御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣・小寺政隆の居城であった。 1519年の築城以来、則職・政職と継承され1578年には羽柴秀吉の播磨侵攻によって滅亡したとされる。 赤松円心の時代に構居が設けられ、1500年頃には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭として機能していたことが昭和52~54年の発掘調査で明らかになっている。 「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には、城の中核に本丸と二の丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれているという。 国道二号線の南に接して祀られている「小寺明神」付近が本丸跡で、国道北側の御国野小学校とその西に続く黒田家廟所付近は二の丸であった。 姫路藩が1828年に旧西国街道の天川に架橋した総竜山石製の太鼓橋が、現在この地に保存されている。