敦康とともに一条院の北の対へ赴く。一条帝との対面が終わると次は上東門第ともいわれる彰子の里邸・土御門邸に移る。 彰子の到着と前後して、倫子の異母兄で大納言・源時中、為光の息子で誠信の弟にあたる参議・藤原斉信、同じく参議・源俊賢が顔をそろえた。 道長は彼等を従えて参内すると一条帝の内意が示される。新皇后彰子の中宮太夫には源時中が、権太夫には藤原斉信が任命された。 そして立后後最初の入内のときに、関係者の加階が行われる。倫子は従二位、彰子の乳母・源信子と源芳子は従五位下に叙せられた。また倫子の甥で道長の腹心権中納言・源成信も加階される。

 こうした平安絵巻が繰り広げられた後、定子が再び身篭ったのである。皇子・敦康を出産して100日も経たない時期であっただけに定子本人も驚いたに違いないが、一番唸ったのは道長である。彰子の立后を強行したことに対する仕打ちか・・・。定子に比べれば彰子はまだほんの子供であるから、もはや彰子の将来は定子に阻まれたも同然。 とたんに道長は体調を崩したが、時に彰子立后の立役者である姉・詮子の体調も思わしくなく、霊に恨まれていると信じた道長は左大臣辞職しかないと思い込むが、一条は辞意を認めようとしない。いよいよ道長が伊周を復帰させ、もとの官位に戻そうと考えている矢先に訃報が飛び込んできた。 なんと12月16日定子が3人目の皇女を産んだ後息絶えてしまったのである。 本来であれば、彰子の最大の敵・定子が向うから脱落してくれたわけだから、幸運ではあるが、道長は伊周の霊に加えて定子の霊までが脅かすことになると恐れたのである。全く同じ気持ちを抱いていたのは詮子である。ある意味で源高明の祟りを恐れたために彼の娘・明子を引き取って育てたが、今回も定子の忘れ形見・び子内親王を含め3人の遺児を引き取ろうとしていた。

コメント    この記事についてブログを書く
« 平安絵巻系図 | トップ | 平安絵巻六 藤原彰子 »
最新の画像もっと見る

平安時代」カテゴリの最新記事