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木曾義仲洛入

2006年05月28日 | 平家物語

 第22話 木曾義仲洛入

 木曾義仲は 巴御前と山吹を両脇において洛入を果たしていた。 また、新宮十郎行家も宇治から入洛し、共に後白河法皇が待つ御所へと参じた。 そのとき葵の前もひとり堅田からはせ参じていた。 葵の前は前の合戦で山吹に射抜かれた足の様子が思わしくなく、木曾義仲は堅田の刀禰弾正介と息子・左金吾に命じて、葵の前の養生を頼んでいた。 ところが居ても経っても居られず義仲入洛に駆けつけてきていた。 そして、宗盛以下の党類追討の院宣を下し賜うた。 院の左少弁光長はさっそく九条兼実を訪ね、義仲と行家に宣下があった様子を伝えた。 また同日院宣をもって 朝日将軍の称号を賜った。 それからの都での義仲は好き放題に振る舞い、平家の時代の方がまだ良かったとの風評を生むことになる。

 あるとき、義仲は関白・松殿・藤原基房の館に招かれたときのことである。酒や馳走、管弦の遊びに満腹ぎみであったが、別の儀がまだであることを仄めかす。 つまり都では随一といわれる冬姫 つまり藤原基房のご息女・冬子にまだ会っていないというのである。 義仲は簾の向こうで琴を奏でる冬姫を見ると、初めての高貴な姫君に身が火照り、幻想に取り付かれた。 それからしばらくは、 木曾の田舎育ちの巴御前、葵の前、そして山吹もすべて、つまらない生き物のように思えたという。 しかし、琴を奏でたのは冬姫に仕える侍女のひとりで替え玉を使ったようである。 もちろん木曾の荒武者に我が娘を会わせたくない基房のはかりごとである。 実はこの冬姫というお方、義仲の側室になっている。 といってもお互い同意のものではない。 義仲は冬姫の父・基房に証文を強要し、16歳の冬姫は半ば、義仲に篭絡されたのである。 しかし義仲は気品に溢れた愛くるしい冬姫に、しばらく一指も触れることはなかった。 日を重ねるごとに冬姫は義仲の優しさに傾いていく。 

 西国に落ち延びた平家は屋島を本拠地として軍力を盛り返していた。 また、東国の頼朝は義経や弟の蒲冠者範頼に命じて洛へ向かわせていた。 義仲は嫡子・義高を頼朝に質子としてなんとか和睦は結んでいたものの、もとより二人は協力し合える源氏同士ではない。 頼朝の東国勢力に圧力を感じていた義仲は、西国の平家挟み撃ちにされている状況である。 後白河法皇も義仲を良くは思っていない。東西から攻められて完膚なきまでに、というのも時間の問題であると感じていたようである。 法皇にとっては、義仲が冬姫に気を取られ、洛中にて無策のまま時を重ねることは思う壺であった。 かくして、冬姫は乱世の中で義仲に決断を鈍らせるための囮となっていた。

 その頃、亡き高倉天皇の四の宮・高成親王が皇太子としてなった。 義仲は北陸の宮を皇太子に推したが、後白河法皇、丹後の局の進言があった。 高成親王の母は従三位坊門信隆の娘藤原殖子といい、守貞親王の母でもある。 都落ちをして母、建礼門院徳子と西国へ旅していた安徳天皇とは異母兄にあたり、2歳違いである。 

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