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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

島原の乱と天草四郎 ----キリシタン大名は反抗者を奴隷としてポルトガルに売っていた

2010年04月16日 | 戦国時代

島原の乱(1637年に起こったキリスト教徒の最大の反乱) が起こった地
 ・もともとキリシタン大名・有馬晴信の支配にあった
 ・有馬晴信1567-1612が転封によりこの地を去ると、
   キリスト教弾圧を使命としていた大名・松倉重政1574-1630がこの地に入り圧政を始めた
 ・これに耐え切れなくなった百姓が一揆を起こし、この一揆が肥後国天草へも及び、
   天草四郎時貞1621?-1638というものの奇跡を起こしていくというものである。
 ・天草四郎は、小西行長1555-1600の遺臣・益田甚兵衛の子として
   母の実家のある天草諸島の大矢野島で生まれたとされているが、はっきりしない。 
   小西行長といえば、関ヶ原の戦いで石田三成1560-1600の盟友として活躍したキリシタン大名で、
   肥後南部の領主であったが関ヶ原で敗れたために京で首を斬られ、小西家は滅亡している。  
 ・益田家などの小西家滅亡後に浪人百姓として隠れ住んでいた天草は、キリシタン大名である有馬家の領地の隣であった。 
   それがキリスト教弾圧の松倉重政が入ってきたことによって生活は脅かされたことで、 
   松倉家の暴挙に立ち上がった元武士の勢いに手を焼いた幕府側の松平伊豆守信綱1596-1662は、一揆勢の拠点である原城を攻撃する。

 ・ついには益田甚兵衛親子は天草を中心に活動を始め、反徳川の兵を挙げたのである。 
   1637年、一揆軍は完成したばかりの島原城を急襲したが、落城には到らなかった。 
   もともとの領主有馬家は日野江城を本拠地としていたのであるが、松倉家は日野江城を廃墟とし、
   頑強な島原城を築いていたからである。 
 ・このとき、天草四郎という宇土に居住していたという人物が、
   小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立・神格化されたと考えられており、
   さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると目が見えるようになる、海を歩く等)を起こした伝説や、
   豊臣秀頼1593-1615の落胤・豊臣秀綱であるとする風説も広められたようである。 
 ・島原の乱では十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わり、幕府軍の原城総攻撃により火の中で自害したと言われている。
   また死後に首を切断されて幕府へ送られたと言う話もあり、首は長崎の原城大手門前にて晒されたとも伝わる。 
   そのとき幕府側は天草四郎の姿素性の情報を全く知らず、
   原城に立てこもった反乱軍が皆殺し(内通者、山田右衛門作を除く)にされている為、
   旗印の近くにあった立派な服装を着た少年の死体を天草四郎と断定したと言われている。
   その為、首実検しようにもその首自体が天草四郎本人の物かどうかは最終的に分からなかったという。  
 ・一説には、幕府軍に捕えられた四郎の母は「今ごろ四郎は白鳥になって伴天連の国へ向かっているでしょう」とうそぶいたが、
   四郎の首を見せられると悲嘆して泣き崩れたともいう。
   四郎の秀頼落胤説は、馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、
   大坂夏の陣において死去したはずの秀頼が大坂城を脱出して九州・薩摩へ逃れていたとする論拠によるものであり、
   原城跡には銅像があり、又、後年民家の石垣から発見された、四郎の母が建立したと思われる墓石も立っているという。 

【教科書には書かれない事実】  
 ・鉄砲伝来@1543
 ・イエズス会ザビエル漂着@鹿児島1549
 ・有馬晴信1567-1612や大友宗麟1530-1587のようなキリシタン大名は、ポルトガルやスペインのカトリック教会・イエズス会と交流 
 ・交流の目的は鉄砲などの武器、その見返りとしてカトリックへの改宗と人身売買であった
 ・改宗を拒む領民は奴隷としてポルトガル商人によって東南アジアに売られていった(数万人)
 ・バテレン追放令@1587 :秀吉が行った宣教師追放(宣教師のことをポルトガル語でパーデレ)
   
  以上のように極めて常識的な伴天連追放令であるが、日本人には認知されていない。
  まさに戦後の自虐教育のひとつである(リベラル歴史観)

 ・ところが、キリスト教徒の残党は武器を持って各地に散らばった
 ・1637年領主の重税で苦しんだ領民は反乱を起こす  
  この時ポルトガル、スペインの援軍を期待していたようであるが、援軍は来なかった  
  ポルトガル、スペインは内戦状態にあって援軍どころではなかった  
 ・そのころ江戸幕府はカトリックは追放してオランダプロテスタントと貿易 
  プロテスタントの目的は交易のみであり布教活動はなかった(三浦安針) 
 ・かくして島原の乱に於いては鎮圧にオランダ船が加わり、島原城に砲撃を加えたという  
   
 ・さて、もしも江戸幕府がキリシタンを征圧しなかったら、現在のフィリピンになっている   
 ・スペイン・フェリペ王が植民地化したのでフィリピン     
 ・フィリピンの資産は全てスペインに取り上げられるだろう 
 ・フィリピンの宗教は93%がキリスト教  

石田三成の盟友・キリシタン大名小西行長ゆかりの地 仁徳天皇御陵通り

 

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満身創痍の豪勇・井伊直政

2010年04月15日 | 戦国時代
 傷ひとつ負うことなく多くの戦歴を重ねた本多忠勝にたいして、満身創痍の豪勇として徳川家康を支えたのが徳川四天王のひとり井伊直政である。 ほかの四天王はいずれも徳川氏歴代の譜代家臣であったが、井伊直政は今川氏の被官である父親を持ち、家康の代で始めて新参の家臣に加えられたという異色の存在である。 家康に見出される前は、父・直親が今川氏の当主・氏真の不興をかって斬殺されたため世を忍ぶ身となって他家に養われる状態であったことが、厳しくも人間味豊かな人格形成につながったようである。 そして井伊の赤備として生涯を通じて知れ渡っている。 武田の領地を手に入れた家康が、武田の旧臣を直政に預けた際に、甲州軍団を代表した山県昌景の赤備に鑑み、直政の新規の備えをすべて赤色に統一したことにある。 その直政の赤備が知れ渡ったのは小牧長久手の戦いをとおしてであった。 家康と秀吉の天下分け目の戦いで成果をあげたのは徳川軍であったが、その最高の功労者となったのは赤備であった。 武力で圧倒する羽柴秀次の軍勢に対して襲い掛かり、池田恒興・森長可らの武将を打ち破って壊滅的な打撃を与えたのである。 井伊直政は同輩の本多忠勝、榊原康政の10万石を上回る12万石を与えられている。   
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青山忠成公の徳碑

2010年04月13日 | 戦国時代

 丹波篠山城跡にある青山神社には、篠山藩主・青山忠成1551-1613の徳碑が立っている。 青山忠成は江戸時代初期の徳川氏の重臣で、常陸国江戸崎藩初代藩主で青山家宗家初代である。 青山氏の祖は藤原北家花山院流で、花山院堀川師賢という後醍醐天皇の忠臣である。 青山氏は三河国出身の国人で、青山忠成の父・忠門が松平広忠と家康に仕えていた。 1572年、父・忠門が武田信玄との戦いで討死したために家督を継ぎ家康の信任を得ると、家康の一子秀忠の傅役に命じられた。 1588年には秀忠に従って上洛し、豊臣秀吉によって従五位下常陸介に叙され、徳川家康が豊臣秀吉の命で関東に移封されると江戸町奉行に任命され、原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけて5千石を受け、広い屋敷地を賜った。 これが現在の東京・青山の地名となっている。 しかし青山氏が改易されると、屋敷地も没収され、広大な土地には大名屋敷が林立することとなる。 関ヶ原の戦いにおいては秀忠の軍に従軍し常陸江戸崎1万5,000石の所領を得、江戸開府後も本多正信・内藤清成とともに幕政において重きを為した。 

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直江兼続の志を受け継いだ上杉鷹山

2010年04月10日 | 戦国時代

 軍師といえば山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などが有名であるが、武田信玄は山本勘助がいなくても、今語られる信玄であったであろうし、秀吉も官兵衛がいなくても秀吉であったであろう。 しかし直江兼続がいなければ決して上杉景勝はいなかった。 つまり豊臣政権の五大老のひとりにはなれなかった。 兼続1560-1620は樋口与六として身分の低い家に育ったが、幼き頃から頭角をあらわし、名門直江家を入り婿として相続し、上杉家の重臣となり与板城主となった。 上杉謙信が倒れ御館の乱というお家騒動が起こったとき、北条家から養子にはいった上杉景虎が圧倒的優位に立っていた。 景虎が後継者になれば実家の大大名である北条家と同盟が結ばれる。 そして北条家から嫁を迎えていた武田家の当主・武田勝頼とも同盟ができあがり、北条・武田・上杉の義兄弟同盟によって大敵である織田信長にも対抗できるという目算があった。 従って北条家の当主・北条氏政は義弟・武田勝頼に対して上杉景虎の援護をするようにと依頼していた。 窮地にたっていたのが上杉景勝(謙信の姉の子)である。 ところが景勝は絶対不利のこの状況をひっくり返し武田勝頼を味方につけたことにより、御館の乱で勝利して上杉家を継いだのである。 これにより武田勝頼は北条家を敵に回しただけではなく、同盟のチャンスの逃し、北条氏政を信長との連合に走らせ、1582年滅亡することとなる。 今から考えればありえないことであるが、これは直江兼続の軍師としての采配によるものである。 上杉謙信の遺産により勝頼を寝返らせたことと、父信玄のなし得なかった上杉家が武田家の家臣として仕えると景勝が誓ったことで、謀略は成功したのである。  1584年末から上杉家の二大巨頭のひとり秀治が病に倒れ、兼続は単独執政を行ない、兼続死去まで続くことになる。 1588年には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として佐渡征伐に景勝と共に従軍すると平定後には佐渡の支配を命じられる。 越後・佐渡の金山支配を任せられ、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増された際、兼続には出羽米沢に6万石の所領が与えられている。 1598年9月18日に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭するが、石田三成と懇意であった兼続は、家康と対立する。 関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こしたときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させた直江状は有名である。 美濃での関ヶ原本戦で西軍が敗れた事を奥州で知った上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。 この撤退戦の見事さは語り草となり、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられている。 1601年7月、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続を許された。 その後は徳川家に忠誠を誓い、 兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れるなど新田開発に努め、 町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。 1614年からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。

 ところで、直江兼続の豊臣秀吉からのかわいがられようは尋常ではなかった。 あの石田三成は近江佐和山で18万石の大名であったが、直江兼続は米沢に30万石を与えられたくらいである。秀吉が死んで政権が分裂すると、徳川家康と石田三成が関が原で戦うこととなったが、このとき直江兼続は主君・上杉景勝に石田三成方に就くように進言し、景勝は承知した。 いまの景勝があるのは直江兼続のおかげであると認識していたから異論はなかったのである。 しかし関が原で石田三成が大敗し、上杉景勝は会津120万石を没収されたとき、直江兼続は家康にこういった。 故太閤殿下からいただいた米沢30万石を返上するかわりに、返上分はそのまま主人・上杉景勝にお与えいただきたい。 家康はこの申し出を承認したのである。 このとき直江兼続は自分の贖罪のつもりもあってか会津から連れてきた上杉家の家臣をひとりもくびにしなかった。 このことが後々までも上杉家の財政難の原因となるのであるが、直江兼続はこれを覚悟で荒地の開墾指示を行った。 このときの農業指導は、こうである。 田植えの時期には農家の女性は化粧をし赤い腰巻を推奨した。 苗を植える男性農民のやる気向上が目的である。 米の生産を向上させて主税をあげる目的であることはいうまでもないが、代を重ねるごとに赤字額は増えていき、江戸中期にはどうにもならなくなっていた。 藩籍を幕府に返上との案もあったが、養子を向かいいれての財政再建をねらい、 日向高鍋藩主秋月家の次男を向かいいれたのである。 これが後の上杉鷹山で、再建の基本は直江兼続が行った農業立国であったという。 

高梨政盛1455-1513  
  ┃┃┗娘   
  ┃┗娘┣長尾晴景1509-1553   
 ┃ ┣長尾為景1489-1543(守護代)
 ┃長尾能景1459-1506       ┃          
  ┃  ┗娘          ┃ 
  ┃  ┣高梨政頼1508-1576 ┃飯山城主
  ┃  ┃ ┣秀政-     ┃
  ┃  ┃ ┣黒姫     ┃
  ┃  ┃ ┗娘(真田信綱室)┃
  ┗高梨澄頼1492-1547    ┃          
 ┏━━━━━━━━━━━━┛    
  ┣仙桃院1524-1609     桂岩院?-1604(四辻公遠娘)
  ┃ ┣義景(10歳で早世)   ┣定勝1604-1645(直江兼続夫妻が養育)
  ┃ ┣景勝1556-1623 (豊臣5大老の一人)
  ┃ ┃ ┣- 
  ┃ ┃菊姫1563-1604(武田信玄六女)  
  ┃ ┣娘(上杉景虎室 清円院 1556-1579)
  ┃ ┣娘(畠山義春室)   武田信玄1521-1573
  ┃長尾政景1526-1564溺死   ↑
  ┃房長┛          ↓
  ┣長尾景虎(上杉謙信)1530-1578
  ┃ ┃ 宇佐美定満1489-1564 軍師 政景暗殺
  ┃ ┃ 柿崎景家 1513-1575(車掛り 信長と内通?手討)━晴家-1578(景虎派)
  ┃ ┃ 斉藤朝信 1527-1592(内政 蓄財 景勝派) 
  ┃ ┃ 直江景綱 1509-1577(宿老筆頭 内政) 
  ┃ ┃  ┃┃
  ┃ ┃  ┃┃ 樋口兼豊-1602
  ┃ ┃  ┃┃   ┣直江兼続1560-1619
  ┃ ┃  ┃┃   ┣大国実頼  ┣直江景明1594-1615
  ┃ ┃  ┃┃   藤      ┣於松
  ┃ ┃  ┃┣お船1557-1637(直江信綱-1581室)
  ┃ ┃  ┃娘
  ┃ ┃ 山吉政久娘(-1570正国尼)
  ┃ ┃ 甘糟景持 -1604(景勝派 川中島戦で殿軍)
  ┃ ┃ 甘糟景継 1550-1611(景勝派 越後上田衆)
  ┃ ┃ 村上義清1501-1573(葛尾城主)
  ┃ ┃          
  ┃ ┣景勝1556-1623(養子)初代米沢藩主   
  ┃ ┃┣定勝1604-1645(2代)  
  ┃ ┃四辻公遠娘┣綱勝1639-1664(3代)  
  ┃ ┃     ┃┣-
  ┃ ┃     ┃媛姫(保科正之娘)
  ┃ ┃     ┃吉良義央
  ┃ ┃     ┃┣綱憲(4代)養子 正妻:紀州光貞娘・栄姫
  ┃ ┃     ┗三姫 ┣吉憲1684-1722(5代)
  ┃ ┃ (富子)1643-1704  ┃ ┣宗憲1714-1734(6代)    
  ┃ ┃         ┃ ┣宗房1718-1746(7代) 
  ┃ ┃         ┃ ┣重定1720-1798(8代)正妻:尾張藩宗勝娘豊姫 
  ┃ ┃         ┃祥寿院(山中氏)    ┣幸姫
  ┃ ┃         ┗豊姫       お登世┃
  ┃ ┃           ┣春姫        ┃
  ┃ ┃黒田長貞1695-1754秋月藩主┣上杉治憲1751-1822(鷹山)9代米沢藩主
  ┃ ┃清円院1556-1579    秋月種美1718-1787
  ┃ ┃ ┣道満丸1571-1579 
  ┃ ┗景虎1538-1590(養子:北条氏康7男)
青岩院(虎御前)1512-1568

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金沢藩主・前田利家

2010年04月03日 | 戦国時代

 ここ、前田家の御廟があるのは富山の瑞龍寺で、利家公だけではなく利長公や織田信長の石廟などもある。 瑞龍寺については又別の機会に譲るとして、ここでは前田利家と賤ヶ岳の戦いについて。。。

 前田利家1539-1599は幼名を犬千代といって、豊臣秀吉と同じ年の生まれである。 14歳のときに利家は土地の領主・織田信長に仕えた。 信長の弟・信行が前田家の領地である荒子庄の主人であり、当時弟の評判はすこぶる良かった。 しかし利家はカブキ者といわれた信長に仕え、寵童の扱いを受けたのである。 ところが出仕を差し止められたことがあった。 秘蔵していた笄を十阿弥という同朋に盗まれたときに斬殺したことで 信長の怒りをかったのである。 後に幾多の戦いで功をあげて復縁した。 利家は前田家の四男であったが信長の後押しもあって兄・利久の後を継いで前田本家の当主となった。 利家の運が次に大きく開けたのは信長の死後である。 柴田勝家を長とする北陸軍団の一員であったが、勝家と秀吉が天下を争った賤ヶ岳の戦いにおいて、利家は勝家の一員でありながら秀吉の味方をしたのである。 利家はかつては部下であった秀吉に誠心誠意仕え、秀吉五大老になっている。

--------------賤ヶ岳の戦い-------------

 明智光秀の謀反により信長が暗殺されると、1583年に織田軍団内の覇権を目指して羽柴秀吉と柴田勝家が激突する。 本能寺の変の9ヶ月後である。 全体の形勢は山崎の合戦で光秀を下して大きな功績をあげ、さらに織田軍団内での地の利を得た秀吉に有利に進んでいた。 織田軍団内は秀吉、丹羽長秀勢と柴田勝家、織田信雄、神戸信孝、滝川一益勢の二つに分かれる。1582年11月、勝家は長浜城主の柴田勝豊に命じ、秀吉と和平を図る。北陸にいた、前田利家、不破勝光、金森長近が介添え役であった。 この前田利家らと勝家は、北陸方面軍の同僚であり、個人的に利家は、清洲の浪人時代に勝家から世話になって恩義を感じ、一方秀吉とは4女を養女に出すなど親しい同僚関係だったが、秀吉は長浜の柴田勝豊を囲み、勝豊は勝家の甥の佐久間盛政と不仲だったことからあっさりと降服し、秀吉方となる。さらに織田家の後継者とされた信長の孫、三法師秀信を手中にしていた美濃の岐阜城の神戸信孝を降服させ、翌2月には滝川一益を攻める。勝家は、本格的な対決を覚悟し、徳川家康との友好交渉進めていたが、秀吉の行動は予想以上に早く、越後の上杉景勝に越中、能登への侵攻を促す一方で、勝家は徳川家康に書状に送るなど外交戦が展開された。

 1583年2月末勝家軍は越前を出、府中城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣、勝家も3月9日に北庄をでた。 柴田の近江侵入を聞いた秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせ、佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出する。 兵力は羽柴方が有利であったが、柴田方は山にしっかりと陣を築いたため、無理攻めはできない。4月に入って滝川一益が美濃侵攻し、織田信孝が再び挙兵する。 秀吉は木之本を秀長に任せ、15000人を率いて美濃に向かう。 戦いの初期に勝家方に寝返った山路将監が、秀吉陣は正面の神明山の守りは堅いが、その奥の余呉湖東の大岩山の守りが薄いと進言する。戦意の高い佐久間盛政が攻撃を強く志願、慎重派の勝家も押さえきれず認めるが、勝家陣には統率力に欠けるという根本的な弱みがあった。 4月20日の未明、佐久間盛政は張り切って山中の陣を出る。近くの岩崎山の高山右近、賤ヶ岳の桑山重晴に急を知らせ、援護を求める。しかし二人は多勢に無勢と退却、清秀は奮戦するも討ち死にする。初戦の勝利を盛政が勝家に知らせ、全軍での攻勢を求めると、勝家は撤退を求める。

 賤ヶ岳の秀吉軍の窮地を救ったのが琵琶湖対岸の坂本にいた若狭と近江2郡の領主の丹羽長秀だった。2000の兵とたまたま舟で賤ヶ岳方面に向かっていた船上から賤ヶ岳方面で戦が行われているのを知った長秀は部下の反対を押し切って海津から上陸、いったん賤ヶ岳を降りた桑山晴重らと再び登り、拠点を確保した。21日盛政軍は秀吉が駆けつけてきたことを知り、撤退を決意する。勝山城主の柴田勝安がしんがりとなるが、この勝安軍に大垣から来た秀吉の本体が攻めかかる。福島市松、加藤虎之助ら後に「賤ヶ岳の七本やり」と宣伝される。 新手の勢いをうけて佐久間隊総崩れとなり、勝家与力の不破勝光、金森長近も戦線を離脱し勝家軍はついに総崩れとなった。

在(金晴院)     
 ┣知好1590-1628     
前田利家1539-1599(金沢藩主初代)     
  ┃┃┣利長1562-1614(加賀藩主初代)
  ┃┃┃┣-
  ┃┃┃永姫1574-1623(織田信長娘)
  ┃┃┣利政1578-1533(前田土佐守家初代)
  ┃┃┃┗直之1604-1674(前田土佐守家2代)
  ┃┃┣摩阿姫1572-1605(豊臣秀吉室)
  ┃┃まつ(芳春院)1547-1617
  ┃┃  
  ┃┣利常1594-1658(加賀藩主2代)
  ┃┃ ┣光高1616-1645(加賀藩主3代) 
  ┃┃ ┃┃正室:摩須(保科正之娘)
  ┃┃ ┃┃ ┣-
  ┃┃ ┃┣綱紀1643-1724(加賀藩主4代) 
  ┃┃ ┃┃ ┃正室:松(徳川綱吉養女)
  ┃┃ ┃┃ ┃ ┣-
  ┃┃ ┃┃ ┣吉徳1690-1745(加賀藩主5代) 
  ┃┃ ┃┃町姫 ┃┃┣宗辰1725-1747(加賀藩主6代)
  ┃┃ ┃┃   ┃┃側室:伊与(浄珠院)⇔前田直躬1714-1774(前田土佐守家5代) 
  ┃┃ ┃┃   ┃┣重煕1729-1753(加賀藩主7代)   
  ┃┃ ┃┃   ┃側室:民(鏑木氏・心従院)
  ┃┃ ┃┃   ┣前田利和1734-1759
  ┃┃ ┃┃   ┣楊姫(佐竹義真正室)
  ┃┃ ┃┃   側室:真如院
  ┃┃ ┃┃   ┣-
  ┃┃ ┃┃   大槻伝蔵1703-1748(吉徳重臣)
  ┃┃ ┃大姫(徳川家光養女)清泰院 
  ┃┃ ┣利次1617-1674(富山藩主初代) 
  ┃┃ ┃┣前田正甫1649-1706(富山藩主2代)
  ┃┃ ┃┃ ┣利興1678-1733(富山藩主3代)
  ┃┃ ┃┃須磨
 ┃┃ ┃八尾
 ┃┃┏珠姫1599-1622(天徳院 秀忠次女)
 ┃┃┗千姫
 ┃寿福院1570-1631
  ┣利孝1594-1637
お幸和(明運院)

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京都真如堂住職で茶人の東陽坊長盛

2010年03月27日 | 戦国時代

 東陽坊長盛-1598は知る人ぞ知る安土・桃山時代の僧であり茶人である。 京都・真如堂東陽坊の住職となり、茶は千利休に学び薄茶の先達といわれている。 臨済宗建仁寺は、京都五山の名刹で、開創が鎌倉時代の1202年というから800年もの歴史を誇る日本最古の禅寺でありながら京都市中でも最も賑やかな祗園の南に位置している。 この建仁寺を開山した栄西禅師は、中国留学中に茶を持ち帰って日本に茶の湯を広めた功労者でもあり、この寺内にも茶室が数多く作られ、織田有楽斎好みの国宝「如庵」のほか、本坊の方丈中庭にも名席の「東陽坊」がある。 この茶室は利休の門弟・東陽坊長盛好みといわれ、1587年に秀吉が主催した北野大茶会の時に建てられたあと、真如堂に置かれ、さらに建仁寺開山堂の近くに移され現在にいたる。

東陽坊長盛墓がある真如堂境内と建仁寺方丈庭園

 

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上杉の軍師・直江兼続の邸宅跡

2010年03月22日 | 戦国時代

 軍師といえば山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などが有名であるが、武田信玄は山本勘助がいなくても、今語られる信玄であったであろうし、秀吉も官兵衛がいなくても秀吉であったであろう。 しかし直江兼続がいなければ決して上杉景勝はいなかった。 つまり豊臣政権の五大老のひとりにはなれなかった。 兼続1560-1620は樋口与六として身分の低い家に育ったが、幼き頃から頭角をあらわし、名門直江家を入り婿として相続し、上杉家の重臣となり与板城主となった。 上杉謙信が倒れ御館の乱というお家騒動が起こったとき、北条家から養子にはいった上杉景虎が圧倒的優位に立っていた。 景虎が後継者になれば実家の大大名である北条家と同盟が結ばれる。 そして北条家から嫁を迎えていた武田家の当主・武田勝頼とも同盟ができあがり、北条・武田・上杉の義兄弟同盟によって大敵である織田信長にも対抗できるという目算があった。 従って北条家の当主・北条氏政は義弟・武田勝頼に対して上杉景虎の援護をするようにと依頼していた。 窮地にたっていたのが上杉景勝(謙信の姉の子)である。 ところが景勝は絶対不利のこの状況をひっくり返し武田勝頼を味方につけたことにより、御館の乱で勝利して上杉家を継いだのである。 これにより武田勝頼は北条家を敵に回しただけではなく、同盟のチャンスの逃し、北条氏政を信長との連合に走らせ、1582年滅亡することとなる。 今から考えればありえないことであるが、これは直江兼続の軍師としての采配によるものである。 上杉謙信の遺産により勝頼を寝返らせたことと、父信玄のなし得なかった上杉家が武田家の家臣として仕えると景勝が誓ったことで、謀略は成功したのである。  1584年末から上杉家の二大巨頭のひとり秀治が病に倒れ、兼続は単独執政を行ない、兼続死去まで続くことになる。 1588年には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として佐渡征伐に景勝と共に従軍すると平定後には佐渡の支配を命じられる。 越後・佐渡の金山支配を任せられ、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増された際、兼続には出羽米沢に6万石の所領が与えられている。 1598年9月18日に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭するが、石田三成と懇意であった兼続は、家康と対立する。 関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こしたときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させた直江状は有名である。 美濃での関ヶ原本戦で西軍が敗れた事を奥州で知った上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。 この撤退戦の見事さは語り草となり、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられている。 1601年7月、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続を許された。 その後は徳川家に忠誠を誓い、 兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れるなど新田開発に努め、 町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。 1614年からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。

 京都・聚楽第南の直江兼続邸跡 推定地は京都御所のすぐ西側に位置します。近所のおばさんの話では、この碑は最近(2009年秋頃)に建ったらしく、確実にNHK大河ドラマの影響と思われます。

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魔除けの「鍾馗」を掲げた本多忠勝

2010年03月21日 | 戦国時代

 京都市内の京町家などの小屋根の軒先に10~20cm大の瓦製の人形が置いてあるのをよく見かけることができます。 これは鍾馗さんといって 鬼瓦と同じく魔除けの意味があります。 鍾馗さんは道教系の神ともいわれ、日本では、魔除けだけではなく学業成就に効があるとされ、端午の節句には鍾馗さんの絵を奉納することもあります。 屋根の軒下にある鍾馗さんは京都であればどこででも見ることができるのですが、鍾馗さんだらけの状態を見つけたので思わずうれしくなってしまいました。 実はこれ、鍾馗さんを扱う店でございました。 京都の壬生近辺にありました。

 さきに紹介した徳川四天王のひとり本多忠勝は57回の戦に参じて一度も傷を負わなかったのは世に知られたことですが、実は旗印に鍾馗像を掲げていたのです。

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三条河原で斬殺された最上の駒姫

2010年02月22日 | 戦国時代

1595年8月2日の午後、京都鴨川の三条河原で、罪なき女性と幼い子ども30余名が斬殺されるという、史上類稀な凄惨きわまる処刑が行われた。 殺されたのは、前関白豊臣秀次の妻妾とその子供たち。 義光の次女駒姫が悲劇の死を遂げたのは、このときである。 処刑を命じたのは、豊臣秀吉であった。 秀吉は、長らく子どもに恵まれなかった。側室淀殿にできた鶴松がおさなくて亡くなると、彼はわが子の誕生をあきらめ、姉の子である三好秀次を養子にし、後継者とした。秀吉は、朝鮮征伐の指揮をとるため関白を辞し、1591年にその職を秀次にゆずった。天皇の代行者となった秀次は、豪壮華麗な聚楽第を与えられ、ここで暮らしつつ政務にかかわることとなる。 ところが、朝鮮出兵さなかの文祿2年8月に、淀殿がまたも男の子を生み、これが健やかに成長しはじめると、秀次に対する秀吉の態度には大きな変化が生じてくる。秀次を後継者にすえたことを悔やみ、これを廃しようとするのである。 秀次の行動にも、問題があった。上皇崩御の後、喪に服すべき期間に狩猟に興じたり、罪人を手ずから試し斬りするなど、関白としてあるまじき振舞をなし、世の顰蹙を買うことがしばしばだったという。秀次はその非をとがめられ、加うるに太閤に対する謀反の疑いまでかけられて、官職剥奪、高野山追放、ついには切腹を命じられて自決する。側近家臣ら10人も追い腹を切る。これが、1595年7月15日であった。 豊臣政権の最上層部に起こったこの事件は、大名諸侯にとって大きな衝撃だった。動揺する大名たちに対して、秀吉は7月20日、愛児秀頼への忠誠を誓わせる。 「お拾い様へ対したてまつり、いささかも表裏なく、御為になるよう覚悟して御奉公申し上げます」を第一条とする五か条である。 その誓約書には29名の諸侯とともに「羽柴出羽侍従」の肩書きで、義光も花押血判をなした。その文書は今、岡山市の『木下家文書』に収められている。

 秀次を切腹させて首を取っても、秀吉の気持ちはおさまらなかった。続いて、秀次の寵愛を受けていた女性と彼の血をひく子ども全員の殺害を命じた。その中に駒姫(聚楽第では「おいまの方」と呼ばれた)が入っていた。 義光は八方手を尽くして助命嘆願をしたというが、秀吉は「父親の身分地位によって刑罰を左右するなら、天下の政道は成り立たぬ」と言って許さなかったという。 妻妾たちの中には、秀次の切腹を知ってすぐさま髪をおろして尼になった者もいたが、これらをも秀吉は許さなかった。罪なくして斬首の刑に処されると知ったとき、彼女等の悲嘆はいかばかりだったか。泣いても嘆いても、助かる術はなかったのだ。 8月1日、女性たちはそれぞれに親しい人たちに手紙を書き、形見の品を分けととのえ、沐浴をして身を潔め、死出の旅支度をする。 駒姫も形見を残したことは確かだろう。山形市門伝の皆龍寺には、駒姫着用と伝えられる高雅な衣裳の切れが、大切に保存されている。 同2日、死装束の白衣に身をつつんだ女性たちは、市中引き回しの牛車に乗せられた。たまたま上京中で、その様を目撃した岡崎上宮寺の住職、円光院尊祐の自筆記録によると、引き回しは次のようであった。 車は7台。1台目には三人の女性とその子ども3人。1歳から3歳の幼児であった。 駒姫は2台目の車に乗せられた。「最上殿御子 おいま様 十五」と記されている。同車したのは、秀次の正室、菊亭右大臣晴季の娘32歳。それに、武藤長門守の娘19歳、小浜殿の娘29歳の4人であった。 以下7台目まで、女性31名は名前と年齢が記され、幼児3名は年齢のみがメモされている。合計34人、「一条より京の町々をひきまわし、三条の河原にて御成敗なされ候」と、尊祐は書き記した。 小瀬甫庵『太閤記』によると、まもなく命を断たれる運命をも知らずに、牛車の上で母にあまえかかる幼い子どもの姿に、見る人はみな泣いたという。 市中引き回しの後、女性たちは三条河原の刑場に追い入れられる。そこに築かれた塚の上には、秀次の首が据えられていた。

 殺戮は正午ごろから開始された。最初は子どもたちだった。 「五十ばかりの髭男が、愛らしい若君をまるで犬の子でもぶらさげるようにあつかって、刺し殺した」「抱きしめる母の膝から奪い取って、胸元を二刀刺して投げ捨てた」と『太閤記』には描かれているが、泰平を謳歌したように思われる桃山時代の京都で、このように残酷な処刑が行われたのである。 おさな子が終わると、処刑は女性たちへと移る。その様を秀次一族の菩提寺、京都三条瑞泉寺の縁起では、以下のように語っている。
 最初に処刑されたのは、秀次の正室・一の台、31歳(32、34歳とも)、菊亭右大臣晴季の娘。絶世の美女と謳われた女性である。 第2番目はお妻の前、16歳、三位中将藤原隆憲の娘。 第3番目はお亀の前、32歳、中納言持明院基孝の養女。 処刑は名簿に従って進められ、駒姫は第11番だったという。 「第十一番に、お伊万の前、出羽最上家の息女十五歳。東国一の美人との評判高く、さまざまに仰せて漸く七月初めに上京、長旅の疲れで未だ秀次に見参もせぬうちにこの難にあったので、淀君らもこれを伝え聞いて太閤に助命を願い出た。太閤もこれを黙止するわけにいかず、『鎌倉で尼にせよ』と急使を出し、早馬で三条河原へ馳せつけさせたが、いま一町というところで間に合わず、ついに蕾のままに散った」 「つぼめる花のごとき姫君で……未だ幼かったけれども、最期の際もさすがにおとなしやかであった」と、これは『出羽太平記』の記事。 駒姫は、静かに所定の場に座し、西方阿弥陀浄土に向かって手を合わせ、うしろに斬首執行の男が立って刀を振りかざしたときには、心持ち頸を前にさし延べたと書いたものもある。 瑞泉寺には、駒姫辞世の和歌懐紙が伝えられている。『 罪なき身も世の曇りにさへられて、ともに冥土に趣かば、 五常の罪も滅びなんと思ひて 伊満十五歳  罪を切る弥陀の剣にかかる身の なにか五つのさわりあるべき』

 「罪なき私の身も、世間のよこしまな動きに邪魔されて、みんなと共に冥土に行ったならば、五つの徳目にそむいた罪も滅びるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかるわが身、どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか。きっと、極楽浄土に行かれることでしょう」

 30余名の処刑は申の刻まで続き、殺された人の血で流れる水も色を変えたという。亡骸はみな一つ穴に投げ込まれた。築かれた塚の上には「悪逆塚」と彫りつけた石が載せられた。見物に来た人たちは、 「あわれなるかな、悲しいかな。かくも痛ましいと知っていたなら、見物には来なかったものを」と後悔する声も多かったと『太閤記』は語る。

 人々はこの事件を厳しく批判した。夜のうちに辻々に貼り紙がなされ、「今日の狼藉は、無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほど御用心候え」と書かれていたという(『太閤記』)。 この前後、義光は閉門蟄居中で、邸から出ることができなかった。せめて娘の最期だけでも知りたいと、家臣を現場に差し向ける。行ったのは上級家臣浦山筑後だとも、そうでなく、もっと身分の低い家来だったともいう。 義光は、朝から仏間に引きこもって祈りを捧げ、ひたすら耐え続けていた。駒姫の最期の様子が報らされたとき、義光は面をあげることもなく、「過去の業にこそ」と、ただ一言を発しただけだったという(『奥羽永慶軍記』ほか)。その意は「前世になしたことが、今、自分と娘に、こうした報いとなったのだろう」というのである。罪なきわが娘のあまりにも残酷な運命は、前世の宿業と考える以外に解釈のしようがなかったのだ。 その後数日、義光は湯も水も喉を通らないほどの悲しみようだった。不幸は、続けざまに義光を襲う。 駒姫死後の27日めにあたる8月16日、妻が急死する。駒姫の母親であろう。亡くなった事情はよくわからないが、独り黄泉路に旅立った娘のそばに行こうと、みずから命を絶ったのではないかと、多くの研究家は想定している。「山形殿内室、奥州大崎家の娘」と『最上家代々過去帳』に記された女性である。 20歳前後に義光のもとに嫁ぎ、幾人かの子女をもうけ、会津へも京へも行って夫を支え、苦楽を共にした妻である。その急死を義光がどれほど嘆いたかは想像に余りある。 しかし、義光は一国の主として、ただ耐え忍ぶ以外にすべはなかっただろう。 文祿4年8月は、義光の生涯で最も苦しい秋であった。

 秀次の切腹、三条河原の処刑、すべて秀次の謀反が原因と、秀吉側……石田三成、増田長盛、前田玄以らを中核とする政府……は説明したが、事実は秀頼を立てるために、秀次に謀反人の濡れ衣を着せて亡きものにしたというのが歴史家おおかたの見方だ。 京都の事変は、8月10日過ぎには山形に急報されたに違いあるまい。姫様は囚われ、やがてご生害、殿は閉門蟄居、なじみ深い方々が死罪あるいは流罪。わが最上家にも、いかなる難儀が出来するか計り知れぬ……最上家存亡にかかわる一大事である。 おそらく山形にいた一族重臣が協議した結果であろう、8月13日に嫡男義康が大沼明神(西村山郡朝日町にある。浮島で有名)に祈願状をささげた。 「敬白 立願状之事 このたび父親義光の身命が無事でありましたなら、社殿を建立し、村に住む人々を皆山伏(神社に奉仕する者)にし、また、境内の松はいっさい伐らないようにいたします」 願主は「源義康」となっている。神仏に願を立てるときは、本姓(最上氏は「清和源氏」)を使うのが通例だった。この祈願状には、後で書き加えたらしい次男「寒河江家親」の署名もある。父親の無事と最上家の安泰を願う、必死の祈りだった。祈願状は、ほかの社寺にも捧げられたと思われるが、現在はこの一通が残っているだけらしい。 7月15日秀次切腹。20日に秀頼への忠誠を誓わされて血判を捺し、ついで閉門蟄居、10日ほど後には娘を殺され、悲嘆と不安の真っ只中の8月16日に、今度は妻が死ぬ。しかも、次にどんな無理難題を吹きかけられるか知れないのである。 理不尽とは、こういうことを指すのだろう。 だが、幸いにして最上・伊達両家にかけられた謀反加担の疑いは程なく晴れ、閉門蟄居は解除される。こうしたこともまた、山形に報らされたはずである。一門家臣たちも、ほっと一息ついただろうと思われる。 後日、秀吉は義光に使者をつかわして、こう伝えた。 「娘を死罪に行ったことを、きっと不快に思うだろうが、秀次が反逆を企てた以上は、やむをえないことと思うべきである。こうなったからには、汝の罪科も許してやろう」 義光はこれに対して、「有難き御上意」と答えただけだったという(『永慶軍記』)。秀吉と石田グループに対する不信と怒りは、極限に達していたに相違あるまい。 それだけに、従来から親しかった実力者、徳川家康への傾倒は、いっそう強まっていっただろうと思われる。 五年後、天下を二分した関ヶ原の戦いのとき、義光が家康を支える盟友として誠実に行動し、強大な上杉軍の攻撃を真正面から受け止めたのも、自然なことであろう。   【最上義光歴史館より抜粋】

史上類稀な凄惨きわまる処刑が行われた三条河原

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京都三条にある瑞泉寺には秀次一族の墓がある

2010年02月21日 | 戦国時代

 豊臣秀吉の最初の嫡男は側室・淀君との間に誕生した鶴松。しかし、誕生から二年後の1591年に病死。秀吉は、姉の子(甥)秀次を後継者として関白職を譲るとともに聚楽第を与え、自らは伏見城を建造し隠居する心づもりをした。ところが、二年後の1593年、淀君が秀頼を生んだことで秀吉の心が変わり。次第に秀次は疎んぜられ、また石田三成らの策謀もあり1595年7月、”謀反”の疑いを理由に秀吉の命を受け、高野山へ追放の後、その地で切腹させられた。さらに翌月には秀次の子供と妻妾ら39名の女子を三条大橋西詰めの河原において公開惨殺。遺骸は近親者に引き取らせずに、その場に掘られた大きな穴へまとめて投げ込まれたという。穴は大きな塚となり、頂上には高野山から取り寄せた秀次の首を入れた「石びつ」が置かれ、三条通を往来する人々に晒され、いつしか「殺生塚、畜生塚」と呼ばれるようになった。また、秀吉の栄華を象徴した豪邸「聚楽第」も、秀次と妻子の居城となっていたためか、徹底的に破棄されている。その後、「殺生塚」も鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。秀次とその一族が処刑された後、わずか三才にして秀頼は豊臣家の後継者になった。

 16年後の1611年、太閤秀吉の十三回忌を迎え「大仏殿方広寺」の再建工事が始まり、その建築資材を運搬するため運河「高瀬川」の開削工事が始められた。その工事の途中、土中から「秀次悪逆塚」と刻んだ石が発掘された。工事責任者の角倉了以は、了以の弟が秀次の医師として支えていたこと、弟の一周忌であったことから、秀次の菩提を弔うために立空桂叔を開基とし、その地に堂宇を建立し秀次の法号から瑞泉寺とした。これが、瑞泉寺の始まりである。 瑞泉寺の本尊は阿弥陀如来像。寺宝として秀次及び妻妾らの辞世の和歌を蔵している。また、境内には豊臣秀次の墓石(秀次の首が入れられていたとされる「石びつ」)、秀次の子供や妻妾たち39人と殉死した家臣10人の計四十九柱の五輪塔がある。創建以来、約400年間にわたり、冤罪により死罪となった豊臣秀次と一族・家臣の菩提を供養してきた。瑞泉寺は、秀次とその一族の菩提を弔うために角倉了以により創建された寺である。 秀次の姉・智が創建した秀次とその一族の菩提を弔う善正寺が左京区の岡崎にある。 秀次の正室は池田恒興の娘・若御前、継室は右大臣・菊亭晴季の娘・一ノ台。 側室は、最上義光の娘・駒姫(お伊万の方)、淡輪徹斎隆重の娘・小督局、大島新左衛門の娘・お国などがいた。 なかでも伊達政宗の従姉妹にあたる駒姫に関しては側室として1595年7月に京入りを果たした直後の8月に斬首されたのである。

三条木屋町 瑞泉寺

 

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秀吉命で近江を開拓した豊臣秀次公墓所

2010年02月20日 | 戦国時代

 豊臣秀次の墓所は京都三条の瑞泉寺にあります。その瑞泉寺の紹介については次回として、ここでは秀次一族が三条河原で打ち首になるまでを簡単に。

1590年   秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。

     7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。

1591年   異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。秀次は左大臣も兼ねたがそれにふさわしい力量はなかった。それまで左大臣であった教養人で三筆の近衛信尹は職を追われ、秀次は聚楽第を継ぎ、秀吉は隠居屋敷をつくる。これが伏見城である。 秀次は秀吉の姉と三好吉房の子で、秀吉の養子にもなり、抜擢し続けた。 近江八幡で43万石の大名に取り立て、尾張清洲の大名とし、関白にしたあと聚楽第まで譲ったのである。 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。  

1592年   鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 

1593年   淀君は男子を産んだ。捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀次の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。秀次はその女達に閨の伽を申し付けたのである。閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀次の弱さがでている。

1595年   7/3 秀吉と秀次の不和、秀次の謀反が噂となる。曲直瀬道三1549-1632(天皇家医師)に秀次の病を優先させたことが発端で秀吉に問い詰められた。

      7/8 謀反の疑いで縁を切られた秀次は高野山に向かった@公家の日記

      7/12 高野住山令(高野山の青厳寺で謹慎処分)By秀吉

      7/13 秀吉は秀次に切腹を命じた?@太閤記

      7/15 秀頼切腹

      7/20 血判起請文:諸大名訪問

      7/25 秀次の正室の父・右大臣菊亭晴季が越前に流罪

          伊達政宗:謹慎尋問

          細川忠興:嫌疑

          浅野幸長:嫌疑

      8/2  秀次一族斬首@三条河原---石田三成の処刑奉行

1596年  7/13  伏見地震で伏見城倒壊--死者多数

 

考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。 前々から秀次の学問指南役であった東福寺の隆西堂は僧でありながら殉死し、若い近習も数名後を追った。山内一豊など重臣は殉死せず、秀次の妻子ら三十数名が三条河原で惨殺され、聚楽第も徹底的に破壊されたのである。

 後に高瀬川を開削した角倉了以1554-1614が、三条小橋の東詰に瑞泉寺を建立した。角倉了以の弟がかつて秀次に仕えており、秀次の法名をとって寺を造ったのである。現在瑞泉寺には秀次の墓碑と多くの妻子の墓が並んでいる。殺された妻子・妾には大名・公卿出身の者もいたが遺族が遺骸をひきとることすら許されなかったという。

         北の政所(正室)後に高台院1542-1624 
         ┃
近衛信輔(左大臣) ┃加賀局(前田利家娘)1572-1605
二条昭実(前関白)  ┃┃
  ┗ 豊臣秀吉(関白)1536-1598         姉川合戦:浅井、朝倉討伐
    ┃ ┃┃ ┃┣ 豊臣秀勝1570-1576    山崎合戦:明智光秀討伐
    ┃ ┃┃ ┃┣ 娘1571-1571            賤ケ岳合戦:柴田勝家討伐
     ┃ ┃┃ ┃南殿(山名善幸娘)
     ┃ ┃┃三の丸殿(信長九女) 
     ┃ ┃姫路殿(信長の弟信包の娘)
     ┃ ┣ 豊臣秀勝1569-1592(信長の四男で妻はお江与、子は茶々が養育)
     ┃ ┗ 豊臣秀次1568-1595(近江八幡城主)母は秀吉の姉・日秀 
    ┃        ┣-
     ┃    ┏一の台局(元秀吉の妾)-1595
     ┃     ┃  ┣ 美耶姫-1595
       ┃       ┃三条顕実
       ┃  菊亭晴季(右大臣)1539-1617   側室:おいちゃ
    ┃                               ┣奈阿姫1609-1645(天秀尼:千姫が養母)
        ┣ 豊臣鶴松1589-1591(3歳で病死)┣豊臣国松1608-1615(斬首)
     ┣ 豊臣秀頼1593-1615(大阪夏の陣で母と自害)
お市の方┃          ┃乳母は大蔵卿局 
   ┣ 淀君 茶々1569-1615   ┃   ┣ 大野治長
    ┃                       ┃   ┣ 大野治房 
    ┃                       ┃   大野佐渡守 
   ┣ お初1570-1633(常高院) ┃  
   ┃ ┣ 忠高              ┃
   ┃ 京極高次1563-1609    ┃
   ┣ お江1573-1626(崇源院) ┃
   ┃ ┃   ┣ 千姫  ━━┛
   ┃ ┃   ┣ 子々姫
   ┃ ┃   ┣ 勝姫
   ┃ ┃   ┣ 長丸
   ┃ ┃西郷局┣ 竹千代(家光)
   ┃ ┃ ┣徳川秀忠1579-1632
   ┃ ┃徳川家康1543-1616
   ┃ 佐治与九郎一成(母は信長の妹)
   ┣ 万福丸
┏ 浅井長政 武田孫八郎元明1552-1582(光秀に加担したとして自害) 
┃     ┣ 武若
┗ 姉マリア ┣ 俊丸
   ┣ 京極局(竜子)1557-1634 後に芳寿院
   ┣ 京極高次1563-1609
   近江源氏佐々木京極高吉

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足軽・本城惣右衛門覚書での斉藤利三

2010年02月11日 | 戦国時代

 本城惣右衛門覚書は、本能寺の変で明智光秀に従軍していた光秀配下の足軽・本城惣右衛門が、江戸時代に入って晩年、親族と思われる三人の人物に宛てた記録の内の一番乗りで本能寺に侵入したという部分を掲載したものである。 この覚書から本能寺の変がどのように行われたのかが伺える貴重な資料となっている。 

現代文訳:守天働児

『明智光秀が謀反を起こし、織田信長様に腹を召させた時、本能寺に私たちより先に入ったと言う人がいたら、それは嘘です。まさか、信長様に腹を召させるとは夢とも知りませんでした。その時は、太閤秀吉様が備中で毛利輝元様と対峙していたので、明智さまが援軍を申しつけられたのです。京都の山崎の方へ行くと思っていたら、逆の京都市内の方へ行けと命じられましたので、、。討つ相手は徳川家康様であるとばかり思っていました。また、本能寺というところも知りませんでした。進軍の途中、軍勢の中から馬に乗った二人の武将が前に出てきたので、誰かと思ったところ、斉藤内蔵助殿(利三)の子息で小姓を二人連れていました。本能寺へ向かう間、我々はその後ろについて行きました。片原町に入った時、子息殿は北の方へ行き、我々は南の堀に沿って東に向いて進んだところ、本能寺に入る道に出ました。橋の側に門番がいたので私たちは殺して首を取りました。そこから本能寺内に入ろうとしたところ、門は簡単に開いて、中は、ネズミ一匹いないほど静かでした。門番の首を持っていたところ、北側から入ってきた三宅弥平次殿と伝令将校の二人がやってきて、「首は討ち捨てろ。」と言われましたので、堂の下に投げ入れました。本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人、捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とは分かりませんでした。この女は斉藤内蔵助殿のもとに連れて行きました。旗本衆の二、三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。一人の男が、奥の間から、麻の単衣(寝間着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので、
私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。その頃には建物の中には我が軍の多くが入っていました。この襲撃時には、以上のとおり、敵の首を二つ取りました。褒美として、槍を貰ったので、野々口西太郎殿に伝えます。』

 と、こうである。公家に反信長の動きは存在し、更に義昭、堺衆、本願寺、雑賀衆、丹波衆等、反信長勢力は各地に数多く存在し活動していた中で、本能寺の変の当時、光秀は在京信長軍団幕僚のトップとして織田軍に関わる情報のすべては光秀のもとに集っていた。そして、光秀は変前の一年間、ほとんど信長の周辺にいた。 そして覚書にあるように、本能寺攻めは明智光秀方の将兵達にも敵が信長であることを知らせないまま、粛々と実行されたのである。明智軍兵士達は、「徳川家康」を攻撃するとばかり考えていた。 本能寺攻撃の現場に明智光秀はおらず、直接指揮をとったのは、斉藤利三や明智秀満勢であった。 本能寺には信長以下100人に満たない将兵が、守りをほとんど行わないまま滞在していた。本能寺では戦いらしい戦いはされず、しかも、信長のみを狙った襲撃作戦であった。  

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秀吉の城郭風屋敷・聚楽第跡地

2010年01月05日 | 戦国時代

  秀吉が得意の調略により公家・摂家を味方にして天皇より豊臣の姓を賜り、最高権威を獲得した晩年に、その象徴そして聚楽第を築いた。 場所は京都御所の西隣りで平安宮のあったところで規模は御所よりも広大であったという。 寺町・木屋町通で、幕末巡りをしながらちょっと寄ってみました。いつも思うのですが、奈良と違って京都には石碑ばかりで現存する建屋などはないので残念な限りです。

 関白で太政大臣となった秀吉が1586年に築き始め翌年に完成させた関白の政庁で、城郭風の屋敷が聚楽第で、二条城のすぐ北に位置していた。 完成した直後に秀吉は大阪から母・妻らを伴って聚楽第に移り、北野天満宮で完成を記念した大茶会を催している。 これは九州から凱旋した秀吉が計画したもので、茶の湯の好きなものは町人・百姓でも参加できるものであった。  1588年には後陽成天皇が多数の公卿を従えて聚楽第に行幸したのは有名である。 聚楽第は秀吉の権勢の頂点と示されたが、完成から8年後に豊臣秀次を失脚させた後に自らの手により取り壊してしまった。  聚楽第の本丸は大内裏の主殿寮などの跡地にでき、諸大名の屋敷も建てられ、如水町、福島町の名でその名残が残っている。 屋敷の塀には金箔の瓦で葺かれるほどに豪華絢爛で聚楽第の東、御所より西の中立売通に集中している。 大名屋敷跡からはさまざまな家紋のはいった瓦が出土され、織田家の家紋である五葉木瓜文も見つかり、内大臣・織田信雄の屋敷があったあったことが伺える。

平安時代には大内裏があり、後に秀吉により聚楽第が建てられた。律令制下の政庁・天皇居所跡に自己の政庁兼屋敷を造ることを意図した聚楽第は聚楽亭ともいわれ、堀をめぐらした平城ではあるが、戦闘を目的とした城郭ではなかった。大きさは現在の京都御所 と同じくらいの規模で、御所の西一帯に広がっていた。後陽成天皇の行幸が2度も行われるほど秀吉、秀次の権勢を誇るものであったが、秀吉が1595年に秀次を和歌山県の高野山に追放して切腹させた後は、徹底的に取り壊された。

 

この地は大内裏及び聚楽第東濠があったとされる場所で、1992年工事現場の地中から金箔の付着した瓦約600点が出土し、豊臣秀吉ゆかりのデザイン瓦であったという。

 1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。 7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。 奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。  翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。 秀次は左大臣も兼ねたがそれにふさわしい力量はなかった。それまで左大臣であった教養人で三筆の近衛信尹は職を追われ、秀次は聚楽第を継ぎ、秀吉は隠居屋敷をつくる。 これが伏見城である。 秀次は秀吉の姉と三好吉房の子で、秀吉の養子にもなり、抜擢し続けた。 近江八幡で43万石の大名に取り立て、尾張清洲の大名とし、関白にしたあと聚楽第まで譲ったのである。 

 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。  1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。 その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 1593年、淀君は男子を産んだ。 捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。

 秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。  秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。 秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。  秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。 そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。 秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。  その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。 また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。 考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。 一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。 前々から秀次の学問指南役であった東福寺の隆西堂は僧でありながら殉死し、若い近習も数名後を追った。 山内一豊など重臣は殉死せず、秀次の妻子ら三十数名が三条河原で惨殺され、聚楽第も徹底的に破壊されたのである。

 後に高瀬川を開削した角倉了以が、三条小橋の東詰に瑞泉寺を建立した。角倉了以の弟がかつて秀次に仕えており、秀次の法名をとって寺を造ったのである。 現在瑞泉寺には秀次の墓碑と多くの妻子の墓が並んでいる。殺された妻子・妾には大名・公卿出身の者もいたが遺族が遺骸をひきとることすら許されなかったという。 破壊された聚楽第は完全に消滅し現在は唐門が大徳寺へ移されたのみである。

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大阪城極楽橋

2009年12月31日 | 戦国時代

 秀吉が大阪城を築城し権勢を誇ったときに京への通り道に豪華絢爛な橋を内堀に渡した。 もともとは石山本願寺の阿弥陀堂へ行く際に渡ったことから「極楽橋」といわれ、その様子は大阪城図屏風に描かれている。唐破風造の屋根を架けその上に望楼を載せた特殊な廊下橋で金塗りの屋根、欄干を持つ。橋の中央には平屋造の二基の舘があり北側の二階門に通じていた。現在ではこの二階門は宝厳寺に移築されて生き延びている。

極楽橋

竹生島の宝厳寺にある唐門は極楽橋から移築された

 

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豊臣秀頼・淀殿 自刃の地

2009年12月29日 | 戦国時代

 豊臣秀吉が亡くなった後の約15年間は、徳川家康が実質上天下を取り、秀頼・淀君に次第に圧力が迫ります。とうとう大阪冬の陣・夏の陣を迎え、真田幸村の奮戦むなしく侍従30人あまりとともに自刃を遂げた秀頼・淀君の碑が大阪城天守閣の西にひっそりと立っています。

 時の右大臣菊亭晴季の娘・一の台局は三条顕実に嫁いで美耶姫をもうけたが顕実と死に別れて秀吉の妾になっていた。 もちろん政略結婚であり菊亭晴季は秀吉の関白昇進に骨を折り、自らも右大臣となった。 その頃に秀吉の側室となって現れたのが茶々である。 ゆうまでもなく茶々の母・お市の方の遺言により織田と浅井の血を残すべく秀吉に嫁いだのである。 豊臣秀吉の血を残すためではなかった。   茶々と同様に秀吉の側室になりながら秀吉を恨んでいる人に京極局がいる。 京極局こと竜子は浅井長政の姉・京極マリアと近江源氏の佐々木高吉との間に生まれ、武田元明と結婚したが、その美貌に目をつけていた秀吉は 元明が明智光秀に加担して秀吉を攻めたとして謀殺し、妻を奪ったのである。 竜子の兄に京極高次がおり、茶々の妹・お初と結婚している。 高次は本能寺の変のとき光秀に味方して長浜城攻めに加わり失敗すると秀吉に追われることとなる。 しかし竜子の取立てにより罪を免れて一万石の城主にまでなっている。 茶々はそんな竜子を唯一の味方と考えていた。

  聚楽第では公家と武家の合同歌会や、後陽成天皇の行幸が行われ、秀吉が天皇の代理として天下を統率することが公認されたのであるが、これは一の台局の父・晴季の功績といってよい。 そんな父を称えるように秀吉は一の台局を労うと、一の台局は茶々の鋭い視線を感じた。 一の台局は側室ではあるが、ほとんど秀吉の相手をしていない。 20歳も年の離れた秀吉に抱かれたいなどと思うこともなかったが・・・。  茶々は母お市の方のような絶世の美人ではなかったが秀吉は寵愛した。 一の台局も京極局も華奢な体つきであったが茶々は父親似の大柄で豊満である。 小柄な秀吉はそういう 豊満な茶々に惹かれたのである。 しばらくして茶々が身篭ったことに秀吉は狂気して喜んだという。 というもの秀吉には南殿との間に秀勝という男子がいたが、7歳でなくなった。 以来子供に恵まれることはなく、その後養子の何人かに秀勝の名を与えていることから余程最初の男子をかわいがったようである。 それから12年、待ちに待っていた男子が誕生したから狂喜したのも無理はない。

  懐妊の噂は一の台局の耳にもはいった。 秀吉に子胤がないと経験から確信を持っていた一の台局は、茶々の秀吉に対する復讐ではないだろうかと感じた。 1589年5月、茶々は淀城で鶴松を産んだのである。  鶴松誕生の宴が聚楽第で催されたとき、一の台局は侍女の楓が言った「茶々は他の子胤を宿したのでは・・」という言葉を思い出しながら落ち着かなかった。 このとき近江八幡城主の秀次も出席しており、こともあろうにその夜二人は情事に耽った。 翌日、一の台局は秀吉から二度目の暇を告げられている。 侍女の楓は秀吉の動きを探るために家康の腹心・本多正信が送った密偵であり、秀次との情事を正信に報告していたのである。  鶴松4ヶ月のときに、秀吉につれられ大阪城へくると北の政所や大政所と対面したが、その顔は秀吉にそっくりで、一の台局と同じような疑問を抱いていた一同はまぎれもない嫡子であると思ったようである。

  1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。 7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。 奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。  翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。  1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。 その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 1593年、淀君は男子を産んだ。 捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。

 秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。  秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。 秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。  秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。 そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。 秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。  その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。 また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。 考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。 一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。

  秀次が亡くなった後の秀吉は、自分を見失うかのように秀頼を寵愛し、体調を崩していった。 いよいよ家康が長年の我慢の成果がでてきた。 明智光秀征伐を秀吉に許したばかりに、天下取りの先を越された家康は、この日を待っていた。 秀吉が62歳で亡くなると、尾張出身の加藤清正、福島正則を推す北政所と、近江出身の石田三成、長束正家を推す淀殿との対立は周知のこととなるが、家康は尾張勢に接近することとなる。 北政所の淀殿も家康が次の担い手であることは認めていたが、淀殿は三成によって家康を阻み、秀頼の安泰を図り、北政所は家康に飛び込むことにより豊臣家の永続を考えていた。   淀殿は石田三成の忠誠に心強く思うが、家康の勢力に勝てるはずもなかったが、前田利家の秀頼に対する忠義により、豊臣家と家康はかろうじて均衡を保っていた。 ところが前田利家の病死により一気に展開が変わるのである。

 三成が昵懇にしている常陸水戸城主 佐竹義宣が火急を告げてきた。 加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の七将が三成襲撃を企てているというのである。 このとき三成は家康のふところに飛び込むと、家康は保護し、息子の結城秀康の警護の元、近江佐和山城へ送り届け、石田三成の地位は失墜し発言権もなくなった。 徳川家康は伏見城から大阪城へ入城して政務を指揮することとなった。  石田三成が挙兵したのはそれから1年半後のことである。天下分け目の関ヶ原の合戦である。 結局、小早川秀秋の寝返りにより家康側の勝利となると、家康は大阪城に入り、淀殿と秀頼親子と会見を持ち、危害は加えない旨を伝えた。 家康の孫・千姫7歳が大阪城に入り、秀頼11歳と結婚の儀をかわしたのは、それから3年後のことである。 家康は征夷大将軍となり、秀頼は内大臣が約束され、家康の孫・千姫が嫁になったことで、淀殿は、秀頼が成人すればいずれは天下を譲ってくれるのではないかとの望みを捨てきれないでいたのであるが、家康は征夷大将軍を辞し、秀忠に譲ると徳川家の世襲として代々天下の政権を握ることを表明した。 千姫が嫁いできたことによって秀頼の将来が保証されたと思い込んでいた淀殿は衝撃を覚えた。 それ以降、淀殿は鬱状態になり暗雲立ち込めるようになる。

 家康の三男・秀忠の娘・千姫を秀頼に嫁がせると、江戸へ戻り諸大名の負担により大都市への改造を行った。 1605年、将軍就任後二年にして息子秀忠に将軍職を譲ると、秀忠を二条城に入らせ、大阪城の淀殿・秀頼に二条城に上洛するように命じる。ところが淀殿の強硬姿勢により、家康は豊臣家を滅亡に導く決意を固めるのである。 淀殿の姿勢を和らげようと奔走したのは加藤清正、浅野幸長である。 1611年、家康が居城である駿府を出発し上洛したとき、清正らの説得でやっと秀頼は家康との対面を果たす。 ところが対面直後に清正は肥後熊本への帰国の途中で病死するのである。 また対面に奔走した浅野幸長も1613年に38歳で亡くなった。 秀吉派のこれらの勇士が次々と亡くなったことで豊臣家の滅亡が現実のものとなっていったのは云うまでも無い。

 またこの頃、家康は膨大な豊臣家の資産を浪費させている。 つまり秀吉の供養と称して多くの寺院を復活させ、方広寺の再建や、大仏殿の鐘である大梵鐘も鋳造され、1614年にはほぼ完成していた。 梵鐘に刻まれた「国家安泰君臣豊楽」の銘文が問題となり、弁明の使・片桐旦元が結果的には徳川家の陰謀にはまって豊臣家から10月退去したのであるが、 家康にとってのこの契機が大阪攻めを決断させることになる。 大阪冬の陣である。 この戦いで大阪側に味方した大名は一人もおらず、味方は所領を失った関ヶ原の敗者のみである。 ところが徳川の総攻撃にもかかわらず落城する気配は無く、逆に真田幸村の巧みな防戦により豊臣方が勝っていたのであるが、大阪方からの講和申し出により豊臣家は命取りとなる。 1614年12月から翌年にかけて秀忠の指揮の下に大阪城の堀が全て埋められたのである。 淀殿は家康の要求を断固受け入れなかったことから5月になって本格的な戦い・大阪夏の陣が始まった。 このときは流石の真田幸村も奮闘するものの、数に勝る徳川連合軍におされて討死を遂げたのである。 燃え上がる大阪城から奇跡的に助け出された千姫が祖父家康のもとに辿りついたのは有名である。 やがて淀殿と秀頼は最後まで付き添ったわずかな近臣とともに自害した。 秀頼には二人の子がいたが、男子は捕らえられ六条河原で首をはねられたが女子は後に東慶寺の住持となった天秀尼である。 

         北の政所(正室)後に高台院1542-1624 
         ┃
近衛信輔(左大臣) ┃加賀局(前田利家娘)1572-1605
二条昭実(前関白)  ┃┃
  ┗ 豊臣秀吉(関白)1536-1598         姉川合戦:浅井、朝倉討伐
    ┃ ┃┃ ┃┣ 豊臣秀勝1570-1576    山崎合戦:明智光秀討伐
    ┃ ┃┃ ┃┣ 娘1571-1571            賤ケ岳合戦:柴田勝家討伐
     ┃ ┃┃ ┃南殿(山名善幸娘)
     ┃ ┃┃三の丸殿(信長九女) 
     ┃ ┃姫路殿(信長の弟信包の娘)
     ┃ ┣ 豊臣秀勝1569-1592(信長の四男で妻はお江与、子は茶々が養育)
     ┃ ┗ 豊臣秀次1568-1595(近江八幡城主)母は秀吉の姉・日秀 
    ┃        ┣-
     ┃    ┏一の台局(元秀吉の妾)-1595
     ┃     ┃  ┣ 美耶姫-1595
       ┃       ┃三条顕実
       ┃  菊亭晴季(右大臣)1539-1617   側室:おいちゃ
    ┃                               ┣奈阿姫1609-1645(天秀尼:千姫が養母)
        ┣ 豊臣鶴松1589-1591(3歳で病死)┣豊臣国松1608-1615(斬首)
     ┣ 豊臣秀頼1593-1615(大阪夏の陣で母と自害)
お市の方┃          ┃乳母は大蔵卿局 
   ┣ 淀君 茶々1569-1615   ┃   ┣ 大野治長
    ┃                       ┃   ┣ 大野治房 
    ┃                       ┃   大野佐渡守 
   ┣ お初1570-1633(常高院) ┃  
   ┃ ┣ 忠高              ┃
   ┃ 京極高次1563-1609    ┃
   ┣ お江1573-1626(崇源院) ┃
   ┃ ┃   ┣ 千姫  ━━┛
   ┃ ┃   ┣ 子々姫
   ┃ ┃   ┣ 勝姫
   ┃ ┃   ┣ 長丸
   ┃ ┃西郷局┣ 竹千代(家光)
   ┃ ┃ ┣徳川秀忠1579-1632
   ┃ ┃徳川家康1543-1616
   ┃ 佐治与九郎一成(母は信長の妹)
   ┣ 万福丸
┏ 浅井長政 武田孫八郎元明1552-1582(光秀に加担したとして自害) 
┃     ┣ 武若
┗ 姉マリア ┣ 俊丸
   ┣ 京極局(竜子)1557-1634 後に芳寿院
   ┣ 京極高次1563-1609
   近江源氏佐々木京極高吉

極楽橋             大阪城天守閣横の秀頼・淀殿自刃の地

 

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