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紫日記 産室へ

2006年03月15日 | 平安時代

第一部 第一章 寛弘五年(一〇〇八)秋の記
【一〇 九月十日、産室に移る】

 十日の日の、まだ夜明けがほのぼのとするころに、御座所【居間】のしつらいが浄白に模様替えになる。白木の御帳台 【産室は、ふだんの装束や室礼を撤去して、白木の御帳台、白綾面の屏風、白の几帳、白綾縁の畳、というように白ずくめの装飾に替えられる。】 にお入りになる。殿をおはじめ申して、御子息たちや君達、他の四位や五位たちが慌ただしく働いて、御帳台に垂絹を掛けたり、御寝具類を次々と持ち運んだりしている間は、とても落ち着かない。

これが白木の御帳台です 風俗博物館より拝借

 中宮様は一日中、とても不安そうに起きたり臥したりなさりながらお過ごしなさった。中宮様についているもののけどもを憑坐に駆り移し、調伏しようとこの上なく声を上げて祈り立てる。ここ数月来、大勢仕えていた邸内の僧侶たちは、言うまでもなく、山々や寺々を尋ね求めて、修験者という修験者は一人残らず参集して、三世の仏様もどんなに空を翔け回っていらっしゃろうかと思わずにはいられない。陰陽師とても、ありとあらゆる者たちを呼び集めて、八百万の神々も、耳をふり立てて聞かないことはいないとお見受け申した。御誦経の使者が、一日中次々と出立する騒ぎのうちに、その夜も明けた。

 御帳台の東面の間には、主上付きの女房たちが参集して伺候する。西面の間では、中宮様のもののけが移った憑坐たちが、御屏風一具をもって引き囲み、その囲みの入口には几帳を立てて、修験者たちが憑坐一人ひとりを担当して祈祷の声を上げていた。南面の間には、高僧の僧正や僧都たちが、重なるように並みいて、不動明王の生きておられる容貌を呼び出してしまいそうな、祈願したりまた恨んだりして、みな一様に声を涸らしているのが、たいそう尊く聞こえる。

 北の御障子と御帳台との間の、とても狹いところに、女房四十人余りが、後から数えてわかったのだが、詰めていたのであった。少しも身動きできず、のぼせあがって何も考えることができないありさまであったよ。今ごろ、里から参上した女房たちは、せっかく上がったのにかえって邪魔者扱いで、室内に入ることもできなかった。裳の裾や衣の袖などがどこに行ったのかもわからず、しかるべき年輩の女房などは、中宮様の身を案じて忍び泣きして、おろおろしている。

【中宮彰子の出産ともなると、女房達・僧侶総動員の様子が良くわかります。気持ちは現代も同じですね。 御産前後には、物の怪が現れ産婦を苦しめると信じられたので、賢者が側に侍して加持祈祷を行ったのです。  出産は上半身を起こして前後の介添人に助けられ、座ったままの姿勢で出産する、座産です。   子供が無事産まれると、その当夜、三日目、五日目、七日目、九日目のそれぞれの夜に祝いが行われたが、これを産養といいます。  誕生後五十日目と百日目は特別の祝いが催され、これが五十日の祝と百日の祝です。 乳児の前に子供用の小さい膳・皿・箸台・州浜などを据えて、餅を食べさせるという儀式であるが、この餅はかならず市から買うことになっていた(月の前半は東の市、後半は西の市から買う)。父または祖父が、餅を潰し、汁を加えて柳の木の箸と匙で乳児に餅を含ませます。 いわゆる現在の食い初めの儀式に当たります。】

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