平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

義経軍の宇治川越え

2006年05月28日 | 平家物語

第23話 義経軍の宇治川越え

 頼朝軍は洛近くまで迫っていた。 義経率いる武蔵坊弁慶、伊勢三郎、佐藤兄弟また、畠山次郎重忠、川越太郎重頼・重房、熊谷次郎直実、佐々木盛綱・高綱、梶原影時・源太影季などがそれぞれ駿馬を走らせ宇治川の瀬に陣を取り、お互いに功を競って洛を狙っている。 義経は「薄墨」という愛馬に乗り、乗り換え場として頼朝より贈られた「青海波」を用意していた。 和田義盛の「白波」  畠山次郎重忠の「秩父鹿毛」 熊谷直実の「権太栗毛」 蒲冠者範頼の「月輪」 などいずれも駿足の名馬であるが特に駿足であったのは、佐々木高綱の「生食・いけずき」、梶原源太影季の「するすみ・磨墨」は共に頼朝から贈られた有名な駿馬である。

 当時馬の馬の背丈は脚の先から肩までの高さではかり、四尺(約120cm)が標準であった。 「いけずき」は標準に対して丈八寸高く、約150cm。である。 現存する木曽馬は体高約120cmから140cm。 現在の競走馬サラブレッドは150cmから160cmであることを考えると「いけずき」がいかに来馬として最高の大きさであったがかわかる。 戦記物でもなかなか八寸の馬は登場しない。 

 一方梶原の影季の「する墨」は、毛色は黒色、黒光りする青毛とは違い、艶のない黒色の毛色の馬を言う。「する墨」も名馬であるが、「いけずき」ほど大きくはなかった。  この身体の大きさと気性の差が、宇治河の急流を横切るときの差に出てしまったようである。  かくして、宇治川先陣の初名乗りは「いけずき」の佐々木高綱が挙げた。 

 一方木曾義仲軍は、宇治川・瀬田へ分散していたため、身辺にはわずか200騎足らずしか残されておらず、なにやら落莫の影を湛えている。 このときには義仲は、敵軍の動きを捉える策を欠き、 自分の軍勢に的確な指示を与える余裕もなくなっていた。 義経軍は宇治川の本陣、近江から瀬田の街道を抜ける蒲冠者範頼軍の二軍にわかれていたが、義経は本陣を離れて木曾義仲軍の偵察に弁慶・伊勢三郎に300騎を授けていた。 ところが義仲は単なる弁慶・三郎偵察隊にまどわされる結果となったのである。 倶梨伽羅峠ではいたるところに源氏の白旗を掲げ平家に自軍の数を見誤らせたが、今度は自分が見誤っている。 

コメント    この記事についてブログを書く
« 木曾義仲洛入 | トップ | 巴・葵・山吹・冬姫 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

平家物語」カテゴリの最新記事