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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

松永弾正久秀

2019年02月07日 | 戦国時代

 室町幕府の権威は地に落ち、暗殺や裏切りが横行していたこの時代、最大の悪人と言われた男が松永弾正久秀である。時の将軍・足利義輝を殺害し、奈良東大寺大仏殿を焼き払い、織田信長に対する二度の謀反があった。一方で久秀は茶人としても知られ平蜘蛛釜などの最高級の茶器を所有していた教養人でもあった。晩年には織田信長に仕えた松永久秀1510-1577は、京から阿波にかけて勢力を誇った大名・三好氏の家臣であった。出自は極めて不明で、三好家の京都駐在の家臣として歴史に登場したときには壮年を迎えていた。天分九年33歳のときである。応仁の乱から70年経った頃であるが、今日の都はいまだに混乱のさなかにあった。この頃幕府の権威は失墜しており実権を握っていたのは管領・細川氏の家臣・三好長慶で、摂津一帯を治めていた。1550年三好長慶は将軍足利義輝を攻めて都から追放し畿内一円を支配していった。これは三好政権ともいうべき画期的なものであった。追放した将軍を孤立化させ、畿内の武士たちに手紙を送って三好政権を認めさせていったのも松永久秀である。主君・三好長慶の右筆から次第に頭角を現し、三好家の外交を担い、最終的には信貴山城を預けられて大和侵攻の先駆を務めるようになった。永禄3年朝廷より弾正少弼に任命された。そして足利家と同じ桐の紋の使用を許された。その知力と手腕によって家臣であるにもかかわらず、将軍と三好殿を掌握し、異例の大出世を遂げた。

 1559年久秀は長慶の命により大和へ兵を進めた。大和は極めて統治しにくい国であり、興福寺・東大寺の荘園などの興福寺領が主な領地であったからだ。鎌倉幕府も室町幕府も、守護を置くことは無かったこの土地で着々と勢力を拡張していた寺侍が筒井順昭であり、後に名を残す筒井順慶の父である。羽柴秀吉と明智光秀が天王山の戦いを繰り広げていたとき、大和の大名であった筒井順慶は洞ヶ峠に布陣をして、両者の戦いをじっくり見ていたという。ここから、日和見のことを洞ヶ峠などと言うのであるが、実はこの故事は真実ではないらしい。順慶は父に早くに先立たれたために、大和に乗り込んできた人物が松永久秀である。かくして順慶は大和を追い出されて放浪のたびにでることとなった。一方、久秀は順慶を大和から追い出して、東大寺や興福寺を見下ろすことができる漆喰で固められた四階櫓の多聞城を築くと実質的な領主となった。寺社の時代は終わり、武士の時代が始まったことを奈良の民に見せつけたのである。城内にある茶室では千利休を迎えて茶会が催され、茶入付藻茄子が使われている。

 こうしたとき三好長慶の後継者である義興の突然死に始まり、長慶、三好一族が次々と怪死を遂げたのである。こうして大和を手中に収めた松永久秀は居城の信貴山城を修復し、日本城郭史上初めて天守閣を作ったといわれている。こうして野望を果たした久秀は次の野望を果たすことになる。それは剣の達人でもあった室町13代将軍・足利義輝の暗殺である。長い間実権を三好長慶に奪われていた足利義輝は、三好一族の怪死に乗じて実権を取り戻そうと図った。不穏な空気が漂う中、先手を打ったのは三好側であった。1565年5月、三好、松永ら(三好長慶の甥と松永久秀の息子)はおよそ1万の大軍を率いて将軍御所を攻めて義輝を暗殺した。ところが三好家の中で内紛が勃発する。1567年久秀と対立する三好家の武将たちが1万の軍勢を率いて大和に侵攻、興福寺や東大寺に陣を構えて久秀と対峙した。半年後久秀はこれを打ち破るが、このとき大仏殿は全焼している。

 この年、後に傀儡の将軍を立てて権勢を思いのままにしようと画策していたが、久秀を襲った思いもかけない人物がいた。それが織田信長である。1568年、義輝の弟・足利義昭を奉じた信長が入京したときに久秀はあっさりと降伏。これによって宿敵筒井順慶に奪われた城を、信長の援軍を得て奪還している。久秀は信長との同盟によって大和の支配をさらに強固なものにしていく。ところがこの3年度久秀の大和支配を脅かす事態が起こった。織田信長とは友好関係にあった足利義昭(以前は興福寺の一条院門跡であった)は、娘をが久秀の宿敵筒井順慶に嫁がせ姻戚関係を結んだのである。さらに順慶は信長の家臣になることを認められた。怒った久秀は筒井順慶の家臣を攻撃したが、これは信長に対する反逆でもあった。久秀が信長軍と小競り合いをしていた、こうしたとき甲斐の武田信玄は信長打倒に乗り出した。信玄軍は三方が原で徳川織田連合軍と激突すると大勝利を収めた。喜んだのは久秀、時を同じくして将軍義昭も信長に反旗を翻した。窮地に陥った信長は信玄の上洛を待つのみだったが、信玄は都に現れることはなかった。病死していたのである。勢いを取り戻した信長は将軍義昭を追放し、久秀の多聞城を取り囲んだ。厳しい降伏条件に屈したことで久秀の大和支配は終わった。

 その後大和の支配を任されたのは筒井順慶、多聞城の解体を久秀の息子に命令した。その4年後、久秀に再びチャンスがやってきた。足利義昭の呼びかけにより大阪本願寺、上杉、武田、毛利、宇喜多など各地の大名が妥当信長のために立ち上がった。このとき久秀は織田軍の一武将として本願寺攻めの最前線にいた。かくして久秀は謀反の方向に進み、信貴山城に立てこもる。上杉謙信が打倒織田信長を表明したと聞くや反旗を翻すのであるが、謙信の上洛はならず撤退、武田も徳川家康と国境で攻めあって進めず、久秀は大和で孤立するのである。このときに追い詰められた久秀に対して織田信長は謀反の真意を聞こうと使者を送るが、久秀は会おうともしなかった。信長は大軍で信貴山城を包囲して攻撃した。挙兵から一か月半後の1577年10月10日、久秀は天守閣に火を放って自害した。

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暗愚とまで言われた武田勝頼

2019年01月20日 | 戦国時代

 1573年4月武田信玄亡き後、名門武田家を継いだ勝頼は長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫して7年後の2582年には武田家滅亡となったことから暗愚の武将とも呼ばれた。果たしてそうか?普通は長篠の戦により武田家は滅亡してもおかしくはないが7年もの間、織田や徳川の領地に攻勢をかけて領地を過去最大にまで拡張している。

 信玄の四男として生まれた勝頼の母は諏訪明神の祀りを司る諏訪家の娘である。勝頼は最初諏訪家を相続して諏訪勝頼と名乗っていた。従って武田家代々から続く信の字が入っていないのでそのためである。諏訪家を継いだ勝頼には武田家を継ぐ権利はない。しかし嫡男・義信は謀反の企てが発覚し自刃。次男信親は体が悪く、三男信之は夭折している。武田家の家督を継ぐのは勝頼しか居なかったのである。信玄の遺言によると、勝頼16歳までは陣代を申し付けると。つまり勝頼は幼い信勝が成人するまでの中継ぎに過ぎないのである。諏訪家の人間が武田家を継ぐということに大変な抵抗感が譜代、一門衆の中にあったと思われる。1575年勝頼は織田・徳川連合軍に戦いを仕掛けた。長篠の戦である。戦国最強の武田軍の猛攻に対して3000丁と云われる鉄砲で応戦した連合軍はわずか半日で武田軍に勝利し、武田軍は数多くの重臣が討ち死にした。

 武田24武将のうち8武将を失った勝頼は、武田軍再編成に奔走し2万の軍を作り上げた。また上杉謙信との和睦や毛利、北条と手を結ぶことにより新たな信長包囲網を築こうとした。さらに勝頼は本拠地を躑躅が崎から新府城へ移した。巨大な馬出や出構を備え、城の出入り口を防護する武田流築城の代表的な工夫である。1578年勝頼にとって思わぬ事態が発生した。それは上杉謙信の死去である。謙信亡き後上杉家では家督争いが激化した。(御館の乱)上杉の同盟者・北条氏政は景虎を支持し、勝頼は景勝を支持した。家督争いは勝頼が支持した景勝が勝利し、これにより武田の領地は信玄時代を超える最大のものとなる。しかしこれにより北条との関係は悪化。北条は家康と同盟を結び、武田は三方に敵を抱えることとなる。1582年2月に信州木曽義政が織田と内通し、さらに信玄の姉を母に、娘を正室にもつ重臣・穴山梅雪も徳川に寝返った。勝頼は新府城で軍議を開いた。信勝は新府城での籠城を主張し、譜代衆家老の小山田信茂は岩殿城での決戦を進言し、真田正幸は岩櫃城での決戦を提案した。

 武田勝頼は小山田信茂が勧める岩殿城での決戦を決めたが、新府城を出立したとき500人いた兵たちは途中で逃亡しなんと41人になったという。また、岩殿を勧めた小山田信茂が織田に寝返ったのである。行き場を無くした勝頼一行は織田軍に囲まれた末に勝頼は自刃。享年37歳であった。鎌倉依頼続いた名門武田家はここに滅亡したのである。そしてその三か月後の1582年6月には本能寺の変で織田信長・信忠親子が死んだことで日本の天下統一は極めて速い速度で進むこととなる。

武田信虎・武田信玄らが館を構えた館、「躑躅ヶ崎館」

勝頼公の廟所・景徳院 左から武田信勝、武田勝頼、北条夫人の墓

武田信虎1494-1574     
  ┃諏訪頼重-1542(諏訪領主 ⇔信玄に攻められ)  
  ┃ ┗娘1530-1555(諏訪御料人)
  ┃  ┣武田勝頼1546-1582 
  ┃  ┃ ┣信勝1567-1582 
  ┃  ┃信長養女(北条夫人) 
  ┣武田信玄1521-1573
  ┃  ┣義信1538-1567(父に謀反自刃)
  ┃  ┃ ┣
  ┃  ┃┏今川義元1519-1560娘
  ┃  ┃┗今川氏真1538-1615
  ┃  ┣黄梅院1543-1569(北条氏政室)
  ┃  ┣海野信親1541-1582(龍宝)
  ┃  ┣信之1543-1553 
  ┃  ┣見性院1545-1622(穴山梅雪室)
  ┃  ┣真理姫1550-1647(木曾義昌室 母:不明)真竜院
  ┃  ┣仁科盛信1557-1582(高遠城主)
  ┃  ┣菊姫1563-1604(上杉景勝室 母:油川夫人)
  ┃  ┣松姫1561-1616(織田信忠と婚約 母:油川夫人)信松尼
  ┃┏三条の方(三条公頼娘)1521-1570
  ┃┗如春院(顕如室) 
  ┣武田信繁1525-1561(川中島4戦で戦死)  
  ┣武田信廉1532-1582(画才有)
  ┣松尾信是-1571(母:松尾信賢娘)
  ┣河窪信実-1575
  ┣一条信龍1539-1582()
  ┣武田信友-1582(母:内藤氏)
大井の方1497-1552大井氏(⇔本拠地:佐久郡)

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黒田官兵衛48 黒田家の起源・広峰神社

2019年01月05日 | 戦国時代

 広峯神社は、733年吉備真備によって創建された歴史ある神社である。近辺には大勢の御師といって、社寺に属し信者のために祈祷や参拝の世話・案内をする人が住んでおり、この住まいのことを御師屋敷と呼んでいた。備前瀬戸からこの地に流浪してきた官兵衛の祖父・重隆は、御師の家に寄宿し一族に伝わる目薬を売ったところ大変繁盛したという。そして財を築いた重隆は有力豪族へと成長し、当時姫路を治めていた小寺政職に召し抱えられることになる。ここ広峯神社・御師屋敷は、黒田家にとって起源ともいえる特別な場所である。

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北条氏初代・北条早雲

2018年12月26日 | 戦国時代

 初めて戦国大名になったとされる北条早雲、500年前小田原を攻め取り5代に渡って拠点とした様子が記載されているのが北条五代記といって小田原城に残されている。家臣が記した軍記物語である。元々は浪人、初陣は56歳といわれていたが、これはあやまりで32歳のようである。最近の研究では浪人ではなく、幕臣であったと考えられる。早雲の元々の名は伊勢新九郎。伊勢氏は鎌倉幕府以来の名門で室町幕府では財政をつかさどる政所のトップを代々務めた。伊勢新九郎盛時の名が将軍側近の要職申し次衆として記されている。これは守護と将軍の仲立ちをするような要職である。

 元々伊勢氏の出身で実力でのし上がってきた戦国大名の筆頭である。早雲は出家号であり、伊勢長氏、盛時との説があるがはっきりはしていない。早雲の父は伊勢盛定、母は伊勢貞国 (室町幕府の執事で子に伊勢貞親がいる。室町将軍の足利義教・義勝・義政の3代に仕える)の娘である。北条氏は鎌倉時代に執権を世襲する勢力であったが、足利氏に滅ぼされた後は伊豆の地方豪族に没落した。伊勢氏は関西地方を基盤としたが関東へ進出する際に北条の姓を得るために婿入りしたと考えられる。 関東・駿河に名を上げようと下ったのは1490年頃で、早雲の妹が駿河守護の今川義忠の側室(北川殿という)として竜王丸(後に今川氏親)を産んでいたためである。今川家に食い込もうと駿河へ下ったときに、今川家では御家騒動が起こっており、当主義忠は亡くなり妹・北川殿との間の嫡男・竜王丸が残っていたが幼少ということもあり小鹿範満を跡継ぎにする動きがあった。つまり妹と竜王丸を排除する動きに対して待ったをかけたのである。早雲は揉め事の調停役である関東管領上杉家の家老・太田道灌をも後ろ盾にして、竜王丸を後嗣とする(この時元服して今川氏の当主・氏親と名のる)とその功により駿河に興国寺城をもらいうけ、今川氏親を補佐する。

 この頃、管領・細川政元が足利義澄を立てて河内にいた将軍義稙を追放すると宣言し、1493年4月にクーデターを起こした。そして足利義澄を新将軍として擁立した。義澄にとって茶々丸は母と弟を殺した敵である。かくして早雲は隣国の伊豆を狙う(伊豆討ち入り)ことになる。早雲はこの決断をきっかけに出家し、伊勢新九郎盛時あらため早雲庵宗瑞となった。伊豆では関東堀越公方の相続争いが起こっていた。先の公方・足利政知(足利義教の子)には茶々丸という名前に似ず気の荒い息子がいたが、家督を奪うために義母・円満院とその子・潤を殺害していた(1491年)。茶々丸は主君になっていたものの真の従者はいなかったのであろう。早雲は今川氏親からも兵を借りて総勢500の軍勢で挙兵し、興国寺城を出撃すると堀越御所の茶々丸を奇襲攻めて追放したのである。一見容易く追放し滅ぼしたようにも見えるが、茶々丸追討に5年もの歳月を要したという説もある。この時早雲が恐れていた上杉の援軍は来なかった。この頃上杉家は山内上杉家と扇谷上杉家とに分裂し勢力争いを繰り広げていた。早雲は扇谷上杉家と同盟を結び、茶々丸支持派だった山内上杉家の動きを封じ込めていたのである。こうして早雲は伊豆をも領国とし一気に関東領土を手中にしようと目論んだ。さらには隣の相模・小田原を狙ったのである。当初小田原の大森氏は勢力もあり手を出せない状態であったが、小田原城主大森氏が急死し、藤頼という若い城主が後を継いだときに、早雲は贈り物をして親交を深めることに努力をした。これにより大森氏の隙を突いた早雲は、一気に小田原城に攻め入り落としたのである。小田原城は後に豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代に渡って栄えることになる。

 早雲が次に狙ったのは三浦半島一帯を勢力圏に持つ三浦氏である。三浦氏といえば、鎌倉時代からの名族であり、上杉氏の一族である当主・三浦義同(道寸)とその息子・義意は三浦半島一帯の豪族である。そして新井城という難攻不落の名城を持っていた。三浦同寸は相模を拠点に太平洋の海運を取りしきっていた。大森氏と姻戚関係にある三浦氏は将来の禍根になりかねないと考え、この難攻不落の三浦氏に対して海上、陸上を封鎖することによって三浦氏の篭城作戦に対抗した。1513年早雲58歳の時、新井城に籠城する同寸を包囲するがなんせ難攻不落である。おりしも八丈島の代官が三浦半島に来ると聞きつけ、生け捕りにすると、早雲は代官の弟を説得し、代官を寝返らせることに成功した。八丈島との繋がりを絶たれた同寸は次第に勢いをなくし、やがて1516年早雲は同寸を滅ぼし、八丈島を支配下に置いた。この時早雲61歳であったという。八丈島では桑が群生し、蚕の要職が盛んであり、絹織物が発達した。絹織物の長さが八丈であったことから、八丈島の名が残っているという。三浦氏滅亡の3年後の1519年8月に早雲はその生涯を閉じた。後に早雲の曾孫の氏政は江戸に新たな宿場町を置き街道を整備し、世田谷を自由に商いができる楽市とした。そして現在の「ボロ市」に続くという。これらをうまく引き継いだのが徳川家康であり、徳川300年の礎になったのである。

上杉清子  
┣足利直義1306-1352   
┗足利尊氏1305-1358 
  ┃┣義詮1330-1367                            ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                        関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷          享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425                    ↑  ↓
 ┃┃┃┃日野栄子 武者小路隆光        三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃     ┣━━━━ 娘        関東公方足利持氏 小笠原元長娘,政清娘(南陽院殿) 不要な人物は居ない  
 ┃┃┃┃     ┗円満院  ┣細川澄之              ┣北条氏綱1487-1541(蒜山城主→小田原城主) 勝って兜の緒を締めよ
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┣北条氏康1515-1571 臆病者→算術、兵法→合理的精神 
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┃       小沢原戦で初陣勝利 税一本化
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┃       河越夜戦→北条氏の時代へ
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┣北条氏政1538-1590 
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┃ ┗北条氏直1562-1591 
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┗上杉景虎1554-1579 
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┣北条為昌1520-1542
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃養珠院宗栄
 ┃┃┃┃      ┣潤童子 九条政基      伊勢盛定?-?   ┣北条氏時?-1531(初代玉縄城主)
 ┃┃┃┃斉藤氏   ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸 ⇔ ┣北条早雲1456-1519    
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方     ┣北川殿?-1529  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐   ┏貞国娘 ┣竜王丸(今川氏親1471-1526)⇔┏小鹿範満(母は上杉氏、今川忠義の従兄弟) 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┗貞親 今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃                
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443         満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏  管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児           ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459          ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489           ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496      ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣   ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人          山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)      
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元   満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院        管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局           畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413           ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                            ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418    
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)   
 ┃┃┃┃┃ 日野康子  
 ┃┃┃┃┃ ┣-      
 ┃┃┣義満1358-1408    
 ┃┃┃   ┣女子  
 ┃┃┣満詮 日野業子     
 ┃┃紀良子                        
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院)                 
 ┃┣基氏1340-1367                  
 ┃赤橋登子             
  ┣直冬1327-1400             
 越前局

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盛岡-4 奥国最北・最大級の古代城柵・志波城跡

2018年10月09日 | 戦国時代

 今から約1200年前の平安時代に,桓武天皇の命を受けた征夷大将軍坂上田村麻呂によって造営された古代陸奥国最北・最大級の古代城柵が「志波城」である。盛岡駅から南西に約8kmのところにあり、現在では跡地は発掘調査後に整備されて歴史公園となっている。

 城柵とは、奈良時代から平安時代にかけて、エミシ(蝦夷)と呼ばれていた東北地方の人々を朝廷が統治するために設置された役所である。志波城は、古代陸奥国最北端・最大級の城柵として、坂上田村麻呂により,803年に造営された。しかし造営後約10年で,雫石川の水害を理由にその役割を徳丹城に移したという。盛岡周辺の雫石川流域は、「末期古墳」が集中することからエミシの一大拠点であったと考えられるが、792年に斯波(志波)のエミシ首長,阿奴志己(アヌシコ)は、蝦夷の族長の中でも武闘派として、他の族長からも一目置かれている存在であった。阿弖流為の勇猛に信を置き、朝廷からの志波討伐に対する憎悪はさらに強いものとなったであろうが、朝廷に帰属を願い出るという記録が残っていることから、ついには朝廷側と通じたようである。志波城跡は、北上川と雫石川の合流点付近に広がる平坦地にあり,南の胆沢方面と西の出羽国秋田方面へ通じる交通の要衝であった。志波城跡の北辺は雫石川に近接していたようで水害により削られているが,城内北部には小河川が入り込んでおり,水運が重視されていたと考えられる。

 

今回の東北旅行で宿にしたのが偶然にも雫石の蛍宿温泉。

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盛岡-3 光台寺 源秀院殿墓所

2018年10月09日 | 戦国時代

 大泉寺から直線距離で200mほど離れた場所に光台寺があり、その敷地の中に『源秀院殿墓所』がある。これは「ムカデ姫の墓」と称される。ムカデ姫こと於武の方は、戦国武将・蒲生氏郷の養女にして盛岡の街と城を普請した盛岡藩二代目当主・南部利直公の正室である。ムカデ姫に関する奇妙な伝説は以下。

 於武の方は、利直公のもとに嫁いで来る際、先祖である藤原秀郷がムカデ退治に使ったと言われる矢の鏃を持って輿入れしてきました。数十年後、於武の方が亡くなった時、その遺体にはまるでムカデが這いまわったような不気味なアザが浮き出てきたといいます。 「於武の方が持ってきた、鏃の中に籠ったムカデの怨念にちがいない」と人々は恐怖に慄きました。この奇怪な出来事に利直公は、ムカデは水を嫌う事から堀をめぐらした土手を作り、その上に石垣で囲まれた墓を建立するよう命じました。ところが、堀にかこまれた墓地に見事な橋が架けられ、 殿様の渡り初めを待つばかりとなったある日、たった一夜のうちに橋が壊され大騒ぎとなります。 その後も何度か橋を架けなおしますが、その度にムカデが出てきては橋を壊してしまったのだそうです。墓には大小のムカデが無数にわき出し、また、於武の方の髪の毛も片目の蛇となって石垣の間から出て這い回るようになりました。 墓守は石の間に鉛を流し込んでそれを防いだともいわれています。人々は「これらの出来事は矢の根石(鏃のこと)にまつわるムカデの怨霊のせいだ」と噂し、いつしか於武の方をムカデ姫、 墓地を「ムカデ姫の墓」と呼ぶようになりました。しかし、時の光台寺の住職が一体の仏像を刻んで墓前に置き供養した所、祟りはようやく収まったといいます。

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盛岡-2 東禅寺 藩主・南部利直公墓所

2018年10月08日 | 戦国時代

 南部利直は、南部氏第27代当主、陸奥盛岡藩の初代藩主である。盛岡城を築き城下町を整備し、現在の盛岡市の基礎を開いたのが南部利直である。1576年、三戸郡の田子城において出生、父は南部信直。1590年、父にしたがい、15歳で豊臣秀吉の小田原攻めに参陣、前田利家より一字を授かり、利正として元服、後年利直と改めた。1598年、父・信直の命を受けて盛岡城の建設に着手すると、父・信直が卒したあと藩主となった。1632年秋、江戸桜田邸で逝去し、三戸郡の聖寿寺に埋葬されたが、1698年、盛岡の東禅寺に改葬された。

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盛岡-1 聖壽禅寺 藩主・南部家廟所

2018年10月07日 | 戦国時代

 山形を巡った後は盛岡へ。盛岡一帯を支配していた南部氏は陸奥の武家で本姓は源氏。家祖の南部光行は平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏・源義光の子孫である。ここ聖壽禅寺は、南部家代々の菩提所として歴代藩主のお墓がある。元々は南部家初代「南部光行」の菩提寺として二代実光が青森県三戸郡に建立し、1599年に二十六代信直が三戸城から盛岡に居城を定めた時に移されたという。 

南部家第26代南部信直1546-1599 豊臣大名として公認された 
  ┗初代盛岡藩主・南部利直1576-1632 前田利家を烏帽子親として元服 鉱山開発による財政安定  
    ┣南部家直1598-1613   母は家臣今渕政明の娘のお三世  
   ┣南部政直1599-1624   母は家老石井伊賀守直弥の妹・岩 伊達政宗と密通毒殺
   ┣②代南部重直1606-1664 母は蒲生氏郷の娘・源秀院(ムカデ姫)         
     ┣③代南部重信1616-1702 母は花輪政朝の娘・慈徳院
    ┃  ┗④代南部行信1642-1702   母は玉山六兵衛の娘・大智院 
     ┃      ┣南部実信1676-1700    母は毛利光広の娘・清浄院 

    ┃     ┣⑤代南部信恩1678-1707 母は岩井与市郎の娘・慈恩院   
    ┃    ┃  ┗⑦代南部利視1708-1752   母は黒沢氏の娘・浄智院 
    ┃    ┃    ┗⑨代六男・南部利正1751-1784 母は瀬山氏の娘
     ┃    ┃      ┗⑩代 南部利敬1782-1820 母は田中氏・於懇の方
     ┃    ┃        ┗⑪代南部利用1808-1821母は南部信居の娘
     ┃    ┗⑥代南部利幹1689-1725      母は岩間政次の娘・心光
    ┃         ┗⑧代南部利雄1724-1780   母は橋本氏の娘・貞林院  
    ┃
    ┗南部直房1628-1668   母は盛岡藩士・中里嘉兵衛正吉の娘 陸奥八戸藩の初代藩主
      ┗南部直政1661-1699 陸奥国八戸藩の第2代藩主

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山形-6 成沢城の戦い

2018年10月06日 | 戦国時代

 1383年成沢兼義によって築かれたと云われる。兼義は斯波兼頼の子・直家の六男で成沢の地に封ぜられ、成沢城を築いたという。1578年、上山城主・上山満兼は伊達輝宗に通じて山形へ侵攻する。この時の成沢城主は成沢道忠で、最上義光は伊良子宗牛という老将を成沢城へ送り込み、籠城してけっして撃って出ないように申しつけた。 義光は援軍として柏木山へ陣を進め、伊達・上山軍も成沢城に押えを置いて柏木山へ陣を進めた。両軍の先陣が松原で入り乱れて合戦が始まったが、柏木山付近に伏せていた最上方の鉄砲隊が伊達氏の旗本衆目掛けて撃ちかかると伊達・上山軍は乱れ、最上方の野辺沢能登守・氏家尾張守の軍勢がここぞとばかりに押し込むと支えきれずに上山城の惣堀まで退いた。これを柏木山合戦という。

  斯波家兼1308-1356(羽州探題最上氏の祖) ⇔北畠顕家との杉本城の戦い
  ┣大崎直持1327-1383(奥州探題最上氏の祖)
  ┣天童義宗     (里見氏に養子)
  ┗斯波兼頼1329-1379(羽州探題最上氏の祖) ⇔新田義貞
  
 
┗②最上直家  -1410

    ┃ ┗成沢兼義(成沢城城主)
    ┃   ┗□□□-成沢道忠?-?
 
   ┗③最上満直 -1413

       ┗④最上満家-1443
       ┗⑤最上義春-1474
          ┗⑥
最上義秋-1480
             ┗⑦最上満氏1446-1494       

              ┗⑧最上義淳-1504       

               ┗⑨最上義定1492-1520       

              ┗⑩最上義守1521-1590       
                 ┗⑪最上義光1546-1614  出羽山形藩の第1代藩主。      

                  ┗⑫最上家親1582-1617 出羽山形藩の第2代藩主。      

   
                  ┗⑬最上義俊1605-1632
説明 

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山形-5 長谷堂城の戦い

2018年10月05日 | 戦国時代

 1599年家康は伊達政宗と縁組を結び、東国での勢力拡大に動いた。奉行の一人石田三成はこれに反発、前田利家の力をかりてこれを阻もうと試みたが、前田利家は死去し石田三成は佐和山に蟄居させられた。そして家康が次なるターゲットに定めたのが上杉家であった。1600年4月、兼続の元に家康の外交僧・西笑承兌から書状が届いた。西日本最大の城郭である神指城築城という、上杉家に謀反の疑いがあるというものである。一刻も早く上洛して家康に弁明すべきという。直江兼続は返書をしたためたが、これを直江状という。15項目にわたって家康に反論したのである。これに対しての家康の回答は、即刻上洛しなければ会津へ出兵であった。かくして1600年6月家康による会津征伐が始まった。家康軍総勢10万に対して上杉勢は総勢5万で若松城を出陣したそのとき、石田三成が挙兵、大阪城の奉行衆を説得し、豊臣政権を掌握したうえで全国の大名に打倒家康の檄を飛ばしたのである。これを知った家康は全軍に会津征伐中止を通達し、江戸への撤退を開始した。これらは会津の景勝と三成の間に交わされた密約によるものである。このとき上杉は東北の最上義光、伊達政宗の問題を解決した後で関東に出兵するとした。上杉は最上の10倍の兵にて侵攻し長谷堂城へ攻撃、ここに北の関ケ原といわれる合戦が始まった。ところが上杉は最上以上の死者を出して総崩れとなってしまった。かくして最上攻略は深入りせずに断念した。ちょうどこの頃、家康率いる東軍と三成率いる西軍が関ケ原で戦い、決着はわずか一日でついた。美濃での関ヶ原本戦で西軍が敗れた事を奥州で知った上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。この撤退戦の見事さは語り草となり、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられている。

長谷堂城は山形城跡から南西に約8kmのところにある

 この戦いで一躍名を挙げたのが前田慶次である。長谷堂城包囲中は敵に囲まれた上泉主水を救出しようと出撃し、びびって動けなかった上泉の部隊の将兵を「上泉を見捨てたお前らは勇士じゃない」と一喝した。撤退戦では自刃を決意した直江を「早まるな」と止め、朱槍の衆と5人で最上軍に突撃。慶次らや水原常陸の鉄砲隊の活躍で見事撤退に成功します。上杉家の正史である『御年譜』には、「味方にも敗北の聞こえあれば、暫く戦士を引き入れんとするところに、敵兵ひしと食い止めて討ってかかるを、前田慶次利貞槍をとって敵兵を突き崩す。水原常陸介も取り合わせ、手勢二十余騎駈け出て防戦す。その間に味方の兵士長井境まで引退く」とある。

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山形-4 光禅寺 最上三代の墓

2018年10月04日 | 戦国時代

 室町の足利時代には、関東管領の地位を畠山氏などと争っていた斯波氏の分家である斯波兼頼が最上氏の祖として羽州探題を務めていた。それから約200年後の戦国時代、子孫の最上義光の出現によって最上氏は飛躍的に発展する。関ケ原の戦いでは東軍につき勝利したために、羽州最上氏は57万石と領土を広げ、江戸時代初期に幕府によって改易されるまで、現在の山形県内陸部の米沢地方を除く、村山地方、最上地方、庄内地方を支配した。最上氏としては11代から13代、出羽山形藩とあいては3代の墓が山形市鉄砲町の光禅寺にある。

斯波家兼1308-1356(羽州探題最上氏の祖) ⇔北畠顕家との杉本城の戦い
  ┣大崎直持1327-1383(奥州探題最上氏の祖)
  ┣天童義宗     (里見氏に養子)
  ┗斯波兼頼1329-1379(羽州探題最上氏の祖) ⇔新田義貞
  
 
┗②最上直家  -1410

    ┃ ┗成沢兼義(成沢城城主)
    ┃   ┗□□□-成沢道忠?-?
 
   ┗③最上満直 -1413

       ┗④最上満家-1443
       ┗⑤最上義春-1474
          ┗⑥
最上義秋-1480
             ┗⑦最上満氏1446-1494       

              ┗⑧最上義淳-1504       

               ┗⑨最上義定1492-1520       

              ┗⑩最上義守1521-1590       
                 ┗⑪最上義光1546-1614  出羽山形藩の第1代藩主。      

                    ┃┣義康1575-1603    ┣清水義親1582-1614  
                    ┃┣家親1582-1617    天童御前
  
                  ┃┣竹姫      
                    ┃┣駒姫1581-1595      
                    ┃釈妙英(大崎義直の娘)      
                    ┃      
 
 
 
                 ┗⑫最上家親1582-1617
 出羽山形藩の第2代藩主。      

   
                  ┗⑬最上義俊1605-1632
 

最上義光公の墓

義光とともに殉死した家臣団の墓

最上家親公の墓(盛光院殿)

最上義俊公の墓(月照院殿)

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山形-3 光明寺 斯波兼頼公の墓

2018年10月03日 | 戦国時代

 斯波氏は、室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名である。分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。1336年3月関東執事斯波家長の命により、1337年北畠顕家との杉本城の戦いでは斯波家長が敗死し、鎌倉も陥落したため足利義詮は安房へ逃れる。斯波兼頼の父、家兼が北陸から奥州に移ると、兼頼も共に下向する。1356年、出羽地方の北朝方として寒河江大江氏、山家氏などの南朝方の抵抗を抑えるために、出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形に入部し、翌年には山形城を築城し本拠とする。

 1367年に鎌倉公方の足利基氏が死去した後、出羽を含む東国の各地で南朝方が蜂起したが、漆川の戦いにおいて、鎌倉公方を継いだ足利氏満や、兄で奥州探題の大崎直持と共に南朝方の寒河江大江氏を攻撃し降伏させた。また、近隣の里見氏に弟の義宗を養子に送り、一門とするなど武力政策と婚姻・養子政策を駆使し、山形斯波氏(最上氏)の基礎を築いた。兄の直持は奥州管領家の大崎氏の祖となった他、弟の持義、将頼らも奥州に子孫を残したとされ、足利一門の名家という出自を思わせる。1373年頃には、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称したことを機に、所領の最上郡に因んで苗字を最上氏とした。

 1375年、嫡男の直家に家督を譲って以降は城内に草庵を結び、念仏三昧の日々を送ったとされるが、1377年の「室町幕府管領奉書」(円覚寺文書)によれば、出羽国内円覚寺領の棟別銭徴収を担い、1379年に死去した。子孫の最上氏は戦国時代最上義光の出現によって飛躍的に領土を広げ、江戸時代初期に幕府によって改易されるまで、現在の山形県内陸部の米沢地方を除く、村山地方、最上地方、庄内地方を支配した。

斯波家兼1308-1356(羽州探題最上氏の祖) ⇔北畠顕家との杉本城の戦い
  ┣大崎直持1327-1383(奥州探題最上氏の祖)
  ┣天童義宗     (里見氏に養子)
  ┗斯波兼頼1329-1379(羽州探題最上氏の祖) ⇔新田義貞
  
 
┗②最上直家  -1410

    ┃ ┗成沢兼義(成沢城城主)
    ┃   ┗□□□-成沢道忠?-?
 
   ┗③最上満直 -1413

       ┗④最上満家-1443
       ┗⑤最上義春-1474
          ┗⑥
最上義秋-1480
             ┗⑦最上満氏1446-1494       

              ┗⑧最上義淳-1504       

               ┗⑨最上義定1492-1520       

              ┗⑩最上義守1521-1590       
                 ┗⑪最上義光1546-1614  出羽山形藩の第1代藩主。      

                    ┃┣義康1575-1603    ┣清水義親1582-1614  
                    ┃┣家親1582-1617    天童御前
  
                  ┃┣竹姫      
                    ┃┣駒姫1581-1595      
                    ┃釈妙英(大崎義直の娘)      
                    ┃      
 
 
 
                 ┗⑫最上家親1582-1617
 出羽山形藩の第2代藩主。      

   
                  ┗⑬最上義俊1605-1632
 

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山形-2 専称寺 最上義光の娘・駒姫の墓

2018年10月02日 | 戦国時代

 1595年8月2日の午後、京都鴨川の三条河原で、罪なき女性と幼い子ども30余名が斬殺されるという、史上類稀な凄惨きわまる処刑が行われた。殺されたのは、前関白豊臣秀次の妻妾とその子供たち。

義光の次女駒姫が悲劇の死を遂げたのは、このときである。

処刑を命じたのは、豊臣秀吉であった。秀吉は、長らく子どもに恵まれなかった。側室淀殿にできた鶴松がおさなくて亡くなると、彼はわが子の誕生をあきらめ、姉の子である三好秀次を養子にし、後継者とした。秀吉は、朝鮮征伐の指揮をとるため関白を辞し、1591年にその職を秀次にゆずった。天皇の代行者となった秀次は、豪壮華麗な聚楽第を与えられ、ここで暮らしつつ政務にかかわることとなる。ところが、朝鮮出兵さなかの文祿2年8月に、淀殿がまたも男の子を生み、これが健やかに成長しはじめると、秀次に対する秀吉の態度には大きな変化が生じてくる。秀次を後継者にすえたことを悔やみ、これを廃しようとするのである。秀次の行動にも、問題があった。上皇崩御の後、喪に服すべき期間に狩猟に興じたり、罪人を手ずから試し斬りするなど、関白としてあるまじき振舞を行った。秀次はその非をとがめられ、加うるに太閤に対する謀反の疑いまでかけられて、官職剥奪、高野山追放、ついには切腹を命じられて自決する。側近家臣ら10人も追い腹を切る。これが、1595年7月15日であった。豊臣政権の最上層部に起こったこの事件は、大名諸侯にとって大きな衝撃だった。動揺する大名たちに対して、秀吉は7月20日、愛児秀頼への忠誠を誓わせる。「お拾い様へ対したてまつり、いささかも表裏なく、御為になるよう覚悟して御奉公申し上げます」を第一条とする五か条である。その誓約書には29名の諸侯とともに「羽柴出羽侍従」の肩書きで、義光も花押血判をなした。

 秀次を切腹させて首を取っても、秀吉の気持ちはおさまらなかった。続いて、秀次の寵愛を受けていた女性と彼の血をひく子ども全員の殺害を命じた。

その中に駒姫がいた。義光は八方手を尽くして助命嘆願をしたというが、秀吉は「父親の身分地位によって刑罰を左右するなら、天下の政道は成り立たぬ」と言って許さなかったという。妻妾たちの中には、秀次の切腹を知ってすぐさま髪をおろして尼になった者もいたが、これらをも秀吉は許さなかった。8月1日、女性たちはそれぞれに親しい人たちに手紙を書き、形見の品を分けととのえ、沐浴をして身を潔め、死出の旅支度をする。駒姫も形見を残したことは確かだろう。山形市門伝の皆龍寺には、駒姫着用と伝えられる高雅な衣裳の切れが、大切に保存されている。同2日、死装束の白衣に身をつつんだ女性たちは、市中引き回しの牛車に乗せられた。たまたま上京中で、その様を目撃した岡崎上宮寺の住職、円光院尊祐の自筆記録によると、引き回しは次のようであった。 車は7台。1台目には三人の女性とその子ども3人。1歳から3歳の幼児であった。駒姫は2台目の車に乗せられた。「最上殿御子 おいま様 十五」と記されている。同車したのは、秀次の正室、菊亭右大臣晴季の娘32歳。それに、武藤長門守の娘19歳、小浜殿の娘29歳の4人であった。以下7台目まで、女性31名は名前と年齢が記され、幼児3名は年齢のみがメモされている。合計34人、「一条より京の町々をひきまわし、三条の河原にて御成敗なされ候」と、尊祐は書き記した。小瀬甫庵『太閤記』によると、まもなく命を断たれる運命をも知らずに、牛車の上で母にあまえかかる幼い子どもの姿に、見る人はみな泣いたという。市中引き回しの後、女性たちは三条河原の刑場に追い入れられる。そこに築かれた塚の上には、秀次の首が据えられていた。

 殺戮は正午ごろから開始された。最初は子どもたちだった。五十ばかりの髭男が、愛らしい若君をまるで犬の子でもぶらさげるようにあつかって、刺し殺した」「抱きしめる母の膝から奪い取って、胸元を二刀刺して投げ捨てた」と『太閤記』には描かれているが、泰平を謳歌したように思われる桃山時代の京都で、このように残酷な処刑が行われたのである。おさな子が終わると、処刑は女性たちへと移る。その様を秀次一族の菩提寺、京都三条瑞泉寺の縁起では、以下のように語っている。最初に処刑されたのは、秀次の正室・一の台、31歳(32、34歳とも)、菊亭右大臣晴季の娘。絶世の美女と謳われた女性である。第2番目はお妻の前、16歳、三位中将藤原隆憲の娘。第3番目はお亀の前、32歳、中納言持明院基孝の養女。処刑は名簿に従って進められ、駒姫は第11番だったという。「第十一番に、お伊万の前、出羽最上家の息女十五歳。東国一の美人との評判高く、さまざまに仰せて漸く七月初めに上京、長旅の疲れで未だ秀次に見参もせぬうちにこの難にあったので、淀君らもこれを伝え聞いて太閤に助命を願い出た。太閤もこれを黙止するわけにいかず、『鎌倉で尼にせよ』と急使を出し、早馬で三条河原へ馳せつけさせたが、いま一町というところで間に合わず、ついに蕾のままに散った」 「つぼめる花のごとき姫君で……未だ幼かったけれども、最期の際もさすがにおとなしやかであった」と、これは『出羽太平記』の記事。駒姫は、静かに所定の場に座し、西方阿弥陀浄土に向かって手を合わせ、うしろに斬首執行の男が立って刀を振りかざしたときには、心持ち頸を前にさし延べたと書いたものもある。瑞泉寺には、駒姫辞世の和歌懐紙が伝えられている。

 「罪なき私の身も、世間のよこしまな動きに邪魔されて、みんなと共に冥土に行ったならば、五つの徳目にそむいた罪も滅びるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかるわが身、どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか。きっと、極楽浄土に行かれることでしょう」

 30余名の処刑は申の刻まで続き、殺された人の血で流れる水も色を変えたという。亡骸はみな一つ穴に投げ込まれた。築かれた塚の上には「悪逆塚」と彫りつけた石が載せられた。見物に来た人たちは、「あわれなるかな、悲しいかな。かくも痛ましいと知っていたなら、見物には来なかったものを」と後悔する声も多かったと『太閤記』は語る。

 人々はこの事件を厳しく批判した。夜のうちに辻々に貼り紙がなされ、「今日の狼藉は、無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほど御用心候え」と書かれていたという(『太閤記』)。 この前後、義光は閉門蟄居中で、邸から出ることができなかった。せめて娘の最期だけでも知りたいと、家臣を現場に差し向ける。行ったのは上級家臣浦山筑後だとも、そうでなく、もっと身分の低い家来だったともいう。 義光は、朝から仏間に引きこもって祈りを捧げ、ひたすら耐え続けていた。駒姫の最期の様子が報らされたとき、義光は面をあげることもなく、「過去の業にこそ」と、ただ一言を発しただけだったという(『奥羽永慶軍記』ほか)。その意は「前世になしたことが、今、自分と娘に、こうした報いとなったのだろう」というのである。罪なきわが娘のあまりにも残酷な運命は、前世の宿業と考える以外に解釈のしようがなかったのだ。 その後数日、義光は湯も水も喉を通らないほどの悲しみようだった。不幸は、続けざまに義光を襲う。 駒姫死後の27日めにあたる8月16日、妻が急死する。駒姫の母親であろう。亡くなった事情はよくわからないが、独り黄泉路に旅立った娘のそばに行こうと、みずから命を絶ったのではないかと、多くの研究家は想定している。「山形殿内室、奥州大崎家の娘」と『最上家代々過去帳』に記された女性である。 20歳前後に義光のもとに嫁ぎ、幾人かの子女をもうけ、会津へも京へも行って夫を支え、苦楽を共にした妻である。その急死を義光がどれほど嘆いたかは想像に余りある。 しかし、義光は一国の主として、ただ耐え忍ぶ以外にすべはなかっただろう。 文祿4年8月は、義光の生涯で最も苦しい秋であった。

 秀次の切腹、三条河原の処刑、すべて秀次の謀反が原因と、秀吉側……石田三成、増田長盛、前田玄以らを中核とする政府……は説明したが、事実は秀頼を立てるために、秀次に謀反人の濡れ衣を着せて亡きものにしたというのが歴史家おおかたの見方だ。 京都の事変は、8月10日過ぎには山形に急報されたに違いあるまい。姫様は囚われ、やがてご生害、殿は閉門蟄居、なじみ深い方々が死罪あるいは流罪。わが最上家にも、いかなる難儀が出来するか計り知れぬ……最上家存亡にかかわる一大事である。 おそらく山形にいた一族重臣が協議した結果であろう、8月13日に嫡男義康が大沼明神(西村山郡朝日町にある。浮島で有名)に祈願状をささげた。 「敬白 立願状之事 このたび父親義光の身命が無事でありましたなら、社殿を建立し、村に住む人々を皆山伏(神社に奉仕する者)にし、また、境内の松はいっさい伐らないようにいたします」 願主は「源義康」となっている。神仏に願を立てるときは、本姓(最上氏は「清和源氏」)を使うのが通例だった。この祈願状には、後で書き加えたらしい次男「寒河江家親」の署名もある。父親の無事と最上家の安泰を願う、必死の祈りだった。祈願状は、ほかの社寺にも捧げられたと思われるが、現在はこの一通が残っているだけらしい。 7月15日秀次切腹。20日に秀頼への忠誠を誓わされて血判を捺し、ついで閉門蟄居、10日ほど後には娘を殺され、悲嘆と不安の真っ只中の8月16日に、今度は妻が死ぬ。しかも、次にどんな無理難題を吹きかけられるか知れないのである。 理不尽とは、こういうことを指すのだろう。 だが、幸いにして最上・伊達両家にかけられた謀反加担の疑いは程なく晴れ、閉門蟄居は解除される。こうしたこともまた、山形に報らされたはずである。一門家臣たちも、ほっと一息ついただろうと思われる。 後日、秀吉は義光に使者をつかわして、こう伝えた。 「娘を死罪に行ったことを、きっと不快に思うだろうが、秀次が反逆を企てた以上は、やむをえないことと思うべきである。こうなったからには、汝の罪科も許してやろう」 義光はこれに対して、「有難き御上意」と答えただけだったという(『永慶軍記』)。秀吉と石田グループに対する不信と怒りは、極限に達していたに相違あるまい。 それだけに、従来から親しかった実力者、徳川家康への傾倒は、いっそう強まっていっただろうと思われる。 五年後、天下を二分した関ヶ原の戦いのとき、義光が家康を支える盟友として誠実に行動し、強大な上杉軍の攻撃を真正面から受け止めたのも、自然なことであろう。   【最上義光歴史館より抜粋】

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山形-1 山形城主・最上義光

2018年10月01日 | 戦国時代

 最上義光は、最上氏第11代当主で出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させた。1546年、第10代当主・最上義守と母・小野少将の娘との間に長男として生まれる。元服すると、将軍・足利義輝より偏諱を賜り、義光と名乗った。1560年、寒河江城攻めにて初陣を飾るが、失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、義守の領土拡張策はここに至って頓挫。1563年義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁、1564年には義光の妹・義姫が伊達輝宗に嫁ぎ、1567年には長男・伊達政宗を生む。 

 1570年、当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じ、義光が家督を相続し、1571年に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。しかし1574年1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。義光はこれらの攻勢を巧みに退け、義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。義守が義光を廃嫡して次男の義時に後を継がせようとしたことが両者不和の原因とされてきたが、今ではこの説は創作と見なされている。

                        伊達輝宗1544-1585 
        最上義守1521-1590  ┣伊達政宗1567-1636 
            ┣義姫   1548-1623 ┃
   
           ┣最上義光1546-1614  
            ┃  ┣家親1582-1617┃   
           ┃  ┣竹姫     ┃  
 
        ┃  ┗駒姫1581-1595┃ 
 
  
 
   小野少将娘            ┣五郎八姫1594-1661(松平忠輝の正室) 

103後土御門天皇(成仁1442-1500)  ┃原田甲斐宗輔1619-1671

┗104後柏原天皇1464-1526     ┣伊達兵部宗勝1621-1679   浄眼院
 ┗105後奈良天皇1497-1557     ┣伊達忠宗1600-1658(2代)    ┣伊達綱村1659-1719(4代藩主)
    ┗106正親町天皇1517-1593  愛姫┃      ┣伊達綱宗1640-1711(3代仙台藩主)
       ┗誠仁親王(陽光太上天皇)    ┣光宗    ┣伊達宗倫1640-1670 ⇔ 伊達安芸宗重1615-1671
       ┃                  振姫1607-1659┣伊達宗房1646-1686      ┗宗元1642-1712
       ┃           家康-秀忠┛      ┏貝姫┗吉村1680-1752(5代)柴田朝意1609-1671
            ┃                 ┃側室        佐竹親直1566-1615┛       
107後陽成天皇┛                 ┗櫛笥隆子1604-1685(逢春門院)
 ┣聖興女王  1590-1594             ┣光子内親王1634-1727
 ┣清子内親王1592-1674             ┣良仁親王  1638-1685(111後西天皇)
 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680  ━━━━┛
 ┣尊英女王   ┃┃┣興子内親王1623-1696(109明正天皇)
 ┣近衛信尋   ┃┃┣昭子内親王1625-1651
 ┃       ┃┃┃ ┣近衛基熙1648-1722(左大臣) ┓
 ┃       ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃)    ┃
 ┃       ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣)    ┃
 ┃       ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室)   ┃
 ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王1626-1628  ┏━━━━┛
 ┣一条昭良   ┃┃徳川和子(東福門院)  ┃
 ┣貞子内親王  ┃┣紹仁親王(110後光明天皇┃
 ┣庶愛親王   ┃┣守澄法親王      ┃        
 ┣尊蓮女王   ┃園光子(壬生院)    ┃
近衛前子(中和門院)┣常子内親王       ━┛  
         ┣識仁親王(112霊元天皇)
    園国子(新広義門院 

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越後の龍・上杉謙信

2018年09月30日 | 戦国時代

 生涯70勝を誇り毘沙門天の化身とされ助けを求められればどこにでも向かう無欲にして義を重んじる武将・上杉謙信。上杉家に伝わる狩野永徳が描いた洛中洛外図屏風を描かせたのは、時の将軍足利義輝という。越後の大名と時の将軍には太いパイプがあったことが伺える。謙信は幕府再興のために永禄二年上洛した。謙信が都で交わした誓約書には血で記した密事が記載されている。1530年越後守護代長を尾為為景の子として産まれた。19歳の時にを家督を次いで守護代となる。その頃の越後は守護の上杉定実が為景が補佐していた。ところが為景の死後を好機と見た国衆の一部が反乱を起こした。さらに上杉定美も死去し上杉家は断絶した。この異常事態を乗り切るために謙信が切り札としたものは室町幕府であった。謙信は越後の主としての資格を室町幕府から得た。この背景には謙信側外交のキーマン神余氏が暗躍していたという。つまり中央の影響力ある人物は誰で、どのように交渉すればうまくいくのかなどを考える武士集団といえる。謙信はこのように極めて活発な諜報活動を行い幕府との関係を築いていたのである。もちろんそこには多量の金品や名馬贈答があった。謙信の中央工作を支えたものが小地谷市にある。青苧という麻織物の原料として珍重されたもの。謙信は巨大な繊維産業を越後に作り上げていた。また青苧座の船には積み荷の量に伴って税を課す(船道前)ことで莫大な富をてえていた。その富で中央工作を行い越後を盤石のものにしたのである。

 1553年謙信が頼みにしていた足利義輝が都を追われた。黒幕は三好長慶、近畿から四国にかけて13か国を支配した大大名である。越後を揺るがしかねない都での政変に謙信は決断した。三好長慶は将軍を上回る力を持ち始め、謙信は上洛して三好を打つべしと決めた。1559年4月27日、謙信は5000の兵とともに上洛した。ところが甲斐の武田信玄が信濃に対して軍事行動を開始したというのである。この時謙信は信玄と川中島で三度戦っている。実は謙信上洛に当たっては義輝が仲介し信玄と和平を結んでいたが、それを無視したのである。この時、関白近衛前久の姉が将軍義輝に嫁いでいることもあって両者は親密な関係にあった。また幕府の危機を救うべく上洛した謙信の行動は前久の心を大きく動かしたのである。かくして二人は近江で密会、室町幕府の関東公方を関東管領上杉氏が支える体制であった。だがその秩序を脅かしていたのが相模の北条氏康である。時の関東管領上杉憲政は氏康に敗れて越後へ逃亡し謙信の元にかくまわれていた。前久はその地位に謙信を付けようとしたという。これによって関東の武士とともに上洛することで一気に幕府の権威も守るという密事を相談したと思われる。1559年6月謙信は北条義輝と面会し、関東管領の内示を得ている。そしてその効果は絶大で、周辺領主だけでなく武田にいたはずの真田家も祝いの太刀を献上している。いったん帰国し関東に乗り出すにしても武田、北条をまともに相手するのは危険である。実は謙信には秘策があった。甲府に近い勝沼に信玄の従兄弟にあたる勝沼信元の要塞がある。これは本家に次ぐ軍事動員力を誇っていた。謙信は信元への裏切り工作を進めていたことが甲陽軍鑑にも書かれている。

 1560年謙信は打倒北条の兵をあげ関東に進出、北条氏に不満を持っていた関東武士はこぞって謙信の元にはせ参じた。その数は11万にもおよび、各地で北条軍を撃破し半年後には小田原城に迫り包囲した。一方の氏康は兵糧を絶つべくゲリラ戦を展開し戦線は膠着状態に陥った。1561年3月謙信は鶴岡八幡宮で関東管領に就任した。だがその帰り道事件は起こった。忍の成田という武士の頭が高いという理由で扇で顔を打った。それに腹を立てた成田は謙信に無断で帰国すると関東の諸将もことごとく陣を引き払ったという。11万もの大軍は空中分解したのである。さらに勝沼信元の裏切りが発覚し武田に成敗された。信玄は上杉軍を信濃から撤退させ越後攻略の拠点となる海津城を整備した。本国を制圧されかねない状況になると、謙信は関東をあきらめて越後へと帰国した。1561年9月10日かくして両者は川中島で4回目の決戦となったのである。上杉軍は信玄本陣めがけて突破し信玄の弟信繁迄討ち取る戦果を挙げている。謙信が自ら信玄に挑んだといわれるのはこの時である。だが武田の別動隊が救援に駆け付け、戦況は逆転し謙信は軍を引かざるを得なかった。関東進出策はここに潰えたのである。

 1565年5月足利義輝が三好一族によって暗殺された。翌年3月謙信の元に書状が届いた。差出人は義輝の弟・義昭、上洛して幕府再興の手助けをしてほしいとう。だか謙信には余力はなく、上洛したのは尾張の新興勢力 織田信長であった。信長は都から三好の勢力を一掃すると義昭を将軍につけ室町幕府再興を果たした。やがて1573年には義昭を都から追放すると室町幕府は滅亡したのである。信長許すまじとして1577年謙信は手取川の戦いで激突し上杉軍は大勝利を挙げたのである。しかし明くる1578年3月9日春日山城で謙信は突如倒れ、四日後に死去したことで天下統一はならなかった。

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