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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

井伊氏-4 井伊谷城跡

2018年07月01日 | 戦国時代

 1010年頃の平安時代、井伊氏の祖・井伊共保が井伊谷城を築城。南北朝時代の井伊道政は南朝の後醍醐天皇の皇子・宗良親王を助けたことから、親王は道政の娘を正室として迎え、宗良親王の子・尹良親王は井伊谷城で生まれたという。その後すぐの1340年には室町幕府方の高師泰・仁木義長らに攻められ井伊谷城は落城した。宗良親王は駿河から信濃に入り南朝の征夷大将軍となり、新田氏と共に各地を転戦するが足利方に敗走、この頃、井伊弾正直秀も討ち死にしている。1385年には宗良親王が薨去し、その後南北朝合一が成る。

南北朝合一後、斯波氏が武功により室町幕府から井伊谷を含む遠江守護の地位を与えられるが、戦国時代に入ると今川氏親、北条早雲による遠江侵攻が始まる。井伊直平は斯波方に付き氏親と戦うが、1514年今川家臣朝比奈泰以に攻められ井伊氏は今川氏の配下となり、以降、井伊氏は今川方として従軍する事になる。1542年井伊直宗が今川義元に従い三河国田原城を攻めるが戦死。1544年直宗の弟直満、直義が武田氏に内通したとの家臣小野政直の讒言により義元に自害させられる。1560年直宗の子直盛が桶狭間の戦いで戦死。家督を直満の遺児・直親が継ぐが、小野政直の子小野道好の讒言により今川に謀反を疑われ掛川で朝比奈泰朝の襲撃を受け討死。直親亡き後の井伊谷は虎松(のちの井伊直政)が城主となるまでの期間、出家していた直盛の娘井伊直虎が還俗し城主を務めた。  

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井伊氏-3 井伊家を支えた武将の墓

2018年06月22日 | 戦国時代

 桶狭間の合戦で井伊直盛に従った武将たちがここに眠っている。井伊直盛は、遠江国・井伊谷城主・井伊直宗の子で、女領主となった井伊直虎の父にあたる。戦国初期ここ井伊領では、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、三河の徳川氏が覇権を争った。遠江の国人領主であった井伊氏にとって受難の時代だった。この井伊家を懸命に支えた武将たちがここに葬られている。156812月15日、徳川家康は、井伊谷3人衆の先導で三河遠州境の陣座峠を越え、井伊谷城を攻める。当主不在の城はあっさり落ちる。家康は兵を整え瀬戸、三方原を経由し12月18日引馬城を攻略、念願の遠州進攻を果たし、いよいよ天下取りに向け大きく一歩を踏み出した。この時家康を助けたのが、のちに井伊谷三人衆と呼ばれた奥三河の土豪鈴木重時、菅沼忠久、近藤康用である。三人は今川の配下で、井伊氏の与力として仕えていたが、今川氏真が井伊氏を滅亡させようとする仕打ちに腹を立て、三人は家康に内応し、家康の遠州進攻を援けた。

初代井伊共保1010-1093
   ┗□□井伊行直1309-1354 宗良親王の家臣 
     ┗□□16井伊直平1479-1563 今川氏の家臣 
       ┗17井伊直宗-1542   今川氏の家臣
         ┗□□22井伊直盛1506-1560  
            ┣井伊直虎-1582
            ┣23井伊直親1536-1563(養子)  
          祐椿尼    ┗24井伊直政1561-1602彦根藩の初代藩主
          新野親矩     ┗井伊直孝1590-1659  
                      ┗□□□□井伊直弼彦1815-1860根藩15代
                          ┗井伊直憲1848-1902  
                         ┗□□□井伊岳夫

<桶狭間合戦戦死の墓>
永禄3年5月19日、井伊22代・直盛に従って戦死した武将16名を祀る。

<新野左馬助の墓>
  井伊23代・直親が今川氏真に殺害された時の家老が新野左馬助

<中野氏の墓>
  井伊氏の一族・中野三代信濃守は幼い直政に代わり井伊谷城代を務め、永禄7年引馬城攻めで戦死

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井伊氏-2 龍潭寺に眠る井伊氏一族

2018年06月21日 | 戦国時代

 井伊氏は遠江の国人である。1494年今川氏親が遠江へ進出、今川氏が遠江国を支配下におさめると、井伊氏の一員である井伊直平が今川配下に入り、井伊谷周辺に勢力を持つことになった。直盛の主君である今川義元は、亡父・氏親の頃に支配を確立した駿河・遠江の二ヶ国に加えて、新たに三河国を傘下に治めて今川氏最大の版図を築き、1560年に尾張国への遠征のための大軍を動員すると直盛はその先陣を任されたという。当初は今川軍が優位だったが、桶狭間にて本隊が織田信長自らに率いられた手勢の強襲を受け、総大将の義元も討ち取られた。この戦いでは直盛は、家臣16人とともに討死した。直盛は井伊氏の菩提寺・龍潭寺に葬られる。嗣子のない直盛の戦死後、養子となっていた従弟の直親が家督を継いだが、家老・小野道好の讒言によって義元の子・今川氏真への反意を疑われ、陳謝のために駿府へ向かう道中の掛川にて、氏真の命を受けた朝比奈泰朝に攻められて討死した。その後やむなく、直盛の娘・次郎法師(2017年大河ドラマになったおんな城主 直虎)が政務を執ったが、今川氏の傘下を離れた徳川家康の遠江侵攻を受けるとこの傘下に入る。のちに直親の遺児・直政は家康に見込まれて、徳川四天王の一人に数えられるまでになる。 

初代井伊共保1010-1093
   ┗□□井伊行直1309-1354 宗良親王の家臣 
     ┗□□16井伊直平1479-1563 今川氏の家臣 
       ┗17井伊直宗-1542   今川氏の家臣
         ┗□□22井伊直盛1506-1560  
            ┣井伊直虎-1582
            ┗23井伊直親1536-1563  
              ┗24井伊直政1561-1602彦根藩の初代藩主
                ┗井伊直孝1590-1659  
                  ┗□□□□井伊直弼彦1815-1860根藩15代
                        ┗井伊直憲1848-1902  
                       ┗□□□井伊岳夫

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井伊氏-1 初代当主・井伊共保出生の井戸

2018年06月21日 | 戦国時代

 井伊共保1010年1月18日-1093年9月8日は、遠江守藤原共資の養子で井伊氏初代当主である。1032年家督を継ぐと井伊谷に居館(井伊谷城)を構えて井伊氏を称した。1093年に没すると龍潭寺に葬られたことから龍潭寺は井伊家の菩提寺となっている。

初代井伊共保1010-1093
   ┗□□井伊行直1309-1354 宗良親王の家臣 
     ┗□□16井伊直平1479-1563 今川氏の家臣 
       ┗17井伊直宗-1542   今川氏の家臣
         ┗18井伊直盛1506-1560  
           ┣井伊直虎-1582
           ┗19井伊直親1536-1563  
             ┗24井伊直政1561-1602彦根藩の初代藩主
               ┗井伊直孝1590-1659  
                 ┗□□□□井伊直弼彦1815-1860根藩15代
                        ┗井伊直憲1848-1902  
                       ┗□□□井伊岳夫

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武田氏-7 信玄公の家臣団

2018年06月21日 | 戦国時代

 甲斐守護・武田信虎により築かれた居館・躑躅ヶ崎館は信虎・信玄・勝頼三代にわたって武田領国の中心地として機能し、1582年3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地であったという。豊臣時代には、南方の甲府市丸の内に新たに甲府城が築城されたため、武田氏館は破却された。この躑躅ヶ崎館の周りには多くの家臣団が集住して武田城下町が形成されたが、その一部を紹介する。

穴山玄蕃頭信君 武田二十四将、出家して穴山梅雪、正室は武田信玄次女・見性院

 

真田弾正忠幸隆 武田二十四将、弟・真田昌幸の子が真田幸村

 

高坂弾正忠昌信 武田四天王、譜代家老衆

 

板垣駿河守信方 武田四天王、家臣団の筆頭格、村上義清との上田原の戦いでは討死

 

原隼人佑昌胤 武田二十四将、長篠の戦いにおいて戦死

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武田氏-6 信虎公の墓所・大泉寺

2018年06月21日 | 戦国時代

 武田信玄の菩提寺は恵林寺であるが、信玄の父・信虎は大泉寺に眠っている。初陣で大勝利を収めた信玄を、父・信虎は命令違反を咎め評価しなかったから、信玄は父を追放した。恵林寺には眠っていない理由がこういうところにある。

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武田氏-5 信玄公の室・三条氏墓所

2018年06月21日 | 戦国時代

 武田信玄の正室三条氏は、京の公卿の名門である三条家・左大臣公頼1495-1551の娘である。本姓は藤原氏。家系は藤原北家の流れを汲む閑院流嫡流の三条家の当主で、三条家は藤原北家の藤原師輔の十二男藤原公季の子孫でもある。

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武田氏-4 信玄公墓所

2018年06月21日 | 戦国時代

 1573年4月12日、信州伊那駒場で53歳の生涯を閉じた武田信玄公は、その死を3年間秘密にするよう遺言を残したという。3年後、塩山の恵林寺に埋葬されたが、死を隠していた3年の間葬らえていたといわれているのが、この場所である。 

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武田氏-3 躑躅ヶ崎館跡

2018年06月21日 | 戦国時代

 ここは戦国時代の武田氏が本拠地とした甲府には、武田信虎・武田信玄らが館を構えた場所で、城ではなく館、「躑躅ヶ崎館」と呼ばれた。1519年に武田信虎が館を構えたのが始まりで、1582年に織田信忠の大軍が甲府に入った際に武田家の館は消失した。武田勝頼が命を落とすと、甲府に入った河尻秀隆が躑躅ヶ崎館を一部再建したが、すぐに本能寺の変が勃発し甲府にて落命している。その後、甲府を治めた徳川家康によって館域は拡張され天守台も築かれた。 

甲陽式能殿

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武田氏-2 勝頼公の廟所・景徳院

2018年06月21日 | 戦国時代

 武田信玄亡き後嫡流で跡を継ぐものは誰もいなかったのは諏訪勝頼にとっては幸いであった。ところが織田信長との長篠の戦で多くの戦力を失った勝頼はほぼ武田家を滅亡させたといっていい。しかし信長は勝頼にとどめはさしていなかったため、国に帰った勝頼は再起を期すことができたのである。その最大の好機が1578年の御館の乱であった。上杉謙信亡き後家督相続の遺言を残していなかった上杉家は、謙信の甥・景勝と北条氏政の弟・景虎が分裂し家督争いをし、御館の乱に発展したのである。武田勝頼は断交していた北条家と同盟を結び、氏政の妹を妻とした。最初の妻の信長の養女は信勝を産んだ後に死んでいた。これで武田勝頼と上杉景虎は義兄弟となった。妹を勝頼の嫁にだしていた北条氏政より、弟の景虎の援護を依頼してきたのである。上杉は強大ではあるが分裂した今となっては勝頼が援護すれば、それで勝敗は決し、武田、上杉、北条の大同盟ができあがる。はじめは景虎の援護をするつもりであったが、途中で心変わりし武田勝頼は上杉景勝側の援護を行ったのである。これに激怒した北条氏政は信長、家康とともに武田家に総攻撃をかけて呆気なく倒したのである。心変わりの原因は劣勢にたたされていた上杉景勝からの賄賂であったという。金銀の宝庫であった越後で謙信は多大な金を春日山に残していた。この資金を抑えた上杉景勝はこの金を使って勝頼を味方に引き入れた。結果、優勢だった景虎は自刃に追い込まれ、弟を失った北条氏政が織田、徳川と連合を組んで襲ってきたのである。そのとき勝頼は援護を上杉景勝に求めたが何の援護もなく、追い詰められた勝頼は北条夫人と嫡子・信勝とともに天目山で自害し、1582年武田本家は滅亡したのである。(天目山の戦い)尚、天目山ふもとの景徳院には 勝頼と北条夫人、嫡子・信勝の墓がある。

武田信虎1494-1574     
  ┃諏訪頼重-1542(諏訪領主 ⇔信玄に攻められ)  
  ┃ ┗娘1530-1555(諏訪御料人)
  ┃  ┣武田勝頼1546-1582 
  ┃  ┃ ┣信勝1567-1582 
  ┃  ┃信長養女(北条夫人) 
  ┣武田信玄1521-1573
  ┃  ┣義信1538-1567(父に謀反自刃)
  ┃  ┃ ┣
  ┃  ┃┏今川義元1519-1560娘
  ┃  ┃┗今川氏真1538-1615
  ┃  ┣黄梅院1543-1569(北条氏政室)
  ┃  ┣海野信親1541-1582(龍宝)
  ┃  ┣信之1543-1553 
  ┃  ┣見性院1545-1622(穴山梅雪室)
  ┃  ┣真理姫1550-1647(木曾義昌室 母:不明)真竜院
  ┃  ┣仁科盛信1557-1582(高遠城主)
  ┃  ┣菊姫1563-1604(上杉景勝室 母:油川夫人)
  ┃  ┣松姫1561-1616(織田信忠と婚約 母:油川夫人)信松尼
  ┃┏三条の方(三条公頼娘)1521-1570
  ┃┗如春院(顕如室) 
  ┣武田信繁1525-1561(川中島4戦で戦死)  
  ┣武田信廉1532-1582(画才有)
  ┣松尾信是-1571(母:松尾信賢娘)
  ┣河窪信実-1575
  ┣一条信龍1539-1582()
  ┣武田信友-1582(母:内藤氏)
大井の方1497-1552大井氏(⇔本拠地:佐久郡)

左から武田信勝、武田勝頼、北条夫人の墓

武田勝頼の法号:景徳院殿頼山勝公大居士

武田信勝の法号:法雲院殿甲巌勝信大居士

北条夫人の法号:北条院殿模安妙相大禅定尼

武田勝頼自害の地

北条夫人自害の地

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武田氏-1 信玄の菩提寺・恵林寺

2018年06月21日 | 戦国時代

 恵林寺は武田信玄の菩提寺、1582年甲斐へ攻め入り武田を滅ぼした織田軍は恵林寺をも焼き討ちした。灰燼に帰した恵林寺であったが、信長亡き後に甲斐を領した徳川家康の命によりのちに再建された。ここには武田信玄と70名もの家臣団が眠るという。

 武田信玄 は1521年に清和源氏の名門である甲斐武田氏の17代目として甲府で生まれた。武田氏の本拠・躑躅ヶ崎館ではなく 要害山城とも積翆寺とも云われている。父は信虎、母は大井氏の娘である。武田信玄が家督を継いだのは父より受け継がれたのではない。信虎は信玄(晴信)を忌み嫌い、弟の信繁に家督を継がせたいと考えていたた。信繁は武田家の当主になろうという野心はなく、(兄信玄の部下として忠誠を誓った副将で 戦国の名将真田幸村の本名は信繁。 ) 信玄は父を追放する。武田家の家臣が当主として選んだのは子の信玄のほうであった。信玄は元服して初陣で手柄を立てたのであるが、 父と共に攻め立てた城が落ちずに引き上げた後、信玄は殿軍を願い出た。殿軍は退却の際に大将をかばって敵と戦い、逃げ延びる時間稼ぎを行うのが目的である。しかし信玄はその目的とは反して、城に籠もった敵を攻め立てて呆気なく落としてしまった。(敵の大将・平賀源心を討ち取ったのは騎馬隊侍大将の馬場信春) 初陣で大勝利を収めた信玄に対して父・信虎は命令違反を咎め、評価しなかった。これにより自分が当主になることを誓った信玄は父を追放したのである。このとき信虎の重臣であった板垣信方、甘利虎泰の賛同を得ているから謀略の片鱗をこのときから見せている。信玄の姉は今川義元に嫁いでいたため、父を今川家に保護してもらおうとし、今川義元はこれに応じたのである。今川義元も信玄の器量に呼応したのは信玄の姉の賛同もあったと考えられる。信玄は息子・義信の妻に今川義元の娘を迎え入れている関係でもある。 (これにより、今川、北条、武田の三国同盟が成立) 後に今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られ、後継者として氏真が当主となったが、氏真は戦国史上名高いバカ殿であった。お互いの政略結婚により均衡を保っていた武田家と今川家の同盟均衡が破れたのはこのときである。武田信玄は今川領攻めに出たのであるが、これに反対したのが今川の娘を妻にしていた義信である。そして義信は父に対して反乱を企てた。義信は捕らえられ東光寺に幽閉されると、後に自刃して果てたとされる。このときに連座したのが嫡男・義信の傅役であった飯富虎昌である。虎昌は信虎の寵愛をうけたが、武田信玄が信虎を追放したときに板垣、甘利同様、虎昌も信玄を推した。そして義信の傅役を務めることとなったが、謀反の罪に問われては飯富家も廃絶するしかなかった。虎昌には弟・三郎兵衛がいて、謀反の企てを告発せよといい含めたことから、三郎兵衛だけは功が認められた。後に武田信玄の四天王となる山県昌景がその人である。

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1584年小牧長久手の戦い(徳川家康⇔羽柴秀吉)の地

2018年06月08日 | 戦国時代

 織田信雄は羽柴秀吉の戦略にのって弟・信孝を自害に追いやったのであるが、いよいよ秀吉の本心に気がつき、徳川家康と同盟を結んで秀吉との断交に踏み切ることとなる。理由は秀吉が大阪に巨大な城を築き始めたからである。そしてこの断交はやがて 「小牧・長久手の戦い」という徳川家康・織田信雄連合軍と羽柴秀吉の戦いに発展するのである。徳川家康と織田信雄が連合を組んだということで、秀吉は池田恒興を見方に引き入れた。この池田恒興は、母が織田信長の乳母であり娘を森蘭丸の兄・森長可に嫁がせており、根っからの織田信長派である。また清洲会議に出席した織田家の宿老でもある有力者である。従って家康・信雄側の筆頭であるが、それを秀吉は尾張・三河・美濃の三国をちらつかせて見方に引き入れた。これは誰もが驚く裏切り事件であった。欲につられて寝返ったことで織田家の旧臣たちは秀吉の味方をするようになり、秀吉はこうした勢力をバックに大阪城という巨大城を築き始めたのである。

 池田恒興は、まず織田信雄が尾張・清洲城で家康と合流していたため留守の犬山城に目をつけて落城させ、小牧・長久手の戦いの火蓋をきった。池田恒興の娘婿・森長可は美濃・金山城を出陣し家康攻撃を狙ったが、奇襲されて逃げ帰った。この敗北を聞いた秀吉は、池田恒興軍と近江で合流すると、総勢10万で尾張に向かったのである。実はこの時の総大将は三好秀次で、本営は小牧山の北にある楽田城である。三好秀次は豊臣秀吉の姉・日秀と三好吉房の嫡男で、池田恒興の娘・若御前を妻としており秀吉の養子となっていた人物である。奇襲隊が楽田城を出陣すると三河・岡崎城に向かったが、その動きは家康側に見透かされており本隊・三好秀次は家康の先発隊に奇襲される格好になった。秀次はかろうじて逃げ帰ることができたが、中堅の池田恒興、元助親子は井伊直政隊に、森長可は家康の鉄砲隊にやられ戦死し、1584年長久手の戦いでは秀吉の完敗に終わった。

石川数正は酒井忠次と共に徳川家康に仕えていたが、1584年の小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉側に寝返った。徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた頃から仕えていた石川数正が何故寝返ったのか。色々な説があるが、ほんとうのところはわからない。織田信長が死去し、秀吉が台頭してきた頃、数正は家康の命令で秀吉との和睦交渉を担当していたのであるが、逆に秀吉に調略されたのである

ここは池田恒興戦死の場所

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1560年桶狭間の戦い(織田信長⇔今川義元)の地

2018年06月07日 | 戦国時代

 軍師は自らは戦わず、もっぱら情報収集を行うとともに戦略を立てるのが仕事である。織田信長が不利な軍勢であったにもかかわらず、今川義元に勝利した1560年の桶狭間の戦いは織田信長の名を挙げた戦いとして有名である。2万の今川軍勢に対して3千の軍勢で戦略を立てた軍師のほうが、今川義元の首を討った毛利良勝、織田信長の馬廻として仕えていた小姓よりも報奨が大きかったという。信長は桶狭間の戦いで義元に勝ったのであるが、別働隊で動いていた家康はこれを知らず、織田に属していた叔父・水野信元からの情報でしることとなる。水野信元は後に家康が今川家を継いだ氏真を見限り、信長が同盟を結ぶときに仲人役となった人である。家康はこの後今川家の親族である鵜殿長持を殺害してその子を人質としていたが、重臣・石川数正は今川家に人質となっていた家康の妻子と交換条件でその子を差し出した。この時築山殿の父である関口親永は今川氏真に切腹を命じられ死亡した。こうして三河松平家は今川家から独立し、信長との同盟も完全なものとなり、1563年元康から家康に改名した。そして三河一向一揆を鎮圧し今川勢力が強かった東三河も領土とし三河一国を平定した段階で家康は三河守を名乗りたいとおもっていた。家康はわざわざ朝廷に願い出て正式に従五位下三河守に任じてもらい、その際苗字も松平から徳川に改めた。これにより三河国における守護大名であった吉良氏の権威も超えることができた。

 桶狭間の合戦で織田信長が今川義元を討ち取ると、武田信玄は今川家を滅ぼして領地を奪い取ってしまった。三国同盟を破った信玄に怒った北条氏康は息子・氏政に嫁いでいた信玄の娘を離縁した。三国同盟により関東の拠点を次々と失っていた謙信は、一気に形勢が逆転し、氏康から同盟の申し出をしてきた。ともに信玄と戦おうという越相同盟が成立する。上野国の半分を上杉領として認めさせ人質の要求にも北条氏は応じた。このときの人質が北条氏康の息子・氏秀で、上杉家の養子となり後に上杉景虎となのるのである。この頃に上杉輝虎改め、上杉謙信と名乗ることとなる。1571年北条氏康が病死すると跡を継いだ息子の氏政は謙信と手を切り信玄と結ぶことを考え、甲相同盟が成立する。これにより謙信を牽制することができた信玄は、足利義昭の上洛要請に応えて西上の軍を起こしたのである。しかし信玄は遠征の途中で病死する。

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スサノヲの時代から栄華を極めた生野銀山

2018年05月19日 | 戦国時代

 出雲の巨大な勢力 王国 古墳時代にさきがけて造られた中国山地の鉄 石見銀山 かんなながし方法 きいがわ砂鉄と言われるように、石見銀山や生野銀山は、戦国時代よりも遥かにむかしから注目され採掘されてきたと思われる。戦国時代には、尼子氏当主・尼子晴久によって石見銀山が支配された。そして但馬国の生野銀山も、日本有数の銀山として但馬国守護大名・山名祐豊により本格的な採掘が始まったという。このとき、石見銀山から採掘・精錬技術を導入したらしい。実は生野銀山は平安時代初期807年の開坑と伝えられるが、詳細は不明である。807年とは桓武天皇が没した翌年で、平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇、仁明天皇の時代につづく。

 戦国時代にはいると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者の直轄地となり、佐渡金山、石見銀山とともに重要な財源となる。江戸時代に入ると生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出。1705年には、「御所務山」という最上級の鉱山に指定されている。慶安年間(1648年 - 1652年)頃より銀産出が衰退し、1716年には生野奉行は生野代官と改称した。

 明治元年(1868年)からは日本の鉱業の近代化を確立するために、日本初の政府直轄運営鉱山となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められた。1889年から宮内省所管の皇室財産となり、1896年に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となった。

 戦後1973年、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから閉山し1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達している。

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明智光秀は何故山崎の戦いで敗れたのか

2018年01月08日 | 戦国時代

 1582年6月2日に起こった本能寺の変は明智光秀の緻密な作戦のもとに遂行された。1582年5月29日織田信長は僅かな供回りとともに安土城から上洛し、本能寺に宿泊した。翌6月1日夕方5時頃光秀は13000の兵とともに丹波の亀山城を出陣し、毛利攻めを行う羽柴秀吉の援護に向かった。当時織田信長の軍は五つの方面に分けれれている。滝川一益関東方面軍、柴田勝家北陸方面軍、織田信孝四国討伐軍、羽柴秀吉中国方面軍、明智光秀近畿方面軍である。織田信長のすぐ近くで大軍を有していたのは光秀のみ、6月1日午後9時頃光秀は重臣を集めて謀反の計画を語ったという。応仁の乱以降京都の町は城塞都市と化していた。そのため光秀はあらかじめ町の門戸を開かせて行軍しやすいように図っている。そして1982年6月2日午前4時頃、信長に気づかれることなく本能寺を包囲し終えた光秀は一斉攻撃を命じた。戦いは僅かな時間で終わったが次の標的は信長の嫡男織田信忠である。この時織田家の代表は嫡男に移っており、信忠が正当な後継者であった。僅か1時間ほどの戦闘で信忠を討ち取った。

 緻密な計画を練った光秀の出自は定かではない。早くから室町幕府の足利義昭に仕えていた。その後信長に能力を見出されて、比叡山焼き討ちなどの武功を挙げて、近江の要衝・坂本城を任されるほど信長から厚い信頼を得ている。1583年光秀は丹波攻めの総司令官に抜擢される。丹波が平定されれば中国の覇者・毛利攻略の足掛かりとなる。この平定によって光秀は家中随一の称号を得たのである。丹波平定の光秀の居城は黒井城、標高は380m、周囲8km、重臣斎藤利光に命じて大土木工事を施した城である。光秀は築城術に秀でていたことがわかる。

 光秀の出自は不明であるが、江戸時代初めに編纂された「当代記」によると、当時67歳であったという。老い先短い光秀は変の理由についての手紙を後継者に出している。また川角太閤記によると、光秀軍の生き残りの証言では、老後の思い出に一夜たりとも天下の思い出をなすべき、とある。変の後、午後1時頃光秀は京から近江へ進軍し攻略平定にとりかかった。秀吉の長浜城や丹羽長秀の佐和山城を攻略し、6月4日には平定し終えると、6月5日光秀は信長の安土城に入城した。この素早い動きにより大和の筒井順慶や若狭の武田元明を味方につけた。6月7日安土城にいる光秀のもとに朝廷の勅使が派遣されてきている。つまり、安土城にある財宝を確保して朝廷をも味方につけたのである。また上杉、北条、毛利、長曾我部に密使を派遣して連携を求めたと考えられる。次に京の庶民に対して免税を実施、信長親子の死に際して人々は喜び天下が定まったといわれる。光秀は天下人になるための所要日数を100日と見積もっていた。

 丹波三大城のひとつ黒井城

 

 ところが、光秀の配下であり姻戚関係にあった細川藤孝が協力を拒否、髷を切り謹慎を表明する。また、摂津の武将たちも去就を明らかにしていなかった。こうした武将たちに書状を送って味方につけようとした。1982年6月9日、秀吉軍がすでに姫路まで到着しているという。

 秀吉は備中の高松城を総大将として攻撃中であった。高松城は毛利輝元の家臣・清水宗治の城で周囲を沼で覆われた攻めにくい城であったが、秀吉は水攻めにより兵糧の補給を絶ち、落城させた。この反乱により織田信長が横死したことが毛利元就の耳に入れば、毛利側が強気になり秀吉の和平交渉は潰れてしまう。光秀は乱後に毛利元就に知らせるべく使者を送ったが、秀吉側に捕まり毛利側よりも先に秀吉側に伝えられた。これにより織田信長の死という弱点を毛利に知られること無く和平交渉は進められ、即座に退陣することができたのである。毛利元就は織田信長が明智光秀とともに、秀吉に加勢すべく攻めてくるものと思い込んでいたから、吉川元春、小早川隆景を中心とした毛利は所領の半分を織田家に差し出す条件で講和に応じたのである。毛利側が織田信長の死を知らされたのは和平の翌日で紀州雑賀衆の海路によるものと思われる。秀吉は講和を結ぶと直ちに東へ引き返すべく行動した。毛利家に知られること無く講和を結ぶことができたのは、軍師・黒田官兵衛の手柄であるが、織田信長の嫡男・信忠が光秀により自害させられたことも後になって秀吉に運をもたらす。そして、光秀と同じく秀吉も各地の武将たちに書状を送っている。ところがその内容は、信長様窮地を脱出したとのこと。つまり信長は生きているとの偽情報を流し、味方につけようとしたのである。

 1862年6月9日、光秀は京の下鳥羽に出陣、信孝を討つために大阪へ向かおうとしていた。しかしこのとき光秀に味方していた大和の筒井順慶が参陣を拒否、すでに順慶は秀吉と通じていたのである。一方、秀吉は播州の姫路城を出発すると、それを知った光秀は迎え撃つべく山崎へと向かった。このとき摂津の武将たちも秀吉に加勢、光秀軍1万に対して秀吉軍は3万数千となっていたのである。秀吉軍よりも早く山崎に到着した光秀軍は大山崎の狭隘な地区を流れる小泉川を防衛ラインとして、大山崎の出口に陣を構えた。また淀城や勝竜寺城の防備を固めた。一方の秀吉軍は天王山と川に挟まれて細長い陣形にならざるを得ない。かくして光秀は大軍の利を封じた。しかし大坂の信孝と合流した秀吉軍は弔い合戦という大義名分を得た。決戦開始は6月13日午後4時頃、戦いは光秀の思い通りの展開であったが、秀吉軍の別動隊が湿地帯を抜けて光秀軍の側面をついてきた。この奇襲により光秀軍の左翼が崩れ光秀本陣に迫った。激闘は数時間で終わり、光秀は夜陰にまぎれて近江の坂本城を目指す途中で、農民に竹で突かれて重症を負い切腹したという。

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