八重葎しげれるやどのさびしきに人こそ見えね秋は来にけり
恵慶法師(出自・経歴は不詳)は播磨国分寺の講師をつとめ、円融・花山朝の962年ごろより歌合などで活動し、986年花山院の熊野行幸に供奉した記録がある。また、大中臣能宣・紀時文など中級の公家歌人だけではなく、清原元輔、平兼盛、源重之といった賜姓王氏の末裔達と微妙な連帯感を持ち、特に安法法師とは親しかったという。 恵慶法師の歌は河原院で詠まれたもので、かつては河原左大臣源融の邸宅であった。 河原院は風流を好んだ融が贅を尽くした庭園で名高く、海水を運び入れて陸奥の歌枕塩釜を模したという。 『伊勢物語』では、惟喬親王や業平を思わせる人物がこの邸を訪れて紅葉などを愛でたとの話を載せているし、紀貫之は融の死後この庭を見物にやって来て「君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな」と詠み、亡き左大臣を偲んでいる。 その後河原院は荒れるに委されたが、この歌が作られた頃には寺となっていて、融の子孫である安法法師が住んでいた。 恵慶法師ら歌人たちはそこを溜まり場として風雅の交わりを楽しんだのである。 安法法師主催の歌会で詠まれた 「人こそ見えね」の句には、風雅の庭に四季折々の情趣を楽しんだ古人の姿がしみじみと偲ばれ、藤原公任の撰とされる撰歌歌合「後十五番歌合」に採られるなど古くから恵慶法師の代表歌と見なされた。
河原院の荒廃を詠んだ作には、「すだきけむ昔の人もなきやどにただ影するは秋の夜の月」 「くさしげみにはこそあれてとしへぬれわすれぬものは秋の夜の月」 「跡絶えて荒れたる宿の月見れば秋となりになりぞしにける」などがある。
清原元輔、平兼盛、源重之については賜姓王氏の末裔達と書いたが、藤原氏の主流から外れた人々も含めて世渡り下手な人々の鬱屈した心情を詞、和歌、日記に吐露し脚光を浴びることとなった人たちは極めて多い。 中でも源順は才能をもてあまし不遇の生涯を送った文人の典型である。 公任の36歌仙に選ばれながら、百人一首に入らなかった人でもある。 41歳でまだなお文章生であったが、2年後に下級の官職にありついたが、受領就任は57歳の和泉守がはじめてで、近江野洲群の山荘にわび住まいした。 これに共感し同情したのが、梨壺の5人(後撰和歌集の撰進にあたった5人のことで、清少納言の父・清原元輔もその一人である) 仲間の大中臣能宣で、「みかきもり衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつものをこそ思へ」 と詠んだ。
源順とともに鬱屈した思いを役所の長官に訴えた人で、同年代の藤原倫寧(道綱母の父)は64歳にしてやっと伊勢守となり、ありし日の梨壺の栄光をひきずった源順は70歳にして能登守にありついている。 また、歌人としてははなばなしい平兼盛も官暦はまったく振るわず、70歳にしてやっと駿河守を拝した。 40歳くらいで長寿の祝いとなる当時、清原元輔などは79歳にして肥後守に任じられたのは驚きである。