崇徳天皇
陽成院、三条院に続いて、悲劇の天皇で代表されるのが崇徳天皇である。保元の乱に敗れて讃岐に流されたが、陽成院・三条院との大きな違いは崇徳天皇の和歌の飛びぬけた見識にあり、後の後鳥羽天皇に次ぐ天皇歌人である。「詞花和歌集」は崇徳院の勅命により清輔の父・左京大夫・顕輔が編纂にあたった。 また「久安百首」は自身の歌や側近の徳大寺公能、藤原敦長らの作を集めたものであり、1150年に奏覧されたものを藤原俊成が手直しをし完成させた。
院が讃岐に流された後、歌壇の火が消えかかることに対して、西行、寂然は嘆き悲しんでいる。寂然は院の生前に密かに讃岐を訪れ、西行は崇徳院側近の女房と音信を交わしていた。院は変わり果てた境遇を悲しみ、来世こそはと願ったが悟りの境地に到達せず、その心境への同情がやがて怨霊説となっていった。崇徳院は讃岐にて経典の血書をしかるべい寺に奉納しようと申し出たが、乱後政権を握った信西入道が許さなかったため、生きながら天狗の姿になり魔王となって国家を傾ける呪いをかけたというのである。西行が崇徳上皇崩御後に讃岐を訪れ、白峰の墓に参り亡魂を慰めたのも、彼のただならぬ思いを早くから憂えていたためである。
やがて歌壇に進出する藤原俊成も院の配流を嘆き悲しむ者のひとりであり、家集に院の長歌を収録している。
思いやれ都はるかにおきつ波立ちへだてたる心細さよ
藤原俊成の子・藤原定家が百人一首に「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあわむとぞ思ふ」を納めたのも偶然ではないのである。
弘法大師、西行法師をはじめ源義経も屋島の合戦の前に訪れたという香川県の坂出のすぐ近くの白峰山には崇徳天皇陵があります。(撮影:クロウ)
為隆為房(1049-1115白河上皇に重用)
為平親王娘 尊子(道長五女) ┣為隆(万里小路家祖)
┣隆姫女王995-1087 ┣俊房 ┣顕隆(葉室家祖)
┣次女 ┃ ┣顕房 ┃ ┗徳大寺実能━公能
┣師房 ┃ ┃ ┗賢子(白河中宮)┗妹(堀河鳥羽の乳母)
┣嫥子女王┃ ┣麗子
具平トモヒラ親王┣源師房(1008-1077養子) 篤子内親王
┣源嫄子(敦康親王娘1016-1039養子) 中宮賢子 ┣
┃ 彰子 ┣祐子内親王1038-1105 藤原茂子(公成娘) ┣73堀河天皇1079-1107
┃ ┣69後朱雀1009-1045 ┣72白河天皇1053-1129
┃ ┃ ┃ ┣71後三条1034-1073 ┃乳母:藤原顕季アキスエ母
┃ ┃ ┃禎子内親王(陽明門院1013-)┃┣長実
┃66一条天皇┃ 光子(堀河鳥羽の乳母) ┃┃ ┗得子(美福門院)1117-
道長 ┃ ┣70後冷泉1025-┣三条実行 ┃┣家保 ┃
┣頼通992-1074 藤原嬉子┃ ┣西園寺通季┃┣顕輔 ┣76近衛天皇
┃ ┃ ┣通房1025-1044 ┃ ┣徳大寺実能┃藤原経平娘 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗公能 ┃ ┃
┃ ┃源憲定娘┏━━━━┛ ┣璋子(待賢門院)1101-1145┃
┃ ┣覚円 ┣ x 実季┳公実 ┣75崇徳 ┃
┃ ┣寛子 1036-1127平等院奥院┗苡子 ┣77後白河 ┃
┃ ┣師実 1042-1101京極殿 ┗━━┓┃ ┃
┃ ┣家綱-1092 ┣師通モロミチ1062-1099 ┃┃ ┏━━━━━┛┣近衛基実
┃ ┣忠綱-1084 ┣賢子 ┃ 74鳥羽上皇 ┣近衛基房
┃ ┃ 麗子 ┣忠実1078-1162 ┣ ┣九条兼房
┃ ┣藤原祇子 ┣全子 ┃ ┣泰子(高陽院1095-1155) ┣慈円
┃ 頼成 俊家1014-1082 ┃ ┣忠通(法性寺関白1097-1163)
┣教通996-1075 ┃ ┣源師子
倫子 ┃ ┃┣ x ┃源顕房
┃ ┃嫥子女王 ┣頼長1120-1156(内覧 保元の乱で敗)
子内親王 ┣ 信家 盛実娘
┣ 通基
┣ 信長1022-1094(九条太政大臣)
┣ 生子1014-1068(後朱雀女御)
頼忠 ┣ 歓子1021-1102(後冷泉皇后)
┣公任┣ 真子(後冷泉女御)
厳子女王┣娘
昭平親王娘