北条政子の活躍
源頼朝が1199年に亡くなる頃から、北条政子の活躍が始まるのである。そして尼将軍と呼ばれるようになる。
父・北条時政と共に、頼朝との長男・頼家を将軍位につけると、頼家の妻の父・比企能員が力を付け始めた。 当然のことながら政子側の北条氏と比企氏の対立が激化する。 すると政子は父・時政、弟・義時、大江広元、比企能員らの合議制を敷き息子である将軍・頼家から権力を奪う。 これは将軍の独裁を阻止するためである。1203年頼家が重病になると、頼家の子・一幡と政子の次男・実朝に権限を二分した。 比企能員がこれに不満を持つと、政子は北条家と手を組み、比企氏と孫の一幡を攻め滅ぼした。
政子は卿二位(藤原兼子)と結託し、次男の実朝を将軍に擁立し、父・時政を執権に据えた。そして実朝の後継者として、次期将軍に後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を推した。 これにより政子は従二位に叙され、源頼朝と同じ征夷大将軍と同じ地位になるのである。後に皇子を将軍として要請するが、都から拒否され、後鳥羽上皇は藤原頼経を将軍に推薦する。まだ2歳であった将軍・藤原頼経には権限はなく、政子と時政が実権を握る。 時政の死後は弟・義時が執権となり、その子・泰時へと受け継がれていくが、後鳥羽上皇がこれを嫌って起こした承久の乱(1221年)に政子が勝利したのは有名である。
頼朝から受けた恩を忘れるな! とばかりに、武士を天皇よりも鎌倉幕府側につけて、後鳥羽上皇を逮捕・島流しにしたのである。
源頼朝は、大宝律令に規定された官職をそのまま残し、それとは別に「武士の棟梁」として征夷大将軍という地位を利用して統治する手法を政子に伝授した。 2歳の将軍を立てて、官職を形式化することで、幕府が完全な実権を握るという手法は頼朝が編み出した方法であるが、今日の大臣よりも事務次官の権力が大きいという二重権限構造の本流ともいえるのである。
為義 伊藤祐親・娘
┣義朝 ┣ 息子
┃ ┃
┣①源頼朝1147-1199
┃
┣ 大姫1178-1197
┣②頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条氏により暗殺)
┃ ┣ 一幡(藤原氏に敗れる)
┃ ┣ 公暁(乳母は三浦一族)
┃ ┃ (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画)
┃ 比企能員(よしかず)娘・若狭局
┃
┣③実朝1192-1219(乳母は北条・阿波局 三浦氏に暗殺される)
┃ ┣
┃
┣ 三幡
┃
北条時政┃
┣北条政子1157-1225
┣阿波局
┣義時 1163-1224(時政の死後、実権を握る)
┣ 泰時
④藤原頼経