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黒田家の廟所

2009年09月07日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 ここ黒田家の墓所には、黒田孝高(官兵衛のちの如水)の祖父・重隆と生母(明石氏)の二人がまつってあります。 黒田重隆は御着城主・小寺家の家老となり、重用されると姫路城主となります。 その後子の職隆、孫の孝高とつぎますが、1580年秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城(妻鹿)に移ります。 職隆の墓所は妻鹿にあるといいます。  黒田官兵衛孝高(1546-1604)は豊臣秀吉に仕えた軍師で、1546年播磨国姫路の国人の息子として生まれた。 孝高の父・黒田職隆は守護大名・赤松氏の一族で御着城主だった小寺政職 (政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重隆の子職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺の名字を名乗らせた。) に属し姫路城を預かった。 孝高は中国地方で馴染みのある 毛利ではなく、勢力が姫路にも達していない頃から織田を選んでいたから、その眼力は並大抵ではない。 織田軍の中国地方軍事司令官に抜擢されたのが羽柴秀吉であり、孝高はこうして秀吉や、軍師・竹中半兵衛とも親交を深めた。 孝高はあるとき人生最大の危機が襲うこととなる。 織田に忠誠を誓っていた荒木村重・摂津国有岡城主が突然 毛利に寝返ったのである。 織田方では説得して翻意させようと、使者に黒田官兵衛孝高が選ばれた。 村重は黒田官兵衛孝高の言葉すら聞こうとはせずに、孝高を城内に監禁したのである。 織田側からすれば説得にいった孝高は城に入ったまま戻ってこないために、信長は孝高が裏切ったものと早合点して人質にとっていた孝高の子・松寿丸(後の黒田長政)を殺すように命令した。 しかし竹中半兵衛は孝高が裏切るような人物ではないとして松寿丸を匿ったのである。やがて有岡城は織田信長により落とされ孝高は救出され、疑惑は晴れ、信長の信任を深めることとなった。 秀吉が三木城を落としたとき、孝高は播州の経営には不適な城とし自らの姫路城を秀吉に譲っている。 このとき竹中半兵衛は病に倒れたために、以後は名を改めた如水が秀吉の軍師となった。 1582年本能寺の変が起こったとき秀吉は如水の献言を受け入れて備中高松城を水攻めにして 毛利の大軍と対峙していた。 毛利に主君の死が伝われば、敵は一気に勇躍し、味方は総崩れになるところであったが、軍師・如水が切り抜ける方法を考えたのである。 天下は秀吉のもの、自分に天下を取る意思はない、という意味で名づけた如水であったが、秀吉の死後、関ヶ原の戦いの直前、如水は豊前の地で兵を集めた。 黒田家の精鋭部隊は徳川家康の東軍に味方するために息子・長政の指揮の下に国を留守にしていた。 如水は中央で騒乱が起こっている間に、九州で兵を集めて北半分を統治しようとしていた。 ところが肝心の関ヶ原の戦いが僅かに一日で終わったために、九州統一は叶わなかったが、 関ヶ原で小早川秀秋を寝返らせ東軍に勝利をもたらせた最大の功労者は如水の息子・長政であった。 その手柄に意気揚々と凱旋してきた長政に、「なぜ家康を刺して天下を狙わなかったのか」といった如水伝説は有名である。

黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
  ┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
  ┃┣娘
  ┃┃┣-
  ┃┃浦上清宗-1564     蜂須賀正勝娘
  ┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604 ┣-  
  ┃┃      ┣黒田長政1568-1623
  ┃┃幸園(櫛橋伊定娘)    ┣黒田忠之1602-1654
  ┃┣黒田利高1554-1596    ┣黒田長興1610-1665      
  ┃明石宗和娘(小寺養女)   ┣黒田高政1612-1639
  ┣黒田利則1561-1612     栄姫
  ┣黒田直之1564-1609
 神吉氏
 

 

 

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