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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

甲陽軍鑑を書き留めさせた高坂弾正

2018年09月17日 | 戦国時代

 甲陽軍鑑とは戦国大名・武田信玄について詳しく書かれた書物である。甲陽とは甲斐の国、軍艦とは戦本のことである。実は甲陽軍鑑には末書といわれる部分があり近年の発見によってすべてが明らかとなった。末書の四冊は本編の足らざるところを詳しく書いたとある。信玄が武田家の団結を託したのが小宰相という女性であった。側近として縁組についての意見を述べたという。領地が広がるにつれて縁組によって団結を固めていった。また、他の国37か国の地形絵図を書かせ、天下統一を目論んでいたとも書かれていた。天下統一の新たな場所をこれらの絵図から選別していた。堅固、繁盛などの条件が整った場所を ほしのや に決めたという。言現在の神奈川県座間の地である。川の流れによって作られた河岸段丘にあった星谷は、元々北条氏の勢力圏であったが、崖という城郭で守られ、迷路のような地形が敵を撃退できる状況であった。

 これらが書かれた甲陽軍鑑は偽書とされていた。理由は誤りが多くドラマチックなところであった。ところが50年ほど前、国語学者・酒井氏によって甲陽軍鑑の見方が一変したのである。酒井氏が注目したのは記載されている言葉遣い、甲陽軍鑑の新旧による言葉遣いの違い、風習などを調査したのである。とくに印刷ではなく写本を徹底的に調査するなかで、古い日本語が多く記載されており、いつの時代の言葉なのかを調査したのである。写本にある言葉の70%が日葡辞書(ポルトガル-日本辞書)にあるものであった。これにより甲陽軍鑑が書かれたのは江戸時代ではなく室町後期の書物であるとした。そしてまもなく甲陽軍鑑偽書説を覆す記載をみる。小幡勘兵衛景憲は偽書の製作者ではなく、武田に忠誠を誓った者の室町後期の記録書であると断定した。

 ところで、日付などの誤りが多くドラマチックすぎる記載が謎であったが、一人の人物によて謎は解き明かされていく。その人物は武田二十四将図にもえがかれており、「自分の話を聞いたまま書くのだと弾正より申し付けられた。筆者二人は大蔵彦十郎と春日惣二郎」そして弾正とは信玄の側近・高坂弾正昌信。高坂が語り掛けるような話を二人が書き留めたのが甲陽軍鑑なのである。高坂の語りをそのまま記載したのでどらなちっくであり、古い記述ほど日付などの誤りも多かったということがうなづける。では何故高坂は誤りかねない方法で甲陽軍鑑を書き留めさせたのか?その理由もしっかり記載されている。高坂は元々百姓出身で読み書きができないとある。しかし実力があれば取り立てる信玄の目に留まり、16歳で家臣となった。身分の低さから侮られることもあったが、かわりに人知れず取り組んだのは人の話をよく聞いて覚えることであった。甲陽軍鑑は高坂弾正が今までに他の優れた者から見聞きした情報の集まりなのである。

 天下統一のさなかの1573年4月12日、信玄53歳で癌により死去、高坂47歳であった。信玄を失った2年後、跡を継いだ武田勝頼は織田・徳川連合軍に完敗。長篠の戦に於いて多くの侍大将、足軽大将が討ち死にしたのである。高坂弾正は国元で留守を守っていたが、この時信玄の歴史を語り残すことで次の世代に伝えたいと考えたという。語り始めて3年、高坂は甲陽軍鑑の完成を見ることなく1578年52歳にして死去。高坂の意思は記録を手伝った部下の一人・春日惣二郎という高坂の甥によって受け継がれる。「春日惣二郎が高坂弾正在りし日のように書き継いでいく」と末書にある。この4年後の1582年武田家は滅亡、かろうじて生き延びた春日惣二郎に思いがけない手紙が届いた。送り主は徳川家康で、春日惣二郎を召し抱えたいと。日々の暮らしにも困っていた春日惣二郎には願ってもない話であったが、甲陽軍鑑の完成のために断ったと伝わっている。そして江戸時代になって甲陽軍鑑は春日惣二郎から武田家家臣の子・小幡勘兵衛景憲に伝えられた。景憲はこれを20巻23冊の本にして世に広めたのである。

甲斐にある武田の居館・躑躅ヶ崎館近辺に多くの家臣団とともに住んだ高坂弾正

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石田三成を陰から支えた大谷吉継

2018年09月11日 | 戦国時代

 1600年9月15日、西軍総大将石田三成、東軍総大将徳川家康が関ケ原にて決戦した。大谷吉継1565-1600は西軍挙兵の全体の枠組み作りに密接に関係していた。この合戦はわずか半日で決まったが、吉継は完璧な迎撃態勢を整えていた。三成挙兵に加勢した本当の理由は何か。大谷吉継は1565年に生まれるが、その詳しい出自は人物像も含めてわかっていないが、豊臣政権の中では重要人物であったことは間違いない。真田信繁は秀吉の腹心大谷吉継の娘を妻としていることからもわかる。

 大谷吉継は福井県敦賀市に城を構えたが、その敦賀城の痕跡はない。しかし敦賀の港を中心とした経済流通の拠点として豊臣政策が活用できるように、信頼できる家臣を敦賀に置いたと考えられる。大谷吉継の名が知られるようになったのは1583年賤ヶ岳の戦いからである。このときの先駆け衆が大谷吉継であり、戦功をあげたという。1589年大谷吉継が25歳の時に秀吉から6万石を与えられて敦賀城主となった。敦賀は物資を日本海から畿内に運ぶ物流の拠点である。この3年後秀吉は朝鮮に出兵(文禄の役)、大谷吉継は石田三成とともに船奉行に就任し。、4000隻もの船、軍事物資を調達した。また大谷吉継は軍奉行に就任したが、三成とは違って反発する大名はなかったという。何故なら、大谷吉継は手紙をしたためて大名や戦争で負傷した配下のことまで心配するような気配りを見せているからである。ところがこの直後、大谷吉継は病におかされ何年も表舞台から退くこととなる。そんな大谷吉継を秀吉や家康は見舞っているから、彼の重要度はうかがい知れる。大谷吉継にとっての豊臣政権は絶対であったが、1598年8月18日秀吉死去。当時の五大老は徳川家康、前出利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家 五奉行は石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以。の筆頭が対立すると全国に広がっていった。秀吉の死の6か月後に家康の部下が石田三成を襲撃する事件が起こった。三成は難を逃れものの佐和山城に蟄居させられて政治の表舞台から姿を消すこととなる。このとき大谷吉継は病をおして政権内の紛争調整を(宇喜多騒動など)行うのである。

 また、その半年後の1599年9月、前田利長が家康暗殺謀議が発覚した。大谷吉継は家康と前田の調停を試みるが益々家康の権力は増すのである。また上杉景勝が家康に対して謀反の嫌疑をかけられた。大谷吉継は調停に奔走するが失敗し、家康は上杉討伐命を発した。大谷吉継は1000の兵を率いて会津へ下ったが、まだ調停をするためでもあった。この時大谷吉継は佐和山城に蟄居していた三成から家康打倒の挙兵計画を打ち明けられた。兵力差、戦上手、優秀な家来、家来からの敬愛、人望 どれをとっても勝ち目がないとして大谷吉継は反対している。しかし大谷吉継は悩んだ挙句に挙兵を選んだ。驚いた家康は、味方すれば越前を与えるといったが、これを拒絶した。理由は豊臣家のために福島正則や加藤清正なども戦うと信じたからである。当時の家康は豊臣政権の大老であり秀頼の命があれば家康さえ窮地に追い込めるという目算があったと考えられる。大谷吉継は五大老の毛利輝元、宇喜多秀家の調略を考えた。また総大将を毛利輝元にすることを提案。これにより兵力差、戦上手、優秀な家来、家来からの敬愛、人望を解決しようとしたのである。

 その戦略は以下である。毛利を大阪に据え、点在する東軍を抑えるために敦賀、佐和山、伊勢、美濃に兵を分散、それぞれ平定したのちには全軍を美濃に集中して清州城と対峙して長期戦に持ち込むことで、後方の上杉、真田と挟めるというものである。ところが秀吉恩顧の武将たちは家康の元に傾き、清須城に集結し、8月23日西軍の最前線で難攻不落の岐阜城を落とした。これにより西軍の防衛ラインは後退せざるをえなくなった。大谷吉継は北陸から戻って関ケ原に布陣した。この時点では戦場が関ケ原になるとはだれも予想していない。元々、後詰決戦のために総大将毛利輝元が松尾山に布陣するはずであったが、小早川秀秋が陣取ったのは大谷吉継にとっては大きな誤算である。これによって総大将の本陣は関ケ原に移さざるを得なかった。かくして始まった関ケ原合戦の西軍軍勢は84000、東軍は74000であった。実際に合戦に参加している西軍は35000であったが、西軍優位に進めていたという。ところが松尾山の小早川軍が寝返って大谷吉継軍に襲い掛かった。かくして大谷軍が崩れると西軍全体が総崩れとなった。乱戦のさなかに大谷吉継は自刃を遂げたという。享年36。この戦いで唯一自刃して果てたのである。

 実は関ケ原の戦いが終わって家康は大谷吉継の陣で最初の論功行賞を行っている。普通は相手の大将、つまり三成のところで行うのが常であり、この戦いの中心が大谷吉継であったことの証であったともいえる。

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石田三成の軍師・島左近

2018年09月10日 | 戦国時代

 島左近の通称で知られる石田三成の軍師・参謀の名は清興は、俗に勝猛ともいう。娘・珠は柳生利巌の継室で、剣豪として名高い柳生厳包は外孫にあたる。島氏は奈良県平群町の領主で椿井城を本拠にしていたとされ、畠山氏、筒井氏の家臣であった。1600年の関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、北の伊達政宗の裏切りに備えた家康到着に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍側・中村一栄・有馬豊氏両隊に挑み(杭瀬川の戦い)、宇喜多秀家家臣・明石全登隊と共に完勝した。その夜、島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は石田三成に受け入れられずに終わる。関ヶ原の戦い最初は西軍有利に進み島左近も自ら陣頭に立ち奮戦するが、黒田長政の鉄砲隊に銃撃され一時撤退する。小早川秀秋の寝返りを機に西軍は総崩れとなり、左近は死を覚悟して田中吉政・黒田長政らの軍に突撃するが銃撃により討ち死にする。

 石田三成に過ぎたるものが二つある。島左近と佐和山城。何故左近は三成に仕えることになったのか。実は島左近、関ケ原の戦いでは、我に勝算ありとした。それはどういうことなのか。島左近の文書が最近発見され、謎の人物とされていたが、その実像が浮かんできた。日立の佐竹氏と繋がって家康攻略を図っていた。秀吉が亡くなると三成は島左近に家康攻略を命令したという。今や石田を憎む者の多くが家康に傾いている。ゆえにいち早く家康を打つべきだという。家康の本拠地関東までは遠いが、畿内の見方を募れば5万はたやすい。会津の上杉や日立の佐竹と図り家康不在の関東を攻撃すれば、打倒はたやすいという。しかし石田三成は時期尚早として認めなかった。三成と家康対立の原因は、1599年の七将襲撃事件である。前田利家が死んだその日の夜、加藤清正など7人の武将が大阪の石田邸を襲撃した。三成は大阪から伏見に逃れて助かったが、三成は佐和山城に逼塞を命じられたのである。しかし左近はこれを家康打倒の好機ととらえた。佐和山城から兵を出して、油断している家康がいる伏見を一気に攻撃すればよいというものであったが、三成はこれを却下。左近の次の作戦はこうである。1600年6月、家康は上杉景勝討伐の為に大阪城を出陣、家康は近江の要衝・水口に宿泊するので夜討ちをしかけようと持ち出した。この進言に三成は応じた。左近は3千の兵を率いて佐和山城から水口に出陣した。だが、攻略を事前に察知した家康は水口に泊まらずに通過していた。三成の盟友大谷吉継も同じことを考えていた。家康が江戸に到着した頃、三成は大谷吉継は佐和山にて挙兵、ここから島左近の新たな家康攻略が始まった。

 1600年7月2日、三成の戦略は。。西軍を結集し、4万ほどの兵とともに上洛してくる家康を三河近辺で迎え撃つことは好機である。三成は大垣城、岐阜城を調略し、美濃の大名衆を味方につけた。次は福島正則の清州城攻略であるが、正則は上杉攻略で出ており、留守をあずかり老臣は開城要請に応じず、説得は難航していた。そこで三成は清州に近い大垣城に本陣を構えたが、左近は熱田に本陣を置くべきと進言したのである。熱田は東海道最大の宿場町で、桑名から熱田までの距離七里は東海道唯一の海の道であった。江戸時代には埋め立てられたが、その前は干潟であり熱田の港は七里の渡しと呼ばれた。熱田に本陣を構えれば、干潟が自然防御となり敵の軍勢を食い止めることができた。しかし左近の進言は三成に採用されることはなかった。

 東軍は大垣城近辺に布陣し、杭瀬川を境に両軍がにらみ合う形になった。9月14日東軍本陣近くの赤坂に家康が到着、左近は杭瀬川の戦いに出た。500騎の左近は杭瀬川を渡ったところで東軍を挑発、これに乗じて東軍は突撃を開始すると左近は一端退却しおびき寄せる作戦が左近のねらいであった。川を渡った東軍に対して左近の伏兵は一斉に射撃した。この時東軍の名のある武将30人ほどが討ち取られたという。家康は、井伊直政や本多忠勝に撤退を命じた。つまり左近は関ケ原の戦い前哨戦で勝利していたのである。好機に乗じて左近は夜襲をかける進言をしたが、三成は関ケ原への転進を決めた。これには小早川秀秋の謀反を封じ込めるためだとされている。かくして9月15日に関ケ原での戦いが始まるのである。左近は三成の最前線で奮闘。ところが左近は銃弾を受けて重傷を負って散った。これを見逃さなかったのが松尾山の秀秋。かくして西軍は総崩れとなった。

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米沢-2 上杉家中興の祖・上杉鷹山

2018年07月20日 | 戦国時代

 上杉鷹山というと米沢藩の第9代藩主で上杉氏再興の名君として知られている。上杉の祖はもちろん上杉謙信であるが、関ヶ原の戦いで敗者となった上杉氏は130万石の大大名から30万石に減封となり、初代米沢藩主となったのが上杉景勝である。後に領地返上寸前の米沢藩を建て直し、江戸幕府第10代将軍・徳川家治の一字を賜り治憲を名乗ったが、藩主引退後の1802年、52歳の時に剃髪し鷹山と名乗った。

 名門上杉家の藩祖・上杉景勝から3代後の第四代米沢藩主・綱勝は媛姫との間に男子を設けたが早くに無くし、徳川の武家諸法度を適用しえ藩取り潰しになるところであった。ところが幸運なことに綱勝の正妻・媛媛は当時の大老格・保科正之の娘であった。また大名取り潰し政策による社会不安が目立つ状況にあった。そこで保科正之は「末期養子」を認めることを決断したことから、上杉家は救われることとなる。候補に挙がったのは上杉定勝(綱勝の父)の娘・三姫の子・綱憲であった。実はこの綱憲の父は忠臣蔵で有名な吉良上野介義央である。上杉の血を引く綱憲が米沢第四代藩主となり上杉家はかろうじて存続することとなった。しかしこの時30万石から15万石に減知されている。そしてそれから4代後の重定のときに再び存続の危機にさらされた。重定には娘しかできず、長女・三女は早世し、障害を持つ次女のみという状況の中で、次女に婿養子を迎えることとなったが、その婿養子が後の上杉鷹山である。当時の名である秋月直松は宮崎・日向の高鍋藩の大名・秋月種美の次男で、直松の祖母・豊姫というのが、上杉綱憲の娘であった。つまり上杉鷹山は吉良上野介義央の玄孫にもあたる。

 上杉鷹山は保科正之の末期養子政策によりこの世に生を受けたともいえるのであるが、末期養子政策を敷くまでは、大名改易により職を失った武士が溢れ、一部の浪人は三代将軍・家光の死をきっかけに幼い新将軍・家綱を人質にしようと由井正雪の下で反乱を起こすまでになった。家綱の後を家光から頼まれた保科正之は、この不安定な状況を改善するために末期養子の禁を解いた。そして大大名である上杉家の再興にも助力したのである。この時、正之は上杉家に家臣から浪人を出させないようにと厳命したという。かくして、120万石で養っていた家臣6000人をわずか15万石で養っていかなくてはならなくなり、経済的にはほとんど破綻の状態に陥ったのである。そこでこの窮地を打開するために重定は徳川家に領土返上も考えたが、正妻の実家である徳川尾張家からの助言もあり、上杉の血をひく秋月家に白羽の矢がたてられた。重定は隠居し、上杉の血を引く春姫と秋月種美の子・上杉治憲が米沢藩主・重定の次女・幸姫と結婚して養子となり、治憲は9代藩主となったのである。

 上杉鷹山が石高15万で家臣の首切りをせずに大倹約令を発して上杉再興を考える途上には、改革反対派の中心人物による七家騒動などの困難が待ち構えており、これらの上杉中興の前期改革は頓挫して隠居する。米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。

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米沢-1 米沢城址にある上杉神社

2018年07月20日 | 戦国時代

 米沢城は、戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。江戸時代には米沢藩・上杉氏の藩庁および、米沢新田藩の藩庁が置かれて上杉景勝・上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。上杉謙信が1578年、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に祭られたが、上杉景勝が会津を経て1601年に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。明治に入ると神仏分離令、廃城令により、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。

伊達政宗生誕の碑

上杉謙信公の像

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秀吉から疎まれた蒲生氏郷

2018年07月20日 | 戦国時代

 1590年の小田原征伐などの功により、伊勢より会津に移封され42万石の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗を抑えるための配置であるが左遷とも言える。黒川(今の会津若松)において、氏郷は重臣達を領内の支城に城代として配置し、黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築した。蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を若松へと改めたことで知られている。

 実は蒲生氏郷、秀吉に嫌われた。ある意味その実力を恐れられたとも言える。人と違うことに価値を置くのではなく、私であることに価値を置いた武将である。蒲生氏は藤原北家の一族で、近江日野を本拠地とする。室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に客将として仕えたが、氏郷(幼名は鶴千代)が13歳の時に六角家が滅亡、人質として信長の元に小姓として仕えた。やがて信長に認められ、一流の武将に育てられていく。氏郷も期待に応えようと初陣では才覚を発揮する。結婚相手は冬姫、織田信長の二女を娶り人質をとかれ、近江日野に暮らすこととなる。

 1582年本能寺の変以降秀吉の時代になると、近江日野から伊勢に領地替えとなり1584年には6万石から12万石に加増された。伊勢の町づくり、海運の整備を行い、海岸沿いに松坂つくるなど ここでも町作りという地盤固めに力を入れている。1590年にまた領地替えとなり、小田原攻めの恩賞として会津の黒川、今の若松に移ることとなる。42万石への加増である。ここ会津は徳川家康、伊達政宗に挟まれた領地であり、しかも未整備で海路も使えない不便な場所である。秀吉にとっては氏郷が危険な存在に映ったからこその領地変えであったが、伊勢の経験を生かして町を一新する。武士、商人のすみわけを行い、独自の商品を生み出し、楽市楽座取り入れた自由商売を行うとともに、豪傑を召し抱えて軍備も増やすのである。一方伊達氏の状況を報告するなど秀吉に対するアピールは欠かさず、やがて73万石に加増された。与えられたものをどう使うかを人一倍考え、諦めたら何も起こらないという新しいものさしの持ち主であった。

 これらの後ろ盾となったのは氏郷の支えとなる存在、つまり家臣の存在である。家臣の求心力を高めることにより、報酬に納得し不満を抱かせない方法、心をつかむ接し方には後日談が数多くあるという。家臣に蒸し風呂をふるまう蒲生風呂など、労をねぎらうことが重要と考えていたようだ。 

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長篠-8 織田信長本陣跡

2018年07月12日 | 戦国時代

 「天正3年(1575年)旧暦5月長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き茶臼山付近付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し武田軍1万五千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも時間と共に信玄依頼の武将の相次ぐ討ち死に等損害を積み重ね遂には撤退を余儀なくされました。武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました」 説明案内より抜粋

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長篠-7 信玄塚

2018年07月12日 | 戦国時代

 信玄塚の説明板「信玄塚と火おんどり」に記載のように、信長・家康軍と勝頼両軍あわせて16000もの戦死者が出た。信長公記には餓死した者、溺れ死んだ者も含めてその数知れない、多聞院日記には「千余人討死」とある。従って設楽原の住民は、戦場のかたづけに従事し、この地に2つの塚を築いて弔ったという。それがこの「信玄塚」である。勝頼と信長家康の戦いなのに信玄塚なのは、当時いかに信玄の偉名が大きかったか、と推察できる。

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長篠-6 馬防柵と鉄砲構え

2018年07月12日 | 戦国時代

 「長篠の戦い」1575年5月21日は、長篠城攻め、鳶ヶ巣山砦の戦い、設楽原の戦いの総称で、三河国長篠城をめぐって、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。なかでも設楽原の戦いと言えば、馬防柵と、3000丁の鉄砲の三段撃ち。馬防柵は、武田軍の騎馬隊を防ぐ策であり、横木に銃をしっかりと固定できて命中する確率が上がるという意味でも重要な柵となる。

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長篠-5 甘利郷左衛門信康の碑

2018年07月12日 | 戦国時代

 甘利信康は、甲斐武田氏の家臣で信玄・勝頼2代に仕え、武田信玄陣立書では信玄本陣を守る鉄砲衆として記載されている。『甲斐国志』では信康を信忠の子弟とし、1575年5月21日の長篠の戦いで戦死したとしている。『甲陽軍鑑』では長篠合戦における左翼の山県昌景隊に属していたと記されている。地元の伝承によると、信康は柳田前激戦地を担当していた。武田軍が敗れ撤退を始めると、信康は織田・徳川方の防御陣地づくりに協力した柳田地区の住民を呪いつつ、立ったまま切腹したという。

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長篠-4 大宮前激戦地と土屋昌次

2018年07月02日 | 戦国時代

 ここは武田軍の右翼隊に属していた馬場信春・穴山信君・真田信綱・真田昌輝・土屋昌次・一条信竜らが激戦を繰り広げた場所である。土屋昌次は馬防柵に攻め寄せて第二の柵まで破ったが、鉄砲に当たって戦死した。土屋昌続は、甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐守護武田信重の子・金丸光重を祖とし、武田晴信の守役であったという。『甲陽軍鑑』に拠れば、1561年の川中島の戦いにおける戦功で桓武平氏三浦氏流土屋家の名跡を継いだとされる。第4次川中島の戦いでは、上杉勢の攻勢により信玄本陣まで危機に晒されたが、信玄の傍を離れずに上杉勢に応戦し、この戦功により侍大将になったという。1568年の今川領国への侵攻に際しては、信玄側近として戦時禁制や朱印状奏者を独占的に務めており、岡部氏など駿河国衆との取次を務めている。1569年の三増峠の戦いで箕輪城代・浅利信種が戦死すると、甲斐名門の土屋家を継ぎ、1573年の三方ヶ原の戦いでは徳川方の鳥居忠広と一騎討ちで首級をあげた。

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長篠-3 烈士 鳥居強右衛門

2018年07月02日 | 戦国時代

 鳥居強右衛門が登場するのは、1575年の長篠の戦いの時だけで、他はほとんど知られていない。彼は三河国宝飯郡内の生まれで、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳。奥平氏はもともと徳川氏に仕える国衆であったが、武田家の当主であった武田信玄が1573年4月に死亡した情報が伝わると、奥平氏は再び徳川家に寝返り信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。長篠の戦いでは奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌は長期籠城の構えから一転、家康のいる岡崎城へ使者を送り援軍を要請しようと決断した。しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われたが、この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった。

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長篠-2 柳田前激戦地

2018年07月02日 | 戦国時代

 柳田橋の付近は正面の家康本陣の前にあたり、馬防柵が一面に設けられ武田騎馬隊と織田徳川鉄砲隊との激戦があった場所である。設楽原古戦場いろはかるたは「ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川」。

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長篠-1 長篠城跡

2018年07月02日 | 戦国時代

 長篠城は三河設楽郡長篠にあり、1575年の長篠の戦いに先立つ攻防戦で知られる。1508年、菅沼元成が築城、その子孫が居城後、徳川家康に服属するようになった。1571年、武田信玄による三河侵攻で攻められ、城主・元成の直系玄孫・菅沼正貞は心ならずも武田軍の圧力に屈した。1573年、武田信玄の病が悪化し死去。その間隙に徳川家康によって攻められる。以後、家康により城が拡張される。1575年6月29日、父・信玄の跡を継ぐことになった四男・武田勝頼が持てる兵力の大半1万5千の兵を率いて、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。

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井伊氏-5 小野政次終焉の地・蟹淵

2018年07月02日 | 戦国時代

 小野政次-1569 は遠江国井伊谷の国人で井伊氏に家老として仕えた。井伊直盛の家老を務めた小野政直の嫡男。父・政直は井伊一門である井伊直満(直盛の叔父)と対立、謀殺するなどした奸臣であったという。1560年、今川軍は桶狭間の戦いで織田信長に大敗を喫し、井伊直盛も戦死する。この時小野家でも政次の弟・朝直、一族とみられる小野源吾が討死している。一方、三河国では徳川家康が今川氏を離反し、織田氏と同盟を結んだ。この頃直親も徳川氏に密かに内通していたという。直親の内通を知った政次は、駿府の今川氏真に今川謀反を訴えた。直親は氏真へ陳謝するために駿府へ向かうが、途中の掛川にて今川氏家臣の朝比奈泰朝によって殺害された。政次は氏真の命を奉じて直親の遺児・虎松も討たんとしたが、新野親矩によって阻まれている。1563年には井伊直平が死去し、井伊谷城が無主となったため、井伊氏は直盛の娘である次郎法師(井伊直虎)を当主とした。

 1568年、武田信玄が今川氏の駿河国に侵攻、これに際して政次は今川軍に従っていた。虎松を殺害して井伊谷を掌握するよう氏真より命じられ、井伊氏より井伊谷を横領する事となった。だが徳川家康は政次の横暴に対抗すべく、近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。政次は敗北して井伊谷から退去すると、1569年4月7日、井伊家の仕置き場とされる蟹淵にて獄門により処刑。政次の子2人を含む彼らの供養塔と伝えられる石塔群がここ蟹淵に残っている。

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