征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷の悪路王(アテルイとの説もある)を破って奥州を支配したときに、そのお礼として建立したのが達谷窟毘沙門堂であるという。今はパワースポットとして多くの若者が訪れ、その存在感は微塵も揺らいでいない。
奥州に蝦夷と呼ばれるひとがいたのは平安時代の初期である。 その王者アテルイは中央から派遣された征夷大将軍・坂上田村麻呂と戦い、中央軍が勝利し胆沢城が築かれ奥六郡と称された。 統治は俘囚(朝廷に服従した捕われた者の意味)により行われた。 873年陸奥守阿倍貞行などはその代表といえ、俘囚首長から賄賂をとって脱税を見逃す動きが任用(諸郡に派遣された役人)に見られたときに、任用の給料から補填させることを政府に提言して認められている。鎮守府が置かれた胆沢城はこの頃堂々としたものに整備拡張され、統治のための施設になっていった。 914年には延喜東国の乱平定に功績のあった藤原利仁が将軍となり、以降高望の子孫、藤原秀郷の子孫が将軍に補任された。 武威を背景に奥六郡支配を行う陸奥守・源頼義に対して、奥六郡司・阿倍頼時(奥州藤原氏初代清衡の祖父にあたり、頼良ともいう)は業務の補佐をしている。 胆沢城と兵士制の存在は奥六郡内部の俘囚間武力紛争などを抑制する役割を果たしていたが、やがて兵士制が解体し胆沢城の紛争抑止機能がなくなると、胆沢城自身の体制も崩れて廃棄されていく。
808年、賀美能親王に仕える春宮亮の冬嗣が侍従という平城の側近に近侍する役目がまわってきた。 これは平城と真夏の間で決定がなされ、真夏も観察使に昇進である。 閣議に列席するするのだから36歳の真夏は閣僚入りを果たしたことになる。 同じ年の緒嗣は昨年観察使に任ぜられていたからついに緒嗣に追いついたのである。 一方侍従・冬嗣は初出仕し、平城天皇不調を目の当たりにするのである。 伊予親王と母を死に追いやった平城は、父・桓武が弟の早良を死なせたのと同じ道を歩んでいた。 怨霊に取り憑かれた平城は、その年皇位を投げ出し賀美能親王が即位し、嵯峨天皇が誕生する。 冬嗣は右衛士督に、三守も内蔵助になり、冬嗣の義弟・良峯安世も従五位下に叙せられた。 平城太上天皇の病状はあいかわらずであるが、まだ天皇と同格の権限を持っており、薬子が尚侍として実権を握っている。 平城の体調が回復に向かうと、東宮を嫌い、住まいを変え奈良の都にもどりたいといい始めた。 こうして藤原仲成の手際よい準備もあって、平城は奈良に、嵯峨は平安京にという二重統治が行われようとしていた。 このときから今度は嵯峨天皇が体調を崩すと翌年は朝賀の儀も行われずじまいとなる。 奈良へ移った平城太上帝は日増しに体調を回復させると、薬子の勢いも増し、服毒死した伊予や吉子の祟りが平城から嵯峨天皇へ乗移ったかのようである。 嵯峨天皇の病める心はいよいよ暗く沈み、逆に奈良にもどった平城太上帝は元気になり、尚侍・薬子は権勢を振るい始めたのである。 側近の葛野麻呂や冬嗣の兄・真夏も奈良行きの中に加わっている。 嵯峨側にとってはやりにくいこと夥しく、薬子の術中にはまった感がある。 そして嵯峨がとった観察使の制度を廃し、もとの参議に戻すと、薬子の兄仲成とともに真夏は37歳にして参議となり、野望であった閣僚の仲間入りを果たした。 薬子の自殺 嵯峨側も尚侍・薬子に対抗して三守とともに思案を巡らし、典侍・小野石子を置き、東宮時代の嵯峨に春宮大夫として仕えていた巨勢野足を蔵人頭として冬嗣とともに典侍を支えようというのである。 しかし参議の多くは奈良の平城の許におり、嵯峨は弱気になり、奈良への遷都も承諾しかねない様子である。 冬嗣はこの危機を乗り越えようと、右大臣である父・内麻呂に申し出た。 奈良遷都が太上帝の意思であれば従うよりほかはなく、ついては奈良の整備のために手伝おうというのである。 つまり殴りこみである。 意を察した内麻呂は、征夷大将軍として聞こえ高い大納言・坂上田村麻呂を同道させようというのである。 坂上田村麻呂が動くということは紛れもなく軍事行動を意味する。 これに賛同したのは桓武に愛され異例の出世をしたために平城に憎まれていた藤原緒嗣である。 嵯峨側は厳戒令を敷いていた。 嵯峨の屈服という誘いに釣られて平安京に出向いていた仲成が、このことに気付いたときには時すでに遅く、平城側は坂上田村麻呂を大将とした軍師に取り囲まれていたのである。 平城側は田村麻呂と護衛兵の姿をみたとたんに戦意を喪失して、平城は剃髪し薬子は毒を仰いで自殺し、そして仲成は左遷に抵抗したため平安京で射殺されたのである。 冬嗣の兄・真夏は参議になったのも束の間で参議を解任された。 平城太上帝は平安京への帰還を断り、奈良の地にとどまる意思をみせたのである。 詔では、平城をかばうかのように薬子と仲成ふたりだけを悪者にしたが、それでも平城は薬子を愛していた。 妖婦とののしられようが二人の愛は本物であったようで、嵯峨が差し伸べた好意を平城が受け入れることはなかった。 そして冬嗣の兄・真夏も平安京にて才能を発揮しないかという弟の誘いを退けて、奈良で平城とともにする道を選んだのである。 桓武に半ば見捨てられ、愛に飢えて薬子に走ったさびしい平城の気持ちを真夏は理解していたからである。 真夏は安殿に仕え自分の運命を賭けたのである。 そして敗れた今は心静かについていくだけであった。 冬嗣が愛と敬意をこめて奈良へ見送った真夏が平安京をおとづれることは決してなかったという。 平城太上帝の後の半世では妃を退出させ、薬子の鎮魂に精を出し、また嵯峨天皇に気遣われながら平穏に過ごしたといいます。 そして824年に51歳の生涯を終えました。
征夷大将軍・坂上田村麻呂の墓