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長州藩再興 村田清風

2011年05月07日 | 幕末

 長州藩の美点は身分にこだわらずに秀才を登用するところにあり、明倫館は水戸藩の弘道館や岡山藩の閑谷学校とならんで三大学府という。 吉田松陰は下級武士であったが明倫館では優秀な成績を残したことによって藩主・毛利敬親に注目された。 この吉田松陰の先輩に村田清風という人物がいて、明倫館で優秀であったため藩主・毛利斉房の目に留まった。 一方幕府は田沼意次が農業から商業へと税制改革をはかるが、松平定信が一橋治済と組んだために、田沼意次は失脚した。 しかし治済は自分の子・家斉が将軍になると、定信を見放し、水野忠邦が受け継いだ。 しかし朱子学的政策がうまくいくわけがない。 薩摩藩が田沼意次の改革を実行したのと同様に長州藩も実行した。 やがて幕末になると田沼意次を潰した幕府は田沼意次の改革をおこなった薩摩・長州連合に潰されたのだから皮肉である。 村田清風がやった借金返済は薩摩のやったことに似ている。 しかし増収の面では薩摩の専売制に対して長州は専売を解き、自由な取引をすることにした。 しかしこれに流通税をかけて長州藩の利益をあげた。 つまり下関海峡の通行を自由化してそこから利益を上げたのである。 こうした藩の方針に協力した商人が白石正一郎で、幕末には高杉晋作らのパトロンとなって奇兵隊創設にも貢献している。 白石正一郎は長州藩だけではなく薩摩藩の御用商人であり、幕末には薩摩と長州のパイプ役にもなり薩長同盟を成立させた坂本竜馬も世話になっている。

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