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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

松永弾正久秀

2009年12月09日 | 戦国時代
 将軍・足利義輝を殺害し、晩年には織田信長に仕えた松永久秀1510-1577は、京から阿波にかけて勢力を誇った大名・三好氏の家臣であった。 出自は極めて不明で、三好家の京都駐在の家臣として歴史に登場したときには壮年を迎えていた。 主君・三好長慶の右筆から次第に頭角を現し、三好家の外交を担い、最終的には信貴山城を預けられて大和侵攻の先駆を務めるようになった。 大和は極めて統治しにくい国であり、興福寺・東大寺の荘園などの興福寺領が主な領地であったからだ。 鎌倉幕府も室町幕府も、守護を置くことは無かったこの土地で着々と勢力を拡張していた寺侍が筒井順昭であり、後に名を残す筒井順慶の父である。 羽柴秀吉と明智光秀が天王山の戦いを繰り広げていたとき、大和の大名であった筒井順慶は洞ヶ峠に布陣をして、両者の戦いをじっくり見ていたという。 ここから、日和見のことを洞ヶ峠などと言うのであるが、 実はこの故事は真実ではないらしい。 順慶は父に早くに先立たれたために、大和に乗り込んできた人物が松永久秀である。 かくして順慶は大和を追い出されて放浪のたびにでることとなった。 一方、久秀は順慶を大和から追い出して実質的な領主となり野望を抱くようになる。 主君・三好家を没落させて自分が大大名にあるという謀反である。 こうしたとき三好長慶の後継者である義興の突然死に始まり、長慶、三好一族が次々と怪死を遂げたのである。 こうして大和を手中に収めた松永久秀は居城の信貴山城を修復し、日本城郭史上初めて天守閣を作ったといわれている。 こうして野望を果たした久秀は次の野望を果たすことになる。 それは剣の達人でもあった室町13代将軍・足利義輝の暗殺である。 このとき二条城を襲った久秀に対して自ら剣をふるって応戦したものの多勢に無勢であったために義輝はついに斬られてしまった。 後に傀儡の将軍を立てて権勢を思いのままにしようと画策してしてが、久秀を襲った思いもかけない人物がいた。 それが織田信長である。 義輝の弟・足利義昭を奉じた信長が入京したときに久秀はあっさりと降伏し、このとき信長に仕えて三好家の残党狩などを行っている。 しかし上杉謙信が打倒織田信長を表明したと聞くや反旗を翻すのであるが、謙信の上洛はならず久秀は大和で孤立するのである。 このときに追い詰められた久秀に対して織田信長は天下の名茶器との交換条件で助命を言ってきたが、久秀は天守閣に火を放って死んでいる。 実は松永久秀の家臣には柳生一族の創始者である柳生宗厳がいる。 柳生宗矩の父であり柳生十兵衛こと三厳の祖父にあたる。  
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聖俳・松尾芭蕉忍者説

2009年11月28日 | 戦国時代

 松尾芭蕉忍者説はよく聞く話である。忍者発祥当時は”忍び”と呼び、場所によってその呼び方はまちまちである。 発祥は伊賀国及び近江国甲賀郡で、有力な守護がいなかったため国人の独立性が高く戦術・情報戦に長けた集団が生まれた。 これが忍びであり、上杉謙信が使っていたのが軒猿も忍び集団である。 徳川家康が正室・築山殿と嫡男・信康を殺したのは忍びの仕業とされ、後に家康は伊賀者を厚遇して公儀隠密を作った。 腹心であった服部半蔵正成の父は伊賀の出身で、伊賀同心の頭領に任じた。 彼らが後に警護した江戸城の半蔵門は服部半蔵から由来するが、徳川家が忍者集団を重視していたことが伺える。 ちなみに半蔵門は万一江戸城が陥落したときに脱出し天領である甲府城へ逃げるための甲州街道に直結している門である。 

 1487年、「鈎の陣」にて当時、幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、足利九代将軍義尚が六角氏を追って甲賀城を攻めた。足利将軍の権威をかけたこの戦いは将軍義尚が鈎の陣屋で1489年に死ぬまでの約3年間続き、甲賀忍者全国に知らしめる。1492年将軍職を継いだ足利義種が甲賀総攻撃を命じるが、佐々木六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢にまで落ち延びた。1568年織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまう。1581年信長は安土城に4万6千の大軍を集め、「天正伊賀の乱」を決行。佐々木氏の時代は去った。この裏では、徳川家康が動いていた。1558年甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名雇い入れた。信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれている。もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。「天正伊賀の乱」から8ヶ月後の1582年、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだ。信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになるのは1634年で、伊賀忍者たちの江戸移住よりおよそ50年程後になってからのことである。戦国の忍者たちは火術に長けていたことから鉄砲の名手も多く、江戸では鉄砲隊の職などで活躍していた。しかし、江戸幕府の身分制と世襲制の中で、忍術を伝える必要も学ぶ必要もなくなって、世代の交代と共に忍者は姿を消していく。 

 忍術の必要性が薄れると、危機感を抱いた伊賀の藤林長門守の子孫である藤林保武が1676年に忍術全集「萬川集海」を残した。 このとき伊賀出身の松尾芭蕉は33歳、江戸へ出て4年目のときである。体術に優れた忍者に必要なのが陰忍というのに対して、陽忍と呼ばれる忍者がいる。 若いころから敵国に潜入し学者・技術者としての技量を積み、情報収集を行う。 俳聖と呼ばれるまでに上り詰め、弟子の河合曾良を伴って東北へ旅だった松尾芭蕉は奥の細道を残したが、これは紀行本ではなく仙台藩の内部を記した報告書であるという見方もある。、「秋深き 隣は何を する人ぞ」は死の床に臥す直前に書いた句であり、「墓は木曾義仲の隣に」という遺言により、大津の義仲寺にある木曾義仲の墓の隣に葬られた。

 

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2代龍野藩主・脇坂安照の御涼所

2009年11月26日 | 戦国時代

 龍野公園内には脇坂公の上屋敷跡がある。 この屋敷跡には聚遠亭といって、江戸時代に後の播磨龍野9代城主・脇坂安宅(京都所司代時代には龍野でうすくち醤油の販路拡大を行い、老中となったあとに起きた桜田門外の変では井伊直弼の閣内にいた老中とともに辞任する)が孝明天皇から拝領し京から移築されたお茶室もあります。 毎年紅葉の季節になると、小京都とも言われている聚遠亭には多くの人で賑わいます。 さて、上屋敷の主である脇坂安照は、播磨龍野藩の初代藩主である脇坂安政の五男として江戸で生まれ、1672年に将軍・徳川家綱に拝謁し、長兄の安村が病弱だったことから父の隠居後は後を継ぎ、藩主となります。 1701年、浅野長矩が吉良義央を傷付けてしまうという刃傷事件が江戸城中で起こり、「赤穂事件」に発展していきます。 このとき、脇坂安照は浅野氏の居城である赤穂城受け取りの正使を務め、その後1年半の間、長矩に代わって永井直敬が赤穂藩主として赴任してくるまで、赤穂城の在番を務めています。 1709年には幽水と号し、長男・安清に家督を譲って隠居し、1722年安清の後を追うように65歳で龍野で死去します。 

脇坂安政1633-1694 
 ┣安村1656-1706(松平康映娘) 
 ┃┣京極高之室
 ┃┣娘
 ┃高木正盛娘
 ┣2安照1658-1722 
 ┃┣3安清1685-1722  
 ┃┣安利 ┗4安興-5安弘-6安実-7安親-8安童-9安宅
 ┃岡部直好娘
今井総十郎娘

 

 

 

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楠木正成の最後

2009年11月08日 | 戦国時代

 太平記での楠木正成は大忠臣である。 仏教の力によって守られているその子の幼名は多聞丸と名づけられた。 母親は仏界守護の四天王である多聞天に祈りを込めた。多聞天は別名毘沙門天ともいい武の神である。 上杉謙信が毘沙門天の熱烈な信者であったことは有名であるが、楠木正成も幼き頃は同様であったに違いないが、太平記で語られる正成は仏教の信者ではなく、怨霊信仰を否定する立場をとっている。 その楠木正成は、簡単に言えば、後醍醐天皇への絶対の忠誠を尽くすために勝ち目のない戦いに出て死んだ。 欠徳の後醍醐天皇には帝位を保つ可能性はなかったが、それでも正成は逃げずに討死したから大忠臣といえる。  太平記の正成兄弟の自決の場面は、「正成が腹を切ろうとして舎弟・正季と最後に、七たび生まれ変わっても朝敵を滅ぼす志を持とうぞ」 として兄弟ともに刺し違えて同じ枕に伏し、宗徒16人、従う兵五十余人は一度に腹を切ったという。 

  

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岡山藩初代藩主・池田光政

2009年11月05日 | 戦国時代

 池田光政・岡山藩主は池田輝政の孫にあたる。輝政は戦国末期に小牧長久手の合戦で活躍をするが、父・池田恒興と嫡男・元助が徳川勢に討ち取られたために池田家を継いだ。 後に豊臣秀吉が天下を取ると、仇同士の家康・輝政は和解をはかり、輝政は家康の次女・督姫を娶ると忠継、忠雄などの子女をもうけた。 一方、輝政の先妻・糸姫との間には嫡男・利隆がいたが、その利隆の子が池田光政である。 後に忠雄は鳥取藩祖、利隆は岡山藩祖となる。 督姫を母に持つ池田忠雄と糸姫を母に持つ池田利隆の系統は仲が悪く、あるとき忠継を池田家の後継にしようと督姫は利隆に毒を盛ろうとした。 しかしそれを知った侍女の密告により利隆は助かり、逆に計画を知らなかった督姫の息子・忠継が毒を煽って死んでしまい、悲観した督姫も毒を煽って後追い自殺したという。 没年が同じの督姫と忠継にはそんな逸話があるが真実のほどは定かではない。 池田輝政は今まで何度か取り上げたように姫路城を現在の天守閣のある見事な形に仕上げたことでも有名で、子孫は岡山城主として栄えたのである。 岡山初代藩主・池田光政は、先に紹介した水戸光圀などの朱子学信奉と違って、陽明学の信奉者であった。 両者とも儒教の一派であるが、朱子学は朱熹を創始者とするのに対して陽明学は王陽明を創始者とし実行力を伴う特徴がある。 陽明学の功績を残したとして著名な中江藤樹の高弟・熊沢蕃山を藩政に参画させたのが池田光政である。 そして今では国宝に指定されている閑谷学校(岡山備前)を造り、一般庶民に門戸を開いた。 備前・閑谷学校のすぐ西側に津田永忠屋敷跡があるが、津田氏1640-1707は14歳のとき藩主・池田光政に初めて拝謁し、取り立てられる。光政に才能を認められ、25歳で300石取りとなり藩政の最高評議機関である評定所に列座する。1670年には閑谷学校建設を任されている。 

閑谷学校の横にある津田永忠屋敷跡・黄葉亭

 

 ところで、池田光政の正妻・勝姫は千姫と本多忠刻との間に生まれた長女で、忠刻の死後、千姫は姫路城下の人々に惜しまれて10年間の姫路での生活に終止符を打つ。その後江戸城にはいり出家して天樹院と号した千姫とともに勝姫は二人で竹橋の邸で暮らす。 1628年に勝姫は池田光政に嫁いでいる。千姫が亡くなった際、娘・勝姫の子である奈阿姫は祖母・千姫の菩提を弔うために「浄土三部経」を書き写した。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃  ┣-   督姫1565-1615(家康次女)
 ┃┃┏━娘   ┣池田忠雄1602-1632
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代)
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┃┣池田政言1645-1700    ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃        ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)   
 ┃┃┃        ┃┃┣池田吉政1678-1695    
 ┃┃┃        ┃┃千子(丹羽光重娘)    
 ┃┃┃        ┃┣奈阿姫   
 ┃┃┃        ┃勝姫(本多忠刻娘)   
 ┃┃┃        ┣池田恒元1611-1671   
 ┃┃┃     柳原康政娘・鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
   1510-1551 ┃  ┣登久姫                 毛利輝元娘
        ┃  ┃  ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
       ┃  ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
       ┃  ┃    ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
      ┗織田信長 1534-1582

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ねねの廟所・高台寺

2009年10月25日 | 戦国時代

 ”ねね” とはもちろん豊臣秀吉の正妻・北政所のことであるが、高台寺を建立したのはこのねね殿である。 出家後の高台院からその寺名はきている。 実は高台寺のすぐ近くに豊国廟があり、阿弥陀ヶ峰の山頂、約500段にも及ぶ石段を登ったところにある豊臣秀吉の墓である。秀吉亡き後豊臣政権は長続きをせず、大阪夏の陣で遺児・秀頼と淀殿の自害によって豊臣氏は滅亡し、豊国廟も荒廃していったという。 秀吉亡き後の高台院26年間の人生は苦悩に満ちていたものだったらしい。 豊国廟への山道を通い続けて菩提を弔い、出家後高台院と称して後半生をひっそりと過ごした寺が高台寺なのである。 平成10年には秀吉400年を記念して現在のねねの道が整備されて観光地として人気の高い場所となっている。 秀吉が眠る阿弥陀が峰に近い閑静な場所を高台院は探していたが、高台寺のある場所にはもともと別の寺があり、徳川家康が助力をしてその寺を立ち退かせて土地を手に入れるようにはからっている。 高台寺の建設には秀吉子飼の武将である福島正則、加藤清正、浅野長政が推進し、1606年に完成した。家康はねねに大変好意的で、ねねも家康を支持していた。 秀吉子飼の家臣がねねにも仕えていたことから、家康にとってねねは大きな存在であった。 高台寺の建立には秀吉が晩年をすごした壮大な伏見城の建物を移築している。 高台寺の表門には加藤清正が寄進した伏見城の薬医門が使われ方丈にも伏見城の一部が使われている。 ねねが亡くなるまで住まいとした建物は、伏見城で日常的に使っていた化粧御殿と呼ばれる豪華な建物であったという。 

 26歳の百姓の子・秀吉が12歳年下の足軽の娘に恋をして求婚を受け入れられたのは前田利家の助力があったといわれている。 政略結婚があたりまえの時代にあって、秀吉とねねは恋愛結婚であった。 しかし秀吉の死後は大阪城から退却し、大阪城には伏見城から淀殿と秀頼が移り、豊臣家の後継者である秀頼を生んだ淀殿の力は大きくなっていく一方で、正室でありながら自分の地位を明け渡したねねは寺領5百石の大寺に移った。高台寺の方丈には本尊の釈迦如来像が安置され、秀吉とねねの位牌がおかれている。 秀吉は豊国社に祀られていたが、徳川家康が政権をにぎると豊国社に対して破却命令をだして廟墓を別の場所に移すというものであった。 この命令にねねは二条城に駆けつけて家康に直訴したという。 豊国社全体の破却は免れたが、残った建物は朽ち果てることとなる。 静かな余生を過ごしたいと願っていたねねにとっては衝撃的で、苦悩は続く。 こうした苦悩を和らげていた思われる茶室が境内にはある。 傘亭と時雨亭である。 どちらも桃山時代の千利休好みのもので伏見城からそっくりそのまま移築させたらしい。 ねねは大阪夏の陣ではここ時雨亭から大阪を眺めて、大阪城の落城を知り涙ぐんでいたという。 

 時雨亭・傘亭から石段を降りたところに霊屋というお堂があり、ここはねねが眠る廟所になっている。 内陣の須弥壇の左右に秀吉とねねの坐像が置かれ、その下の棺にねねの遺骸が葬られている。 そして霊屋の内陣は金色の蒔絵で荘厳され、高台寺蒔絵と呼ばれる桃山時代を代表するものである。ねねは、この蒔絵が気に入り自分の廟所と定めた霊屋を蒔絵で飾ったのである。 晩年病気がちであったねねは1624年に眠るように化粧御殿で息をひきとった。現在の高台寺の塔頭である園徳院のあたりにあった化粧御殿は焼失していて存在しない。 園徳院は高台寺前のねねの道に面したところにあり、当時の面影として枯山水の庭だけが残っている。 高台寺は権力や威光を放つのではなく、ひっそりと佇み人の気持ちを和ませてくれる寺なのである。

    

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会津藩主・松平容保

2009年10月18日 | 戦国時代

 松平容保といえば、京都守護職として新撰組を率いた人物である。 松平容保は美濃高須藩主松平義建の六男として生まれたが、会津藩松平家の養子となった。 会津藩の家格は実家よりもずっと上の23万石であるから幸運といえる。 しかも養父の死とともに18歳の若さで会津藩主となったのである。 その翌年、黒船来航という事件が起こり、この脅威から国を守るのに徳川幕府では役に立たない、天皇家を中心とした新しい政府を作る必要があるという討幕運動が起こる。 中心となったのは関ヶ原の戦いの敗者である長州藩 毛利家であった。 こうして京都の天皇のもとには勤王の志士たちが続々とあつまり、攘夷を唱え様々なテロ活動を繰り広げたことから京都の治安は乱れた。 そこで幕府は京都の治安を回復し天皇家を守るために京都守護職を設立して松平容保を抜擢したのである。 徳川家の名門であり武勇を重んじる会津藩主・松平容保ではあったが、守護職は本来徳川将軍家の役目であり、最初は固辞していた。 しかしとうとう幕閣の要職にあった一橋慶喜らにより口説き落とされ、松平容保はやむを得ず藩兵を率いて入京すると、黒谷の金戒光明寺に本陣を構えたのである。 こうした中、江戸で集められ供与に入った攘夷浪人たちが幕府のためにと、会津藩に願い出てきた。 近藤勇、土方歳三をリーダーとした新撰組がそれである。 ところが、新撰組の働き・忠義は勤王の志士たちの憎しみを集中させる結果を招いた。 時の孝明天皇は松平容保を篤く信頼し、倒幕などは考えていなかった。 1863年、長州藩が天皇を担いでクーデターを起こそうとしたときも、松平容保は薩摩藩と連携をとり未然に防ぎ、孝明天皇は松平容保に直筆の礼状を与えたという。  ところが状況は孝明天皇の不可解な崩御によって急展開することとなる。 孝明天皇の後継者である明治天皇は討幕派を支持し、同志と思っていた薩摩藩は坂本竜馬の仲介により長州藩と同盟を結んだことから、天皇より倒幕の密勅が発せられた。 このとき徳川将軍は15代慶喜である。 慶喜は勤王家である水戸徳川家の出身である。 天皇の命令で進軍してくる薩長藩と戦えば、朝敵となってしまうことから、大阪城から江戸城へと逃亡をはかったのである。 これによって、江戸城無血開城が実現したともいえるのである。 慶喜の降伏によって薩長藩の矛先は京都で勤王の志士を散々殺した松平容保に向けられた。 もはや松平容保には戦意はなかったが、官軍は松平容保を許さず、その本拠地である会津の地に攻め入ったのである。 このとき藩を守るために結成されたのが白虎隊である。 官軍は容赦なく攻め入り、多くの藩士が殺され、妻娘は自害した。 このときの黒煙を見た白虎隊は、城が落ちたと勘違いして次々と自刃したのである。 松平容保からすれば徳川の命令で京都守護職となり、勤王の志士を制圧することで京都の治安を守ってきたが、孝明から明治天皇へ変わったことで、攘夷から倒幕の波にかきまわされ、徳川家に裏切られたかたちとなった。 松平容保は孝明天皇から与えられた直筆の礼状を死ぬまで首からさげていたという。

金戒光明寺にある三重塔の周りには会津藩兵の墓が広がっています

  

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北の政所・ねね

2009年10月17日 | 戦国時代

 北の政所1542-1624は豊臣秀吉の正室で木下家定の妹である。 母・朝日の反対をおしきって14歳で嫁ぐ。 当時としては珍しく恋愛により結ばれたが、2人の間には子供が無かったために、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として数多く養育し、中でも加藤清正と福島正則は有名である。 北の政所と称されるようになったのは秀吉が関白に任官したことで従三位に叙せられたときである。 関白の妻として、朝廷との交渉や人質として集められた諸大名の妻子を監督するなどの役割を担った。 1588年、後陽成天皇が聚楽第に行幸したときには従一位に叙されている。 1598年に秀吉が没すると、淀殿とともに秀頼の後見にあたり、1599年徳川家康が大阪城西の丸にはいったことで北の政所は西の丸を退去し現在の仙洞御所である京都新城に移った。 関ヶ原の戦い後に京都新城が破却されると祇園に隠棲し、秀吉から与えられていた大名並みの1万5000石にものぼる広大な領地は化粧料として引き続き安堵されている。 1603年、養母の死と秀吉の遺言であった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾し高台院と称した。

【京都新城】

2020年5月に発掘調査が行われ、その実態が明らかになろうとしている。豊臣秀吉が晩年(死の1年前)に京都に築いた城である。

1584年 羽柴秀吉は従五位下 左近衛権少将:殿上を許される位 

1585年 関白 豊臣の氏を朝廷から賜る 驚嘆した 

    授姓政策--羽柴の名をばらまく:羽柴を家臣に与える

    羽柴武蔵大納言:徳川家康 羽柴安芸中納言:毛利輝元 羽柴筑前宰相:小早川隆景

    疑似的連帯感

    後継者、養子としたのは 秀勝:信長4男 秀勝:甥 達子:浅井長政娘 秀俊:小早川秀秋 宇喜多秀家 豪姫:前田利家娘

                秀康:家康次男 六の宮:八条宮智仁親王

1589年 淀殿が鶴松を産む 

1590年 北条氏滅亡 天下統一

1591年 1月:秀吉の弟秀長死去 2月:千利休切腹 8月:鶴松夭折

    秀次を養子 関白職を譲る 聚楽邸建造

1592年 5月:海外制覇 文禄・慶長の役 明を征服する目的

1593年 淀殿が懐妊 幼名:拾:秀頼

    秀次の娘と秀頼を婚約させる  

1594年 秀吉病床につくと一変

1595年 7/3:秀次謀反の罪 7/8:関白剥奪、高野山に追放 7/15:切腹 菩提寺は京都・瑞泉寺 秀次一族39名が三条河原で処刑

    聚楽第破壊(堀を固めていた?) 秀頼を正統な後継者にする

    秀次に嫁いだ大名の娘を処刑

1597年 4月 秀頼に対する事業継承 : 京都御苑南東に京都新城(400x800m) 元々は土御門第跡:藤原道長966-1028

                   石田三成が工事  

                   遺物:金箔瓦@仙洞御所内 菊、五七の桐の紋様:公家の権威  

    4月 秀頼京都新城に入城 従二位 権中納言@6歳               

    5月 秀吉発病 大阪城強化:障子彫り 秀頼の居城とする 武家の棟梁

    8月 遺言 8/18死去 

 

 ねね像@有馬温泉

火山がない温泉地--火山灰の心配なし--都として繁栄

秀吉がリゾート開発@1596

湯本坂は元々は川

金の湯 :有馬の中心

炭酸水 :炭酸煎餅 緒方洪庵の息子で医者が推薦

天神源泉 :豊富なカルシウムによりパイプ交換は週に1回

600万年ものの湯

御所坊@1191創業で最古 元々温泉管理 御所の由来は足利義満

15世紀の蓮如時代には御所確立

有馬六景

山椒(みかん科)の産地

有馬三恩人 秀吉 行基 仁西上人 

三羽ガラス : 有馬温泉発見--傷ついた烏が癒しているのを見た神様

温泉寺 行基創健@724 僧侶は行基菩薩 病人が薬師如来に化身

仁西上人 :熊野権現からのお告げで有馬を再興 温泉寺を改修して薬師堂 十二宿坊@平安末期

川上商店 :川上村のお連れの子孫@1191 明治期には宿屋+佃煮+その他 松茸昆布の元祖

秀吉 :入浴@1580 三木城開城 太閤の湯殿館に岩風呂遺跡

 

 

  

 時の右大臣菊亭晴季の娘・一の台局は三条顕実に嫁いで美耶姫をもうけたが顕実と死に別れて秀吉の妾になっていた。 もちろん政略結婚であり菊亭晴季は秀吉の関白昇進に骨を折り、自らも右大臣となった。 その頃に秀吉の側室となって現れたのが茶々である。 ゆうまでもなく茶々の母・お市の方の遺言により織田と浅井の血を残すべく秀吉に嫁いだのである。 豊臣秀吉の血を残すためではなかった。   茶々と同様に秀吉の側室になりながら秀吉を恨んでいる人に京極局がいる。 京極局こと竜子は浅井長政の姉・京極マリアと近江源氏の佐々木高吉との間に生まれ、武田元明と結婚したが、その美貌に目をつけていた秀吉は 元明が明智光秀に加担して秀吉を攻めたとして謀殺し、妻を奪ったのである。 竜子の兄に京極高次がおり、茶々の妹・お初と結婚している。 高次は本能寺の変のとき光秀に味方して長浜城攻めに加わり失敗すると秀吉に追われることとなる。 しかし竜子の取立てにより罪を免れて一万石の城主にまでなっている。 茶々はそんな竜子を唯一の味方と考えていた。  聚楽第では公家と武家の合同歌会や、後陽成天皇の行幸が行われ、秀吉が天皇の代理として天下を統率することが公認されたのであるが、これは一の台局の父・晴季の功績といってよい。 そんな父を称えるように秀吉は一の台局を労うと、一の台局は茶々の鋭い視線を感じた。 一の台局は側室ではあるが、ほとんど秀吉の相手をしていない。 20歳も年の離れた秀吉に抱かれたいなどと思うこともなかったが・・・。  茶々は母お市の方のような絶世の美人ではなかったが秀吉は寵愛した。 一の台局も京極局も華奢な体つきであったが茶々は父親似の大柄で豊満である。 小柄な秀吉はそういう 豊満な茶々に惹かれたのである。 しばらくして茶々が身篭ったことに秀吉は狂気して喜んだという。 というもの秀吉には南殿との間に秀勝という男子がいたが、7歳でなくなった。 以来子供に恵まれることはなく、その後養子の何人かに秀勝の名を与えていることから余程最初の男子をかわいがったようである。 それから12年、待ちに待っていた男子が誕生したから狂喜したのも無理はない。  懐妊の噂は一の台局の耳にもはいった。 秀吉に子胤がないと経験から確信を持っていた一の台局は、茶々の秀吉に対する復讐ではないだろうかと感じた。 1589年5月、茶々は淀城で鶴松を産んだのである。  鶴松誕生の宴が聚楽第で催されたとき、一の台局は侍女の楓が言った「茶々は他の子胤を宿したのでは・・」という言葉を思い出しながら落ち着かなかった。 このとき近江八幡城主の秀次も出席しており、こともあろうにその夜二人は情事に耽った。 翌日、一の台局は秀吉から二度目の暇を告げられている。 侍女の楓は秀吉の動きを探るために家康の腹心・本多正信が送った密偵であり、秀次との情事を正信に報告していたのである。  鶴松4ヶ月のときに、秀吉につれられ大阪城へくると北の政所や大政所と対面したが、その顔は秀吉にそっくりで、一の台局と同じような疑問を抱いていた一同はまぎれもない嫡子であると思ったようである。  1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。 7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。 奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。  翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。  1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。 その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 1593年、淀君は男子を産んだ。 捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。 秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。  秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。 秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。  秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。 そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。 秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。  その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。 また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。 考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。 一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。  秀次が亡くなった後の秀吉は、自分を見失うかのように秀頼を寵愛し、体調を崩していった。 いよいよ家康が長年の我慢の成果がでてきた。 明智光秀征伐を秀吉に許したばかりに、天下取りの先を越された家康は、この日を待っていた。 秀吉が62歳で亡くなると、尾張出身の加藤清正、福島正則を推す北政所と、近江出身の石田三成、長束正家を推す淀殿との対立は周知のこととなるが、家康は尾張勢に接近することとなる。 北政所の淀殿も家康が次の担い手であることは認めていたが、淀殿は三成によって家康を阻み、秀頼の安泰を図り、北政所は家康に飛び込むことにより豊臣家の永続を考えていた。   淀殿は石田三成の忠誠に心強く思うが、家康の勢力に勝てるはずもなかったが、前田利家の秀頼に対する忠義により、豊臣家と家康はかろうじて均衡を保っていた。 ところが前田利家の病死により一気に展開が変わるのである。 三成が昵懇にしている常陸水戸城主 佐竹義宣が火急を告げてきた。 加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の七将が三成襲撃を企てているというのである。 このとき三成は家康のふところに飛び込むと、家康は保護し、息子の結城秀康の警護の元、近江佐和山城へ送り届け、石田三成の地位は失墜し発言権もなくなった。 徳川家康は伏見城から大阪城へ入城して政務を指揮することとなった。  石田三成が挙兵したのはそれから1年半後のことである。天下分け目の関ヶ原の合戦である。 結局、小早川秀秋の寝返りにより家康側の勝利となると、家康は大阪城に入り、淀殿と秀頼親子と会見を持ち、危害は加えない旨を伝えた。 家康の孫・千姫7歳が大阪城に入り、秀頼11歳と結婚の儀をかわしたのは、それから3年後のことである。 家康は征夷大将軍となり、秀頼は内大臣が約束され、家康の孫・千姫が嫁になったことで、淀殿は、秀頼が成人すればいずれは天下を譲ってくれるのではないかとの望みを捨てきれないでいたのであるが、家康は征夷大将軍を辞し、秀忠に譲ると徳川家の世襲として代々天下の政権を握ることを表明した。 千姫が嫁いできたことによって秀頼の将来が保証されたと思い込んでいた淀殿は衝撃を覚えた。 それ以降、淀殿は鬱状態になり暗雲立ち込めるようになる。

        北の政所(正室)後に高台院1542-1624 
         ┃
近衛信輔(左大臣) ┃加賀局(前田利家娘)1572-1605
二条昭実(前関白)  ┃┃
  ┗ 豊臣秀吉(関白)1536-1598         姉川合戦:浅井、朝倉討伐
    ┃ ┃┃ ┃┣ 豊臣秀勝1570-1576    山崎合戦:明智光秀討伐
    ┃ ┃┃ ┃┣ 娘1571-1571            賤ケ岳合戦:柴田勝家討伐
     ┃ ┃┃ ┃南殿(山名善幸娘)
     ┃ ┃┃三の丸殿(信長九女) 
     ┃ ┃姫路殿(信長の弟信包の娘)
     ┃ ┣ 豊臣秀勝1569-1592(信長の四男で妻はお江与、子は茶々が養育)
     ┃ ┗ 豊臣秀次1568-1595(近江八幡城主)母は秀吉の姉・日秀 
    ┃        ┣-
     ┃    ┏一の台局(元秀吉の妾)-1595
     ┃     ┃  ┣ 美耶姫-1595
       ┃       ┃三条顕実
       ┃  菊亭晴季(右大臣)1539-1617   側室:おいちゃ
    ┃                               ┣奈阿姫1609-1645(天秀尼:千姫が養母)
        ┣ 豊臣鶴松1589-1591(3歳で病死)┣豊臣国松1608-1615(斬首)
     ┣ 豊臣秀頼1593-1615(大阪夏の陣で母と自害)
お市の方┃          ┃乳母は大蔵卿局 
   ┣ 淀君 茶々1569-1615   ┃   ┣ 大野治長
    ┃                       ┃   ┣ 大野治房 
    ┃                       ┃   大野佐渡守 
   ┣ お初1570-1633(常高院) ┃  
   ┃ ┣ 忠高              ┃
   ┃ 京極高次1563-1609    ┃
   ┣ お江1573-1626(崇源院) ┃
   ┃ ┃   ┣ 千姫  ━━┛
   ┃ ┃   ┣ 子々姫
   ┃ ┃   ┣ 勝姫
   ┃ ┃   ┣ 長丸
   ┃ ┃西郷局┣ 竹千代(家光)
   ┃ ┃ ┣徳川秀忠1579-1632
   ┃ ┃徳川家康1543-1616
   ┃ 佐治与九郎一成(母は信長の妹)
   ┣ 万福丸
┏ 浅井長政 武田孫八郎元明1552-1582(光秀に加担したとして自害) 
┃     ┣ 武若
┗ 姉マリア ┣ 俊丸
   ┣ 京極局(竜子)1557-1634 後に芳寿院
   ┣ 京極高次1563-1609
   近江源氏佐々木京極高吉

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秀吉がかわいがった宇喜多秀家

2009年10月13日 | 戦国時代

 宇喜多秀家1572-1655は備前の大名・宇喜多直家1529-1582の嫡子として生まれた。 直家は戦国大名の中でも権謀術数の達人で、始めは毛利家に味方をしていたが織田信長の勢力が強まるに連れて織田家に乗り換えることとした。 当時の織田軍中国方面司令官は羽柴秀吉である。 秀吉とともに 毛利戦を演じていたが病に倒れ宇喜田家の行く末を秀吉に託したのである。 当時10歳の嫡男・秀家に、織田信長は難色を示したが秀吉が後見をするという条件で信長を説得する。 秀家の母は備前一の美女といわれた女性で円融院1549-といい、一時は秀吉の側室であったという説もあるが定かではない。 秀吉には秀次、秀秋などの養子が何人かいたが、優秀なのは秀家のみであったということもあって秀家を特にかわいがったという。 秀吉には養女もたくさんいて、そのうち最もかわいがっていた前田利家4女・豪姫を秀家の妻としている。 秀吉の晩年には、秀家を五大老の一人に抜擢するほど頼りにしていた。 残りの五大老は徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といったそうそうたるメンバーである。 秀吉の死後1600年に起こった関ヶ原の戦いでは、宇喜田秀家は石田三成側の西軍についた。西軍の中核である宇喜田秀家勢の奮闘により始めは西軍の優勢状態が続いた。 とこるが、多くの武将が日和見状況の中、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢が宇喜田秀家勢に襲い掛かったのである。 これをみた日和見勢も西軍に襲い掛かったことから、この合戦は一気に勝敗がきまった。 宇喜田秀家は小早川秀秋に対して激怒し、単騎敵陣に突っ込もうとしたが家来に制止されて落ちたという。 小早川秀秋は秀吉の甥であり、一時秀吉の養子になっていた男である。 養子でもない自分が秀頼のために家康を討つべく戦っているのに、秀秋が裏切るとは何事だ!という怒りである。 

 関ヶ原の戦いに敗れた宇喜田秀家は領国、岡山城は取り上げられ大名としての宇喜田家は滅び、 新しく岡山城の城主となったのは皮肉にも小早川秀秋であった。 宇喜田秀家は薩摩の島津家を頼って潜伏していたが、徳川の天下が確立すると、秀家を匿いきれなくなり、島津の当主・家久は秀家夫人・豪姫の実家である前田家の当主・利長と相談して自訴助命嘆願をすることとなった。 これにより秀家は息子とともに八丈島に流罪となり、最愛の夫人・豪姫とは二度と再会することなく在島50年の永木に渡る生涯を終えた。 

宇喜田直家1529-1582
 ┣三浦桃寿丸?-1584
 ┣宇喜田秀家1572-1655(八丈島に配流)
 ┃ ┣秀高1598-1641
 ┃ ┣秀継高1599-1657
 ┃ ┣娘
 ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
 ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
  ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女) 
  ┣忠家1533-1609
  ┣春家?
円融院1549-?(三浦氏) 

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開国の鬼・井伊直弼

2009年10月11日 | 戦国時代

 井伊直弼1815-1860は彦根藩の11代藩主・井伊直中の14男として生まれた。 14男ということは、母は側室であり、彦根藩の家督を継ぐことなど不可能である。 したがって生涯部屋住みとして井伊家の厄介者としての覚悟を決めていた。 ところが32歳のときに転機は訪れるのである。 兄弟が他家へでて、井伊家には直弼しか残っていなかったときに本家の正式な後継者となっていた兄。直元が病死したのである。しかも直元には子がいなかった。 そして井伊直弼は厄介者から一気に殿様となった。 そして4年後には彦根藩主である兄・直亮が亡くなったために彦根藩主の座に就くこととなった。 井伊直弼36歳のときである。 ところが彦根藩の家督を継いだことが運命を大きく変えた。 3年後の1853年にペリーの黒船来航という大事件が起こり日本は完全な無防備状態となったことで、西洋文明の長所を学び対等に戦えるようにするために鎖国を解いて開国する道を選ぶこととなる。 当時の日本は極めて排他的で外国人 排斥論が一世を風靡していた。 攘夷論であるが何一つ具体的な方法論はなく、こうした中で井伊直弼は政治家として開国の論を展開したのである。 しかし防衛論の総本山ともいうべき水戸藩主・徳川斉昭は開国を非難し、開国に批判的な大名を糾合して幕藩体制批判の急先鋒となった。 13代将軍家定は病弱であったため後継者としては一橋家に養子に入って当主となっていた斉昭の子・徳川慶喜が浮上していた。 ここで慶喜が14代将軍になれば幕府は水戸の支配するところとなり攘夷に走ってしまう。 井伊家は酒井、本多、榊原と並んで徳川四天王といわれた譜代大名の名門である。 慶喜を将軍後継候補から排除し、大老になることで幕政に異を唱える攘夷論者を排除した。 御三家の徳川斉昭を謹慎処分とし、攘夷論者であった孝明天皇すら無視して多数の人間を処分したのである。 斬罪に処せられたものに吉田松陰や橋本佐内らがいる。 吉田松陰は元々開国論者であり同志であるはずであるが、これは井伊直弼の行き過ぎ・欠陥であった。 そしてついに水戸脱藩浪士を中心とした一団は井伊直弼の暗殺を謀ったのである。 1860年の桜田門外の変がそれである。 

彦根城と井伊直弼像 

 

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豊臣秀頼・供養塔

2009年08月21日 | 戦国時代

 時の右大臣菊亭晴季の娘・一の台局は三条顕実に嫁いで美耶姫をもうけたが顕実と死に別れて秀吉の妾になっていた。 もちろん政略結婚であり菊亭晴季は秀吉の関白昇進に骨を折り、自らも右大臣となった。 その頃に秀吉の側室となって現れたのが茶々である。 ゆうまでもなく茶々の母・お市の方の遺言により織田と浅井の血を残すべく秀吉に嫁いだのである。 豊臣秀吉の血を残すためではなかった。   茶々と同様に秀吉の側室になりながら秀吉を恨んでいる人に京極局がいる。 京極局こと竜子は浅井長政の姉・京極マリアと近江源氏の佐々木高吉との間に生まれ、武田元明と結婚したが、その美貌に目をつけていた秀吉は 元明が明智光秀に加担して秀吉を攻めたとして謀殺し、妻を奪ったのである。 竜子の兄に京極高次がおり、茶々の妹・お初と結婚している。 高次は本能寺の変のとき光秀に味方して長浜城攻めに加わり失敗すると秀吉に追われることとなる。 しかし竜子の取立てにより罪を免れて一万石の城主にまでなっている。 茶々はそんな竜子を唯一の味方と考えていた。  聚楽第では公家と武家の合同歌会や、後陽成天皇の行幸が行われ、秀吉が天皇の代理として天下を統率することが公認されたのであるが、これは一の台局の父・晴季の功績といってよい。 そんな父を称えるように秀吉は一の台局を労うと、一の台局は茶々の鋭い視線を感じた。 一の台局は側室ではあるが、ほとんど秀吉の相手をしていない。 20歳も年の離れた秀吉に抱かれたいなどと思うこともなかったが・・・。  茶々は母お市の方のような絶世の美人ではなかったが秀吉は寵愛した。 一の台局も京極局も華奢な体つきであったが茶々は父親似の大柄で豊満である。 小柄な秀吉はそういう 豊満な茶々に惹かれたのである。 しばらくして茶々が身篭ったことに秀吉は狂気して喜んだという。 というもの秀吉には南殿との間に秀勝という男子がいたが、7歳でなくなった。 以来子供に恵まれることはなく、その後養子の何人かに秀勝の名を与えていることから余程最初の男子をかわいがったようである。 それから12年、待ちに待っていた男子が誕生したから狂喜したのも無理はない。  懐妊の噂は一の台局の耳にもはいった。 秀吉に子胤がないと経験から確信を持っていた一の台局は、茶々の秀吉に対する復讐ではないだろうかと感じた。 1589年5月、茶々は淀城で鶴松を産んだのである。  鶴松誕生の宴が聚楽第で催されたとき、一の台局は侍女の楓が言った「茶々は他の子胤を宿したのでは・・」という言葉を思い出しながら落ち着かなかった。 このとき近江八幡城主の秀次も出席しており、こともあろうにその夜二人は情事に耽った。 翌日、一の台局は秀吉から二度目の暇を告げられている。 侍女の楓は秀吉の動きを探るために家康の腹心・本多正信が送った密偵であり、秀次との情事を正信に報告していたのである。  鶴松4ヶ月のときに、秀吉につれられ大阪城へくると北の政所や大政所と対面したが、その顔は秀吉にそっくりで、一の台局と同じような疑問を抱いていた一同はまぎれもない嫡子であると思ったようである。  1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。 7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。 奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。  翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。  1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。 その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 1593年、淀君は男子を産んだ。 捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。 秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。  秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。 秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。  秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。 そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。 秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。  その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。 また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。 考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。 一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。  秀次が亡くなった後の秀吉は、自分を見失うかのように秀頼を寵愛し、体調を崩していった。 いよいよ家康が長年の我慢の成果がでてきた。 明智光秀征伐を秀吉に許したばかりに、天下取りの先を越された家康は、この日を待っていた。 秀吉が62歳で亡くなると、尾張出身の加藤清正、福島正則を推す北政所と、近江出身の石田三成、長束正家を推す淀殿との対立は周知のこととなるが、家康は尾張勢に接近することとなる。 北政所の淀殿も家康が次の担い手であることは認めていたが、淀殿は三成によって家康を阻み、秀頼の安泰を図り、北政所は家康に飛び込むことにより豊臣家の永続を考えていた。   淀殿は石田三成の忠誠に心強く思うが、家康の勢力に勝てるはずもなかったが、前田利家の秀頼に対する忠義により、豊臣家と家康はかろうじて均衡を保っていた。 ところが前田利家の病死により一気に展開が変わるのである。 三成が昵懇にしている常陸水戸城主 佐竹義宣が火急を告げてきた。 加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の七将が三成襲撃を企てているというのである。 このとき三成は家康のふところに飛び込むと、家康は保護し、息子の結城秀康の警護の元、近江佐和山城へ送り届け、石田三成の地位は失墜し発言権もなくなった。 徳川家康は伏見城から大阪城へ入城して政務を指揮することとなった。  石田三成が挙兵したのはそれから1年半後のことである。天下分け目の関ヶ原の合戦である。 結局、小早川秀秋の寝返りにより家康側の勝利となると、家康は大阪城に入り、淀殿と秀頼親子と会見を持ち、危害は加えない旨を伝えた。 家康の孫・千姫7歳が大阪城に入り、秀頼11歳と結婚の儀をかわしたのは、それから3年後のことである。 家康は征夷大将軍となり、秀頼は内大臣が約束され、家康の孫・千姫が嫁になったことで、淀殿は、秀頼が成人すればいずれは天下を譲ってくれるのではないかとの望みを捨てきれないでいたのであるが、家康は征夷大将軍を辞し、秀忠に譲ると徳川家の世襲として代々天下の政権を握ることを表明した。 千姫が嫁いできたことによって秀頼の将来が保証されたと思い込んでいた淀殿は衝撃を覚えた。 それ以降、淀殿は鬱状態になり暗雲立ち込めるようになる。 

         北の政所(正室)後に高台院1542-1624 
         ┃
近衛信輔(左大臣) ┃加賀局(前田利家娘)1572-1605
二条昭実(前関白)  ┃┃
  ┗ 豊臣秀吉(関白)1536-1598         姉川合戦:浅井、朝倉討伐
    ┃ ┃┃ ┃┣ 豊臣秀勝1570-1576    山崎合戦:明智光秀討伐
    ┃ ┃┃ ┃┣ 娘1571-1571            賤ケ岳合戦:柴田勝家討伐
     ┃ ┃┃ ┃南殿(山名善幸娘)
     ┃ ┃┃三の丸殿(信長九女) 
     ┃ ┃姫路殿(信長の弟信包の娘)
     ┃ ┣ 豊臣秀勝1569-1592(信長の四男で妻はお江与、子は茶々が養育)
     ┃ ┗ 豊臣秀次1568-1595(近江八幡城主)母は秀吉の姉・日秀 
    ┃        ┣-
     ┃    ┏一の台局(元秀吉の妾)-1595
     ┃     ┃  ┣ 美耶姫-1595
       ┃       ┃三条顕実
       ┃  菊亭晴季(右大臣)1539-1617   側室:おいちゃ
    ┃                               ┣奈阿姫1609-1645(天秀尼:千姫が養母)
        ┣ 豊臣鶴松1589-1591(3歳で病死)┣豊臣国松1608-1615(斬首)
     ┣ 豊臣秀頼1593-1615(大阪夏の陣で母と自害)
お市の方┃          ┃乳母は大蔵卿局 
   ┣ 淀君 茶々1569-1615   ┃   ┣ 大野治長
    ┃                       ┃   ┣ 大野治房 
    ┃                       ┃   大野佐渡守 
   ┣ お初1570-1633(常高院) ┃  
   ┃ ┣ 忠高              ┃
   ┃ 京極高次1563-1609    ┃
   ┣ お江1573-1626(崇源院) ┃
   ┃ ┃   ┣ 千姫  ━━┛
   ┃ ┃   ┣ 子々姫
   ┃ ┃   ┣ 勝姫
   ┃ ┃   ┣ 長丸
   ┃ ┃西郷局┣ 竹千代(家光)
   ┃ ┃ ┣徳川秀忠1579-1632
   ┃ ┃徳川家康1543-1616
   ┃ 佐治与九郎一成(母は信長の妹)
   ┣ 万福丸
┏ 浅井長政 武田孫八郎元明1552-1582(光秀に加担したとして自害) 
┃     ┣ 武若
┗ 姉マリア ┣ 俊丸
   ┣ 京極局(竜子)1557-1634 後に芳寿院
   ┣ 京極高次1563-1609
   近江源氏佐々木京極高吉

嵯峨野・清涼寺にある供養塔

 

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備中松山城主・池田長幸

2009年07月26日 | 戦国時代

 池田長幸は、鳥取藩の第2代藩主で備中松山藩の初代藩主である。 父は池田輝政の弟で、鳥取藩の初代藩主・池田長吉。 正室は森忠政の娘・松子、継室は森忠政の娘・宮子。1614年に父の死去により後を継ぎ、1617年に6万5,000石で、鳥取から備中松山へ移封され城主となった。 備中松山城は現存する天守閣を持つ12城のひとつで唯一の山城である。 麓の高梁城下町でそばを食べながら散策をしたあと登頂しようと思っていたのですが生憎豪雨という天候のために登頂は断念。 本丸最寄の駐車場から約30分の徒歩なのですが快晴であっても険しい道のりらしく、真夏ではなく初秋の季節がよさそうです。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃   ┣-督姫(家康次女)
 ┃┃┏━━娘 ┣池田忠雄1602-1632
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代)
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┣池田恒元1611-1671     ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃     柳原康政娘・鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
1510-1551    ┃  ┣登久姫                  毛利輝元娘
    ┃          ┃  ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
   ┃          ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
   ┃          ┃     ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
  ┗織 田 信 長1534-1582

 

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吉子内親王墓

2009年07月13日 | 戦国時代

 知恩院の東の奥の墓地内で偶然見つけたのは吉子内親王1714-1758のお墓です。 霊元法皇の第十三皇女で、生母は右衛門佐局松室・敦子という。 異母兄には東山天皇、同母兄には有栖川宮職仁親王(有栖川宮第5代当主で霊元天皇第17皇子である。 有栖川宮の第4代当主正仁親王が嗣子なく没したことから有栖川宮を相続し有栖川流書道を創始した。 )がいる。 1714年11月6日に、わずか生後1ヵ月で時の将軍徳川家継(6歳)と婚約する。 もちろん強引な婚約の背景には当時の政治的思惑があり、大奥では家継の父・徳川家宣の正室・天英院と側室で家継・生母の月光院が権力争いをしていた。 一方京都では、内親王の父である霊元法皇と天英院の実父・近衛基熙が権力争いをしていた。「正徳の治」を推し進める側用人・間部詮房や朱子学者・新井白石は、若年の将軍の権威付けのために皇女の降嫁を計画しており、天英院に対抗する権威を朝廷に求めた月光院も賛成したということである。 ところが、納采の儀のわずか2ヶ月後の1716年6月に家継が死去したため、史上初の武家への皇女降嫁、関東下向には至らなかった。1732年出家後の法号はを浄琳院宮。

知恩院・吉子内親王墓

 

持明院基子-1644
┣堯然親王1602-1661
┃中山親子
┃┣良仁親王(覚深法親王) 櫛笥隆子(逢春門院)
107後陽成天皇        ┣桂宮3穏仁親王  明子女王(好仁親王娘)
 ┣聖興女王 水無瀬氏子  ┣光子内親王     ┣八条宮(桂宮4)長仁親王 
 ┣清子内親王 ┣性承法親王┣有栖川宮2良仁親王(111後西天皇)┏有栖川宮4正仁親王
 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680       ┣有栖川宮3幸仁親王
 ┣尊英女王   ┃┃┣興子内親王(109明正天皇) 清閑寺共子
 ┣近衛信尋   ┃┃┣昭子内親王1625-1651
 ┃       ┃┃┃ ┣近衛基熙(左大臣)  ━┓1648-1722
 ┃       ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃)┣近衛熙子1666-1741(天英院)
 ┃       ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣) ┃ ┣豊姫1681-1681
 ┃有栖川宮初代 ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室)┃ ┣夢月院1699-1699
 ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王         ┃徳川家宣1662-1712(6代将軍)
 ┣一条昭良   ┃┃徳川和子(東福門院)1607-1678 ┃ ┣家継1709-1716(7代将軍)
 ┣貞子内親王  ┃┣紹仁親王(110後光明天皇)   ┃ ┃┣-
 ┣庶愛親王   ┃┣守澄法親王         ┃ ┃吉子内親王1714-1758         
 ┣尊蓮女王   ┃園光子(壬生院)       ┃ ┃       
近衛前子(中和門院)┣常子内親王1642-1702     ━┛お喜世1685-1752(月光院) 
                  ┣堯恕親王1640-1695      
                  ┃五条庸子1660-1683      
         ┃┣堯延親王1676-1718    ┏8幟仁親王       鷹司吉子      
         ┃┃松室敦子-1745    ┏7韶仁親王       随願院┣5愛仁      
         ┃┃┣堯恭親王1717-1764┃不明           ┣4孝仁親王      
         ┃┃┃      不明 ┃┣済仁親王        ┃女房むめ
         ┃┃┃ 不明    ┣有栖川6織仁親王   大江磐代┃┣喜久宮
         ┃┃┃ ┣覚仁親王 ┃  幸子女王(承秋門院) ┣閑院宮3美仁親王
         ┃┃┣有栖川宮5職仁親王 ┣秋子内親王    ┃女房りて 
         ┣識仁親王(112霊元天皇) ┃ 讃岐(伊藤一中娘)┃┣深仁親王
 園国子(新広義門院)┃┃ ┣栄子 ┣朝仁親王(113東山天皇) ┣閑院宮2典仁親王┓  
          ┃┃鷹司房子 ┃        ┃   ┃    ┣鏗宮  ┃
          ┃┃新上西門院┣京極文仁親王  ┃   ┃    交野    ┃
          ┃┣寛隆法親王┃ ┣守恕親王  ┃   ┃ 五条寛子    ┃
          ┃愛宕福子  ┃家女房     ┃   ┃ ┣遵仁法親王 ┃
          ┣吉子内親王 ┃        ┃閑院宮┃ ┃小森頼季娘 ┃
         敦子┣-    松木宗子(敬法門院)┣1直仁親王 ┃┣慈仁親王 ┃
            徳川家継1709-1716      ┣慶仁親王(114中御門天皇)┃    
                    櫛笥賀子(新崇賢門院) ┃        ┃
                             ┣昭仁親王━┓   ┃
                           近衛尚子    ┃   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛   ┃
┃姉小路定子(開明門院)       近衛維子(盛化門院)            ┃
┃      ┣遐仁親王(116桃園天皇)  ┣欣子内親王(光格天皇中宮)     ┃  
┗昭仁親王(115桜町天皇)     ┣英仁親王(118後桃園天皇)         ┃  
  ┣智子内親王(117後桜町天皇) 一条富子(恭礼門院)             ┃        
 二条舎子(青綺門院)                            ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃大中臣祐智女 欣子内親王                  
 ┃ ┣美仁親王   ┣温仁親王 鷹司繁子(新皇嘉門院)           
 ┗典仁親王    ┣悦仁親王 ┣安仁親王       
  ┣兼仁親王(119光格天皇) ┣慈悲心院宮    九条夙子(英照皇太后)         
  大江磐代(蓮上院)┣恵仁親王(120仁孝天皇)  ┣122明治天皇                 
         勧修寺婧子┃ ┣恵仁親王(121孝明天皇)    
              ┃正親町雅子(新待賢門院)     
              ┣摩尼珠院宮     
             鷹司祺子(新朔平門院) 

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猛将・加藤清正

2009年07月03日 | 戦国時代

 加藤清正は1562年、尾張の鍛冶屋・加藤清忠の子として生まれる。 幼名は夜叉丸。 父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、1576年に170石を与えられると清正はこれに応えて生涯忠義を尽くし続けた。 1582年に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って明智光秀打倒の山崎の戦いに参加し、1583年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられたことで一気に武名を轟かせた。 1585年、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下に叙され、1586年からは秀吉の九州征伐に従い、肥後に入った佐々成政が失政により改易される(秀吉により切腹させられる)と肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とし、治水以外にも商業政策で優れた手腕を発揮した。 1592年からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。 文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置き、別路の先鋒を務め、一番隊の小西行長と釜山上陸後の首都漢城の攻略を競ったという。 漢城攻略後は小西行長(一番隊)、黒田長政(三番隊)と共に北上し臨津江の戦いで朝鮮軍を破る。 その後一番隊、三番隊と別れて、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定すると朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。 更には朝鮮の国境豆満江を越えて兀良哈へ進攻するなど数々の武功を挙げている。 1593年の第二次晋州城の戦いでは北面からの攻城を担当し、配下の森本儀太夫、飯田覚兵衛が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。 しかしその後1596年には、石田三成と明との和睦をめぐる意見の対立から秀吉の勘気を受けて一時は京に戻され、 小西行長との対立も深刻化していた。 1597年・慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させ、  全羅道の全州を占領し西生浦倭城‎に駐屯し、 城の東方に浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続が清正支配下の蔚山倭城‎を築城した。 しかし完成間近に明の大軍が攻め寄せてきたために清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城し、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いたことで、 清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼上官」と恐れられたという。 1598年秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。 1599年前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こした。 1600年石田三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田如水と共に家康ら東軍に協力して行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを調略、九州の西軍勢力を次々と破り、勲功行賞で、肥後の行長旧領を与えられ52万石の大名となる。 本来武断派として家康につくはずのない清正が結果的には徳川についたのは、文治派の石田三成と肌が合わなかったにすぎない。 1605年従五位上・肥後守に叙され、1610年、徳川氏による尾張・名古屋城の普請に協力し、1611年には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中に発病し、6月24日に熊本で死去した。 清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったため 1632年改易になった。

 

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軍師・竹中半兵衛重治

2009年05月29日 | 戦国時代

 竹中半兵衛重治は、1544年美濃斎藤氏の家臣・竹中重元の子として生まれ父の死去により家督を継ぎ、斎藤義龍に仕えた後、斎藤龍興に仕える。  織田信長による美濃侵攻に対して義龍死去後の龍興時代には、家臣団に動揺が走り攻防が困難となっていたが、重治の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。 主君の龍興は政務を顧みず、重治や美濃三人衆を政務から遠ざけていた。 このため1564年、弟の重矩や舅の安藤守就と共に龍興の稲葉山城を奪取した。 織田信長が重治に稲葉山城を明け渡すように要求したが重治は拒絶し、自ら稲葉山城を龍興に返還すると斎藤家を去り、浅井長政に仕えた。  1567年信長の侵攻により美濃斎藤氏が滅亡すると信長は、重治を家臣として登用したいと考え、木下藤吉郎秀吉に織田家に仕えるように誘わせた。 重治はこのとき、秀吉の才能を見抜いたとされており、信長に仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることは了承したとされる。   秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。 1578年宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛された。 同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、秀吉幕僚の黒田孝高官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、捕縛されたため、信長は孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じたが、重治は松寿丸を匿った逸話がある。  1579年、播磨三木城の包囲中に病に倒れ重治は戦場で死にたいと秀吉に懇願し死去したという。 本営のあった山に続いたぶどう畑に白い練り塀に囲まれて、半兵衛の墓がある。

 

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