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第26代継体天皇陵を訪ねて

2007年02月04日 | 天皇・皇后陵

第26代継体天皇三嶋藍野陵の謎

24代仁賢天皇449-498 
   ┣ 第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)489-507 
   ┣ 春日山田皇女      堅塩姫(石川渡来系豪族)          
   ┣ 手白香皇女       ┣ 大兄皇子(第31代用明天皇)
   ┃    ┃        ┣ 磐隈皇女,臘嘴鳥皇子,額田部皇女,椀子皇女          
   ┃    ┃        ┣ 大宅皇女,石上部皇子,山背皇子,大伴皇女          
   ┃    ┃        ┣ 桜井皇子,肩野皇女,橘本稚皇子,舎人皇女          
 春日大娘皇女 ┃        ┣ 豊御食炊屋姫(推古天皇)          
            ┣ 第29代欽明天皇 509-571        ┣ 菟道貝鮹皇女  
           ┃     ┣32代崇峻天皇  ┣八田大兄皇子┣ 竹田皇子
           ┃     ┣茨城皇子    ┣第30代敏達天皇  
             ┃     ┣穴穂部間人皇女┣笠縫皇女  ┣ 押坂彦人大兄皇子
           ┃     ┃  ┗厩戸皇子 ┃     広姫(息長真手王・娘)
           ┃     ┣穴穂部皇子  ┃
           ┃     ┣宅部皇子   ┃
           ┃   小姉君(物部系)  ┃
        振姫 ┃             橘仲皇女┃
         ┣ 第26代継体天皇450-531┣石姫皇女
         ┃        ┃      ┣小石姫皇女(欽明妃)
         ┃        ┃      ┣倉稚綾姫皇女(欽明妃)━石上皇子
         ┃        ┃      ┣上殖葉皇子(欽明妃)
         ┃        ┃      ┃ ┏日影皇女(欽明妃)━倉皇子
     ┣ 迂斯王      ┣ 第28代檜隈高田皇子(宣化天皇)467-539
   ┣ □             ┣ 第27代勾大兄皇子(安閑天皇)466-536
 ┣ 大郎子        目子媛(尾張連草香の女) ┃┃┃┃
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃┃春日山田皇女(仁賢天皇皇女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃紗手媛(許勢男人大臣の女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃
香香有媛(紗手媛の妹)  
美美濃美濃豪族娘(息長氏系?)            宅媛(物部木蓮子大連の女)

 摂津の地の伊勢寺や能因法師を訪れたときに、何故か継体天皇陵が近くにあったのでいってみた。何故か・・・と書いたのは、奈良の大和にある手白香姫皇女陵は継体天皇の妃の御陵であるが、ここ摂津の地と離れて位置することが妙であるからである。 継体天皇は、第25代武烈天皇の後を継いで天皇となったが血縁関係は無く、政治的に、外交的に有利である男大迹王(おおどのおおきみ越の出身とか近江の出身とか言われており、また応神天皇の5世であるとも言われている)が河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)の説得で担ぎ出された。 継体天皇はいよいよ大和にはいろうとするが、平群氏以外にも反対が多く、なかなか大和に入ることができず、511年に山背の筒城宮にはいり、518年には弟国宮に移ります。 継体天皇を拒否する勢力はかなり大きく、結局大和の磐余玉穂宮入りができたのは即位後20年ほど経ったときであったという。亡くなったのが531年というから、大和入りしてすぐに亡くなっているというのも、謎多き天皇を象徴しているかのようである。 妃の手白香皇女は男大迹王が王位を継承した時に大伴金村に薦められた人で武烈の姉であり、妃となったときは継体は57歳である。手白香皇女陵は大和の西殿塚古墳が当てられているが古墳の年代と200年近くずれており実は西山塚古墳が手白香皇女陵ではないかという説もある。 (撮影:クロウ)

 

 宮内庁管轄の継体天皇陵そのものにも謎があり、すぐ東にある今城塚古墳が実はほんとうの御陵ではないかとの説もある。大田茶臼山古墳から発掘された円筒埴輪の年代が継体の年代と100年ほどずれていることが謎の原因である。 (撮影:クロウ)

 

祟り神

 継体天皇の祖は応神天皇であると、「日本書紀」は言う。また、日本書紀よりも古い「上宮記」では継体の祖は凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)としている。この凡牟都和希王が応神天皇(誉田別皇子ほむだわけのみこ)と考えられている。 「ほむつわけのみこ」といえば垂仁天皇と皇后・狭穂姫との子・誉津別皇子という言葉を発しない皇子がいる。出雲の神の進言通りに出雲に赴き、仮宮を建てることにより言葉を取り戻したという。

 誉津別皇子の障害は祟りであり、継体天皇をはじめ、この頃の天皇は「祟り」との関わりが深い。 神武天皇は大和入りの際、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで破れたが、迂回して天の香具山の呪術により熊野からの大和入りに成功している。 つまり神武天皇は霊的な能力を持ち、祟る神であったという。時代の節々には祟る神としての要素を持つ天皇が登場し、武力では成し得ない何かが関与していたと言える。

田舎貴族・継体天皇 

 雄略天皇が殺害した市辺押磐皇子の子・24代仁賢天皇の子・武烈天皇には子供が無く、越から迎えた継体天皇が第26代天皇として即位した。 応神天皇・仁徳天皇の系統の王朝には王位継承者がもはやおらず「後嗣絶ゆべし」ということになった。 継体は男大迹天皇(おおどのすめらみこ)、彦太尊ともいい、彦主人王(迂斯王)と振姫の子である。 彦主人王が近江国の振姫の美貌を聞き、妃とした。継体が生まれて間もなく父は亡くなると、振姫の実家・高向で継体は育った。武烈の後、57歳の老人にして王位を継承したというから普通ではないことはわかる。 大伴大連の勧めで武烈の姉・手白香皇女を皇后とし生まれたのが欽明天皇である。 もっとも、継体には先妻の尾張連草香の娘・目子媛との間に勾大兄皇子(後の安閑天皇)、檜隈高田皇子(後の宣化天皇)がおり、他の妃との間に多くの御子がいたが・・・。

大阪・羽曳野にある安閑天皇陵

 

 

奈良・橿原神宮南西にある宣化天皇陵

  

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