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後白河法皇法住寺陵

2009年02月01日 | 平家物語

 平安時代に藤原家が造営を行った寺のひとつに法住寺がある。 造営したのは藤原為光といって九条殿といわれた藤原師輔の子であり、斉信の父である。 法住寺は広大な寺域の寺であったが1032年に全焼したあとは再建されることはなく今日は何も残っていない。 その後、後白河法皇がこの地で院政を行ったことから後白河法皇を法住寺殿とよんだ。 後白河法皇は死後に自分の墓地をこの地に営み、三十三間堂でしられる蓮華王院も政治・仏教の施設群の一部であった。 後白河法皇の法住寺殿は平家物語をはじめ多くの史書にでてくる。 天皇時代に行った保元の乱や上皇になったばかりに行った平治の乱で登場し、源頼朝の言葉である日本一の大天狗で知られているが、庶民の間で流行った今様にひかれた人物でもある。 平安時代の天皇は古今和歌集などの伝統的な和歌を重視し、奇異な作品を遠ざける方針があった時代のことを思えば人間らしい一面をのぞかせる。 青年の頃から今様合わせを行ったのは法住寺殿で、それらを集めたのが梁塵秘抄である。 

 

 後白河上皇の法住寺殿は1161年にある公家の邸宅を移したのが造営の始まりでそれ以来次々と建物がつくられ広大な範囲となった。 南殿、北殿、西殿、蓮華王院があって新熊野神社も法住寺の鎮守としての役割をになっていた。 御所としての機能の中心は南殿にあり寝殿造の建物が配置されていた。南殿の南には広大な苑池が掘られ、新熊野神社の西にあり池田町の地名を残している。 また後白河は生前から法住寺殿の中心に陵を営む場所として法華堂を設け、1192年に死ぬとともに法華堂の地下に石室をつくって棺を納め法住寺陵とよぶことになった。 現在蓮華王院の東には法住寺があり、後白河陵への細い参道が平日には開けられている。 

 

 

 後白河の女御に平清盛の妻の妹である滋子がいる。 建春門院といて彼女も法住寺殿の南西部に最勝光院を建てた。建春門院は1176年になくなり、後白河はこの年に出家して法皇になった。 法皇は自らの陵の予定であった法華堂を滋子の墓とし、自分の墓は別につくった。 現在も二人の墓は隣接するが、さらにその北にもう一基の墓がある。 ここには豪華な武具を副葬していたことから武将の墓としてしられ、1183年に木曾義仲の法住寺合戦で死んだ源光長のものと推測されている。 法住寺合戦では天台座主明雲大僧正と円慶法親王もまきこまれ、上皇側の戦死者630人余りの首とともに六条河原に並べられた。 円慶法親王は後白河の第五皇子であり近江の円城寺の長史をしていたが、法親王の墓とする説もある。 

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