京都宇治の平等院鳳凰堂
道長の全盛期は王朝国家支配の時代です。つまり、官物と臨時雑役の新税制体制(田地に対して税がかけられる)と、 国ごとに中央進物の額が固定され,国史はその定額を中央政府に進納する(国司は徴税請負人となる)時代でしたが、中央政界と関係する権勢者に取り入って,雑役を免除されようとする農民が激増し、開墾地の名義を摂関家とし税を逃れる者が続出します。また,国司の不法を訴える行動も増え、国の収入は減り,地方は日常業務の遂行さえ滞るようになりました。 こうして、王朝支配体制のほころびが顕著になってきたのです。
藤原頼道は、この困難な政局を指導し、何とか王朝体制を再編しなおし、平安貴族は鎌倉幕府初期まで後期王朝体制を続けます。
のちに、世界遺産の平等院鳳凰堂を建立しています。これは、1052年父道長の別荘を寺院とし、国宝の鳳凰堂は1053年阿弥陀堂として建立したのです。 もともと平等院の跡地は 嵯峨天皇皇子である左大臣・源融(とおる)の別荘でした。その邸宅は河原院と称され,北は現在の五条通,南は正面通,西は柳馬場通,東は鴨川を範囲とする八町(250mx500mくらい)におよぶ広大な敷地をもち,苑池を備えた景勝地として知られていました。 融没後は宇多上皇(867~931年)の御所となり東六条院とも呼ばれたのです。 河原院は 創始者である源融から その子の昇に譲られたのですが、昇はそれを宇多院に献じました。つまり、昇は、宇多院に入内した妃の一人である 娘の貞子と その子依子内親王のために 河原院を献じたのです。そして後に藤原道長のものとなり、その息子の藤原頼道が、永承7年(1052)に大日如来を安置して寺としたのが平等院なのです。
因みに、この東六条院は、源氏物語で、光源氏が栄華を極めた頃、六条院御憩所から譲り受けた邸宅を改装してできた六条院のモデルといわれています。
宇治橋のたもとには紫式部像
宇治のお茶通りに佇むお抹茶どころ”とどう庵”
平等院鳳凰堂
平等院の庭園