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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

金森長近ゆかりの古城山

2011年09月29日 | 戦国時代

 東海北陸自動車道・古城山パーキングという岐阜県美濃市にある小さなサービスエリアに反応して止まってみると、そこは飛騨高山城主・金森長近ゆかりの地でした。 佐藤秀方?-1594年は安土桃山時代の武将で佐藤清信の息子でもある。 通称六左衛門尉といい、妻は金森長近の姉にあたります。 美濃国鉈尾山(別名古城山)城の城主で、1570年に父の清信が没すると家督を継ぎ、織田信長に母衣衆として仕えた。 伊勢国・大河内城攻略、小谷城攻略、月岡野の戦い、長島一向一揆鎮圧などに参陣し、1575年5月の長篠の戦いでは、徳川家康配下の酒井忠次につけられて、鳶巣山城を攻撃したという。 その後織田信忠付となり、東美濃衆の一員として1578年には越中戦線に派遣された。 本能寺の変の後、羽柴秀吉に仕えると天正11年秀吉の命で森長可とともに織田信孝傘下の立花山城に籠もる遠藤慶隆を包囲、攻撃した。 その後、紀州征伐(千石堀城の戦い)、小田原の役、文禄の役に従軍し、文禄2年に家督を嫡男方政に譲り、翌年没する。 

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飛騨高山城主・金森定近

2011年09月28日 | 戦国時代

 清和源氏土岐氏流の美濃土岐氏当主・土岐成頼の子・定頼が領地を大桑に持ち、定頼の子・定近は後に近江国の金森村に居を移したことから金森姓を称したという。 戦国時代の当主・金森長近(定近の子)は織田信長に仕え、斎藤氏攻略戦などで活躍すると柴田勝家の与力となるが、勝家が滅ぼされた後は羽柴秀吉に従い、1585年に飛騨国を与えられた。 関ヶ原の合戦では東軍の徳川家康方に付き、戦後飛騨高山の藩主となった。 飛騨高山の東山にある高山城への遊歩道入口には金森定近の雄姿像がありました。 遊歩道を通って高山城址まで目指したのですが、台風15号の影響で足元悪くて断念。

 

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清洲城石垣と濃姫

2011年09月25日 | 戦国時代

 一介の油商人から戦国時代の象徴となった斉藤道三は、美濃の有力者「長井家」に仕官、そこからさらに長井氏に紹介されて、その主人の「土岐頼芸ときよりあき」に仕える事となり、頼芸の側室を与えられます。しかし、彼の主人・土岐頼芸は、美濃の大名・土岐政頼とは不仲で、1527年、頼芸と共に夜襲、大名政頼を追放します。  こうした急激な台頭に、長井氏も疎ましく思うと道三は長井家を乗っ取り、長井家の城 「稲葉山城」を居城とします。さらに「稲葉一徹」といった豪族を味方に引き入ます。そして、元々美濃の守護職にあった「斉藤家」を継いで 「斉藤氏」となり、ついに 1538 年、土岐頼芸をも追放します。しかし、かつての美濃の大名「土岐家」は、美濃を取り戻そうと尾張の織田家に協力を要請、攻撃を仕かけて来ると、道三は、娘を織田家に嫁がせる事にします。相手は、尾張の風雲児「織田信長」です。  斉藤道三は国内の土岐家の勢力や、土岐家に恩のあった家臣達を牽制するために、元 土岐頼芸の側室(深芳野)の妻の生んだ長男、「斉藤義龍」に家督を譲ります。 義龍は土岐頼芸の子だという噂があり、道三はこれを利用して義龍に家督を譲る事で、国内の土岐家寄りの勢力をなだめようとしたのですが、その大人しい性格から、一度は義龍に家督を譲りましたが、後にそれを撤回、他の兄弟に国を継がせようとします。 しかしそれが土岐家寄りの家臣達の感情を逆なでする事になり、そして義龍自身も、自分が道三によって廃されようとしているのを悟ります。 1556年、斉藤義龍は他の兄弟を襲ってこれを討ち倒すと、斉藤道三を襲い、62 才にて命を失います。 その後斉藤義龍は、美濃の支配を強化し続けますが、1561年、34 才で病没します。後を継いだ「斉藤龍興(たつおき)」は僅か14 才であり、1567 年、織田家の攻撃によって美濃は占領され、斉藤家は滅亡することとなります。 そうした斉藤道三の娘で織田信長の正室となったのが濃姫である。

   小見の方                     
     ┣━━━━━━━━━━━━濃姫1535-1612    
   斉藤道三1494-1556          ┣信忠(養子)           
    ┣━斉藤義龍            ┃  
      (土岐頼芸の子とも言われている) ┃ 
   深芳野   ┗━斉藤龍興-1567    ┃          
                     ┃
 織田信秀                 ┃               
   ┣━信広             ┃      
    ┗━織田信長1534-1582
(本能寺の変1582で、重臣・明智光秀に討たれる)

 
 

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犬山城

2011年09月24日 | 戦国時代

 木曽川沿いに建つ平山城・犬山城は荻生徂徠の命名によるもので天守は国宝に指定されている。 織田信長の叔父・信康が砦を改修して城とし、池田恒興も城主となっている。

 池田恒興は、まず信雄が尾張・清洲城で家康と合流していたため留守の犬山城に目をつけて落城させ、小牧・長久手の戦いの火蓋をきった。 池田恒興の娘婿・森長可は美濃・金山城を出陣し家康攻撃を狙ったが、奇襲されて逃げ帰った。 この敗北を聞いた秀吉は、池田恒興軍と近江で合流すると、総勢10万で尾張に向かったのである。 実はこの時の総大将は三好秀次で、本営は小牧山の北にある楽田城である。 三好秀次は豊臣秀吉の姉・日秀と三好吉房の嫡男で、池田恒興の娘・若御前を妻としており秀吉の養子となっていた人物である。 奇襲隊が楽田城を出陣すると三河・岡崎城に向かったが、その動きは家康側に見透かされており本隊・三好秀次は家康の先発隊に奇襲される格好になった。 秀次はかろうじて逃げ帰ることができたが、中堅の池田恒興、元助親子は井伊直政隊に、森長可は家康の鉄砲隊にやられ戦死し、1584年長久手の戦いでは秀吉の完敗に終わった。

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清洲跡天守と大手橋

2011年09月23日 | 戦国時代

 名古屋とえば普通は名古屋城ですが、今回はあえて清洲城跡へ。 五条川をはさんで清洲城天守と清洲古城跡があり、大手橋を通って両者を行き来することができます。 

 1582年6月2日、本能寺の変が起きたとき、秀吉は備中の高松城を総大将として攻撃中であった。 高松城は毛利輝元の家臣・清水宗治の城で周囲を沼で覆われた攻めにくい城であったが、秀吉は水攻めにより兵糧の補給を絶ち、落城させた。 秀吉は毛利の使僧・安国寺恵瓊を通じて毛利側と和平交渉に入り、織田信長には出陣を要請した。 これに呼応して織田信長は明智軍に出陣を要請した。 明智光秀にとっては軍を動かす絶好の口実となり本陣の丹波亀山城から出陣し斎藤利三らの重臣と共に丹波亀山城から京に入り本能寺の奇襲は成功する。  織田信長の嫡男・信忠はこのとき兄・信長を助けようと妙覚寺を出たが本能寺が焼け落ちたことを知らされ二条御所へ入った。 このとき誠仁親王親子を内裏に逃がし、明智光秀に囲まれると切腹した。 また、信忠に付き添っていた織田長益(有楽斎如庵)は信忠の嫡男である三法師を連れて二条御所から脱出している。 

 この反乱により織田信長が横死したことが毛利元就の耳に入れば、毛利側が強気になり秀吉の和平交渉は潰れてしまう。 光秀は乱後に毛利元就に知らせるべく使者を送ったが、秀吉側に捕まり毛利側よりも先に秀吉側に伝えられた。 これにより織田信長の死という弱点を毛利に知られること無く和平交渉は進められ、即座に退陣することができたのである。 毛利元就は織田信長が明智光秀とともに、秀吉に加勢すべく攻めてくるものと思い込んでいたから、吉川元春、小早川隆景を中心とした毛利は所領の半分を織田家に差し出す条件で講和に応じたのである。  毛利側が織田信長の死を知らされたのは和平の翌日で紀州雑賀衆の海路によるものと思われる。 秀吉は講和を結ぶと直ちに東へ引き返すべく行動した。 毛利家に知られること無く講和を結ぶことができたのは、軍師・黒田官兵衛の手柄であるが、織田信長の嫡男・信忠が光秀により自害させられたことも後になって秀吉に運をもたらす。 結局東方へ戻った秀吉を追わなかったのは知略に優れた小早川隆景の意見であった。

 秀吉が播州の姫路城を出発し尼崎に到着した頃、織田家の重臣筆頭・柴田勝家は配下の前田利家らを上杉からの防衛として置き、京の情勢を伺い、徳川家康は三河に逃げ帰り、織田信孝は信行の遺児で明智光秀の娘を娶っていた津田信澄を討伐しようとしていた。 信澄討伐後は秀吉軍と山崎で合流し明智光秀討伐を果たすのである。  実は明智光秀には勝算があったのであるが、大和の筒井順慶と丹波の細川藤孝・忠興(妻は細川ガラシャ)親子は光秀に見方をしなかったために、明智軍はあっけなく壊滅状態となったのである。 これが6月13日の天王山の戦いとも呼ばれる山崎の合戦である。 光秀は夜陰にまぎれて近江の坂本城を目指す途中で、農民に竹で突かれて重症を負い、切腹した。 

 主君・織田信長の仇を討った秀吉は、これ以降天下統一を推し進めていくのであるが、織田信長・嫡男の信忠なき今は、嫡男の息子・三法師、三男の信孝が織田家の家督争いの渦中にはいる。 秀吉推す三法師が、柴田勝家推す信孝を抑えて家督を継ぐのであるが、これは織田家の重臣により開かれた清洲会議(6月27日)により決定されたのである。 順番からいっても嫡男の息子・三法師が家督を継ぐのは道理であるが、当時3歳であり、実質的には何ら判断ができない三法師を推したのは秀吉の戦略である。 誰もが予想しなかった筋目を通したのである。 清洲会議に出席した重臣は秀吉のほかには柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の三人である。 この中に秀吉、勝家とほぼ同格の滝川一益がはいっていなかったのは秀吉にとっては幸運であった。 関東方面軍司令官として武名が轟いていた滝川は鉄砲と謀略の才を買われて織田信長の家臣となった。 信長が都を目指して滝川は伊勢ルートの攻略を行った。 伊勢の大名である北畠家に信長の次男・信雄を養子にいれて功績を挙げていた。 この滝川は本能寺の変により領地を兵の大半を失う災難にあい、清洲会議には出席していなかった。 滝川一益が会議に出席していたら織田家を保つ最善の策である信孝後継案をもつ勝家に賛同していただろう。 丹羽長秀には賛同するように予め了承をとっていた。 また残る池田恒興は買収されていた。 池田恒興は信長の乳兄弟である。つまり池田恒興の実の母が 信長の乳母であるから、勝家は池田恒興の賛同を確信していたから驚いた。 秀吉の謀略により 信孝を排除することに成功した秀吉は、できの悪い次男・信雄も利用することになる。

 清洲会議の後に信孝の薦めで柴田勝家は織田信長の妹・お市を妻に向かえ、越前に引き上げた。 三法師丸を確保し秀吉との勝負は先になると予想した勝家は雪国の越前に帰ったのである。勝家は織田家の北陸方面軍司令官であり上杉家の進入回避も任されていたから、その動向を見張る必要もあった。 しかしこれは失策である。 その後秀吉は信雄を説得して、柴田勝家の養子・勝豊を落とし、岐阜城の信孝を攻めて降伏に追い込むと、三法師を奪い取ったのである。 岐阜城攻略の障害になるのは長浜城で柴田勝家が清洲会議で奪い取った城である。 この長浜城には柴田勝豊という勝家の養子が城主としていたが、秀吉は勝豊を口説いて味方にしていたから、簡単に安土から岐阜城攻略ができたのである。 勝豊は一族の出身ではあるが、勝家と反りがあわなかった。 武勇誉れ高い甥の佐久間盛政を優遇していたため、勝豊は不満を持っていたところを秀吉はつけ込んだのである。 秀吉が信孝を落としたとき、人質として信孝の母・坂氏と娘を拘束し、年の暮れに京へ凱旋している。 秀吉の迅速な動きに業を煮やした柴田勝家は、いよいよ越前の北の庄城を出陣したのであるが、秀吉軍は即座にそれを掴み北上し琵琶湖の北・賤ヶ岳で勝家軍と対峙することとなった。 勝家の出陣に息上がった織田信孝が、再度岐阜城で反秀吉の兵を挙げたとき、人質として確保していた信孝の母と娘は秀吉により磔にされて殺された。 二人は織田信長の妻、孫にあたり、秀吉にとってはもと主君といってよいので、この人質殺害については誰もが予想しなかったことである。  秀吉の猛攻を受けた柴田勝家軍は佐久間盛政を筆頭に総崩れとなり北の庄に逃げ帰ることとなる。 このとき織田信長の重臣であった加賀百万石の前田利家・利長親子も参戦しており、織田勢である柴田勝家側であったが、途中で戦線離脱したから敗戦への影響は大きかった。 そして秀吉軍は追撃の手を緩めず、北の庄城を攻め、勝家・お市夫妻を自害に追い込んだのである。

 このとき、挙兵していた岐阜城の織田信孝を織田信雄は取り囲んでいた。 柴田勝家の自害を知った信孝は  「昔より主をうつみの野間なれば報いを待てや羽柴筑前」  という辞世の句を詠んだ。 信孝が自害したこの地は、その昔源義朝は家臣の長田忠致の裏切りによって殺害された地でもあり、裏切った長田忠致は源頼朝により仇を討たれたことを云い、 秀吉への恨みをこめたものである。

 さて、織田信雄は羽柴秀吉の戦略にのって弟・信孝を自害に追いやったのであるが、いよいよ秀吉の本心に気がつき、徳川家康と同盟を結んで秀吉との断交に踏み切ることとなる。 理由は秀吉が大阪に巨大な城を築き始めたからである。 そしてこの断交はやがて 「小牧・長久手の戦い」 という徳川家康・織田信雄連合軍と羽柴秀吉の戦いに発展するのである。 徳川家康と織田信雄が連合を組んだということで、秀吉は池田恒興を見方に引き入れた。 この池田恒興は、母が織田信長の乳母であり娘を森蘭丸の兄・森長可に嫁がせており、根っからの織田信長派である。 また清洲会議に出席した織田家の宿老でもある有力者である。 従って家康・信雄側の筆頭であるが、それを秀吉は尾張・三河・美濃の三国をちらつかせて見方に引き入れた。 これは誰もが驚く裏切り事件であった。 欲につられて寝返ったことで織田家の旧臣たちは秀吉の味方をするようになり、秀吉はこうした勢力をバックに大阪城という巨大城を築き始めたのである。

 池田恒興は、まず信雄が尾張・清洲城で家康と合流していたため留守の犬山城に目をつけて落城させ、小牧・長久手の戦いの火蓋をきった。 池田恒興の娘婿・森長可(本能寺の変で戦死した森蘭丸の兄)は美濃・金山城を出陣し家康攻撃を狙ったが、奇襲されて逃げ帰った。 この敗北を聞いた秀吉は、池田恒興軍と近江で合流すると、総勢10万で尾張に向かったのである。 実はこの時の総大将は三好秀次で、本営は小牧山の北にある楽田城である。 三好秀次は豊臣秀吉の姉・日秀と三好吉房の嫡男で、池田恒興の娘・若御前を妻としており秀吉の養子となっていた人物である。 奇襲隊が楽田城を出陣すると三河・岡崎城に向かったが、その動きは家康側に見透かされており本隊・三好秀次は家康の先発隊に奇襲される格好になった。 秀次はかろうじて逃げ帰ることができたが、中堅の池田恒興、元助親子は井伊直政隊に、森長可は家康の鉄砲隊にやられ戦死し、1584年長久手の戦いでは秀吉の完敗に終わった。  

 小牧・長久手の戦いは家康、信雄連合軍の完勝でおわったものの、秀吉の首を討ち取ったわけではない。 しかし誰もが予想しなかったことが起きるのである。 秀吉は伊勢へ戻った信雄に対して講和を求めてきたのである。 調略は秀吉が最も得意とする分野である。 それにのせられた信雄に対して憤りを感じたのはもちろん徳川家康である。 なぜなら織田家という、また、秀吉と戦うという大義名分を失うことになったからである。 そして家康は戦いの矛を収め、それは秀吉の天下を認めることとなった。 

 武力抗争は終わったものの家康、秀吉お互いに天下取りにかける野望を失ったわけではない。 武力ではとても家康に叶わないと悟った秀吉は、朝廷の座を狙うことで織田家を牛耳る戦法を編み出すのである。 結果からいえば 「関白になる」ということであり実際にそうなったのであるが、これは秀吉にとっては大変なことである。 つまり身分から言ってなれるはずがないのである。 藤原氏の中でも特に選りすぐりの五摂家の一部の公家しか関白にはなれない。 藤原北家の出である藤原忠通は保元の乱で死亡した藤原頼長の兄にあたり、法性寺関白と当時云われていた。 忠通には基実、基房、兼実という息子がいたが基実は近衛家の祖となり、兼実は九条家の祖となった。 また近衛基実の系統から近衛兼平が鷹司家の祖となり、九条兼実の系統から良実が二条家を、実経が一条家の祖となり、これらの近衛、鷹司、九条、二条、一条の五家を特に五摂家とよんでいる。  当時関白は左大臣も兼任していた二条昭実であったが、内大臣・近衛信輔を昇進させ空いたポストに秀吉を迎え入れたのである。 秀吉が昇進するにあたって身分の問題については、近衛信輔の父・前久の猶子になることで解決された。 こうして1585年、秀吉は近衛秀吉となり関白の座に登り、位階も従一位となった。 そしてこの後、藤原氏に匹敵する「豊臣」という姓を正親町天皇から受け賜った。 このとき豊臣氏は一時的に藤原氏を超えたといってもいい。 関白職は本来藤原五摂家に返すのであるが、秀吉は関白を退いて太閤となったときに、養子の秀次に譲っているのである。 しかし血統を重んじる藤原家がそうやすやすと秀吉に乗っ取られることは考えにくい。 実は、豊臣姓の誕生には藤原五摂家から秀吉を排除するための対策であったのかもしれないのである。 

 1586年、豊臣秀吉が関白になって初めて行ったことは、大阪城から黄金の茶室を京の御所に運び正親町天皇、公家を招待し、春には後に聚楽第と云われる京の新邸を着工させた。 またしばしば家康に、大阪へ来るように促している。 家康の拒否に対して秀吉が提示したのは、異父妹・旭姫を差し出すことであった。 家康が上洛を決意し、大阪城の上座の秀吉に対して深々と頭をさせることになった家康は、秀吉の策略に負けたことを意味するのである。

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クナシリ・メナシの蜂起

2011年03月23日 | 戦国時代

 クナシリとは国後島一帯のことをいいメナシとはアイヌ語で東方という意味をもつ。 アイヌのなかでも松前藩にちかいところに住む部族は早くからその支配に服したが、メナシの部族はロシアとの交易ルートがあったために独立性が強かった。 しかしロシア側との交易を断念せざるを得なくなったために松前藩の代理人である飛騨屋久兵衛がこの地に進出してアイヌを搾取し、ついにアイヌが蜂起した。1789年、クナシリのリーダー・サンキチが病に倒れ、別のリーダーマメキリの妻が急死した。 この二件の死亡は、日頃から飛騨屋に逆らったら毒殺するぞ、と脅されていたアイヌにとっては毒殺にしかみえなかった。 これがクナシリ・メナシの戦いの発端となる。クナシリのアイヌはさんざん非道を繰り返してきた飛騨屋の支配人などを殺害した。 これに呼応するかのように対岸のメナシでも蜂起したアイヌが飛騨屋を襲った。殺害された和人は飛騨屋が70人、残る一人は松前藩の竹田勘平であった。 勘平は松前藩でも一番身分が低い足軽であるから、この地の経営を飛騨屋に任せて、高級武士はだれも赴任していなかった。 あわてた松前藩は番頭を総大将にした鎮圧軍を派遣し、陸路から二ヶ月かけて現地に向かった。 ここで松前藩は兵を導入しつつもアイヌと戦うことはせずに、周辺のアイヌに武威を発した。 松前藩の飛騨屋に対する監督不行き届きの一方、和人を殺害した多くのアイヌは処刑された。

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南山城の国人一揆

2011年01月18日 | 戦国時代

 平等院のある宇治は、その昔南山城の国といい1485年の国一揆が起こった。 山城のなかでも筒城・久世・相楽の三郡で団結したのは国人、地侍、百姓の結集した組織であった。 南山城は一人の守護大名、戦国大名によって支配されなかった稀有な土地なのである。 また、加賀の一向一揆などのような宗教色を持たなかったことも面白い。 この一揆が始まる直前には応仁の乱などの混乱が続いていた。 特に南山城は畠山政長と畠山義就の軍勢が一族争いの戦場として居座り続けていた。 畠山氏は重忠以来の武家の名門で、室町幕府の要職を務め、河内・能登を勢力の基盤としていたが、一族の争い以降は河内・大和の武士を巻き込み、南山城の人々には甚大な迷惑を及ぼしていた。 ついに南山城の国人たちは一致団結して、両畠山軍が撤退することを要求した。 この団結の核となった国人を国中三十六衆という。 なかでも特に目立ったのは宇治大路氏といい伊勢出自の土豪で、両畠山氏撤退のあと、宇治の平等院で集会をもち、自治活動を行っている。  何故宇治平等院を会合の場所にしたのか、応神王朝が誕生するうえでの最後の戦場となったのが宇治であった、という記念すべき地であったのかもしれない。 

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阿波を治めた三好義賢の居城・勝瑞城跡

2011年01月12日 | 戦国時代

 阿波国の勝瑞城は、細川頼春が築城して以来阿波守護所として阿波の中心であったが、応仁の乱で衰退した細川氏に替わって三好氏の三好義賢1527-1562  が細川持隆を攻めて城を奪った。 しかし 三好氏も3代経て、天正10年に土佐の長宗我部元親に攻められ、中富川の合戦に敗れ讃岐へと逃れ、三好氏の阿波の支配は終わった。 城跡内は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地となっていて、江戸時代の儒学者・那波魯堂の撰による慰霊文が刻まれた勝瑞義家碑や三好三代の墓がある。 ところで、三好義賢は三好長慶の弟にあたり、三好長慶は機内を、三好義賢は四国を統治した。 細川晴元には三好長慶が仕え、細川持隆には三好義賢が仕えている。

 

 

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藤堂高虎によって設計された高松城

2010年08月19日 | 戦国時代

 高松城は、日本の香川県高松市玉藻町にあった城である。別名・玉藻城。、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。縄張りは黒田孝高(如水)が手掛けたといわれ、細川忠興(正室は明智光秀の娘・細川ガラシャ)、小早川隆景(毛利元就の三男。毛利隆元・吉川元春は同母の兄にあたる)、藤堂高虎(築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。)などによるとも言われている。 

 高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、天正15年(1587年)讃岐1国の領主となった生駒親正  (信長の美濃攻めに際してその臣下となった後は羽柴秀吉付属の武将に任じられ、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加した。 生駒吉乃1528-1566は織田信長の側室である。)  によって築かれた。 現在の遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重(讃岐高松藩初代藩主で水戸徳川家初代徳川頼房の長男)によって改修されたものである。

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伊賀国主・筒井定次が築いた上野城

2010年08月09日 | 戦国時代

 織田信長が明智光秀に討ち取られた本能寺の変の3年後の1585年に、大和郡山の筒井定次は伊賀を拝領し築城したのが伊賀上野城である。 天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に3層の天守が築城されたという。 しかし定次は、かねてからの不行状により、1608年徳川家康の命により改易させられ、その後築城の名手とされる藤堂高虎の持ち城となった。 城の改修・竣工が1612年に行われる予定であったが、豊臣氏の滅亡で堅固な城が不必要となり、武家諸法度による新規築城規制により再建されることはなかった。

 

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関宿にゆかりのある武将・織田信孝

2010年07月31日 | 戦国時代

 関宿を散策していたら、織田信孝の菩提所があった。 そういえば、織田信長の三男・織田信孝は三重県・鈴鹿の神戸氏の養子となって跡を継いでいることを思い出した。 信長は、ここまで攻め入っていたのである。  1558年生まれの織田信孝の側室は伊勢鹿伏兎氏庶流の坂氏である。 後に、信孝が秀吉に降伏したとき、人質として差し出した生母・坂氏、側室の神戸の板御前は秀吉によって殺されている。 

 信孝は、次男信雄より数日先に生まれたのであるが、母・坂氏の身分が低く、また信長に報告するのが遅かったため、三男とされたと言われている。 1568年、信長が伊勢国を平定した際に、降伏した神戸城主・神戸具盛の養子となり、具盛が信長によって隠居させられた後は、神戸氏を継いだ。 本能寺の変直前の1582年四国征伐では総司令官に任ぜられ、所領北伊勢・鈴鹿、伊賀・甲賀・雑賀の他国衆も集めて遠征軍を組織すると、副将には織田氏の宿老丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らを置いた。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃  ┣-   督姫1565-1615(家康次女)
 ┃┃┏━娘   ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
 ┃┃┃    ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
 ┃┃┃    ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
 ┃┃┃    ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
 ┃┃┃    ┃        式姫┃┃  ┣池田宗泰1717-1747(4代)
 ┃┃┃    ┃      菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
 ┃┃┃    ┃        (徳川綱紀娘)  久姫  ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
 ┃┃┃    ┃             (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
 ┃┃┃    ┃                  上氏(側室)┃於三保
 ┃┃┃    ┃                    生姫(伊達重村娘)
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代)
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┃┣池田政言1645-1700    ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃        ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)   
 ┃┃┃        ┃┃┣池田吉政1678-1695    
 ┃┃┃        ┃┃千子(丹羽光重娘)    
 ┃┃┃        ┃┣奈阿姫   
 ┃┃┃        ┃勝姫(本多忠刻娘)   
 ┃┃┃        ┣池田恒元1611-1671   
 ┃┃┃     柳原康政娘・鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
   1510-1551 ┃  ┣登久姫                 毛利輝元娘
        ┃  ┃  ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
       ┃  ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
       ┃  ┃    ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
      ┗織田信長 1534-1582

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とんでもない卑怯者の山内一豊

2010年06月01日 | 戦国時代

 山内一豊と妻・千代の像が高知城内にあります。 正面の追手門を抜けると千代の像が10両で購入したといわれる馬とともにあり、なぜか一豊像が天守に向かう石畳沿いにはありません。 一豊のことを良く思っていない長宗我部系高知市民の意図があるように思えてなりません。 

 1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。 7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。 奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。  翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。 秀次は左大臣も兼ねたがそれにふさわしい力量はなかった。それまで左大臣であった教養人で三筆の近衛信尹は職を追われ、秀次は聚楽第を継ぎ、秀吉は隠居屋敷をつくる。 これが伏見城である。 秀次は秀吉の姉と三好吉房の子で、秀吉の養子にもなり、抜擢し続けた。 近江八幡で43万石の大名に取り立て、尾張清洲の大名とし、関白にしたあと聚楽第まで譲ったのである。 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。  1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。 その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 1593年、淀君は男子を産んだ。 捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。 秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。  秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。 秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。  秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。 そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀次の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。 秀次はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀次の弱さがでている。  その後まもなく秀次は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。 また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。 考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。 一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。 前々から秀次の学問指南役であった東福寺の隆西堂は僧でありながら殉死し、若い近習も数名後を追った。 山内一豊など重臣は殉死せず、秀次の妻子ら三十数名が三条河原で惨殺され、聚楽第も徹底的に破壊されたのである。

 幕末に台頭した土佐藩主・山内容堂はいうまでもなく山内一豊を祖とする15代藩主です。関が原の戦いで東軍に就いた一豊は勝利した後、土佐24万石を与えられ統治しますが、これまで土佐を治めていた長宗我部盛親は西軍に就いていた為改易となる。 普通新しく領地を治める場合、地元の家臣をある程度登用して新旧のバランスをとりますが、一豊は一切登用を行わずに長宗我部派重臣との身分差を作ったために、幕末においても上士と下士の身分差別が明確になり、住居も区画化されていました。これが幕末の容堂による人材登用制度を引き金となって土佐を雄藩に押し上げる力になります。

 ここでは一豊よりも妻・千代のことを記載したいと思います。 千代の詳細は不明な点が多く、近江国、浅井家の家臣若宮喜助友興の娘とも、美濃国の遠藤盛数の娘ともいわれている。 若宮友興の死後、叔母を頼り義叔父の不破重則(不破市之丞)の元で育てられ、牧村政倫の媒酌で山内一豊の妻となったというが定かではない。 千代の名を著名にしたのは山内一豊が名馬を買い求める逸話である。 山内一豊は安土の城下で馬売りが売る駿馬を見かけた。 黄金10両というのがその価格である。 千代は嫁入りの際、母から授かった10両を用意し購入する。 山内一豊はその駿馬を手に入れ馬揃に出て、信長の歓心をかったという。 また、貧窮の最中、配下や職務上の諸々で下のものを食わせてやらねばならぬと、千代は髪を売り食事の工面したとも伝わる。 山内一豊は本能寺の変後、羽柴秀吉・豊臣秀吉の家臣として転戦し、長浜城を与えられている。 長浜城は羽柴秀吉の居城であった事を思えば信任の厚さも伺える。 しかし、この時、震災により娘・与祢を失ってしまう。  小田原の戦の後、山内一豊は掛川城主となる。  豊臣秀吉没後、山内一豊は徳川家康寄りに身をおき、家康が会津の上杉討伐の軍を出したとき、これに従っている。  関が原の戦いの後、土佐一国を拝領することで功の大きさを評価されているが、実際には大した戦功はなにもない。 山内一豊が没すると、家督は山内一豊の弟・康豊の息子・忠義が養子となり継ぎ、千代は出家し見性院と号す。 土佐には残らず(恐らく残ることはできなかった)伏見・京都桑原で余生を過ごし1617年に病死する。 

  さて、千代の父・遠藤盛遠であるが、1561年、斉藤道三の子・斉藤義龍が亡くなったときの織田信長と齋藤龍興の戦いでは、齋藤勢の将として美濃国墨俣に出陣し、砦を築こうとする織田家重臣の佐久間信盛や柴田勝家を敗退させる功績を立てるが、 織田方の木下藤吉郎が墨俣に砦を築いてしまうと、そこを足がかりに稲葉山城下に迫ります。 1562年、織田勢を防ぐため、遠藤盛数は稲葉山城の城下町、井口に布陣したが討死を遂げます。 盛数は庶流でありながら主君・東常慶の娘を娶って東家の一門格になるなど、常慶からの寵愛を受けるが、1555年 盛数は常堯の家督相続に反対して謀反。 その後、遠藤盛数は事実上の郡上郡の主となる。 盛数の子、慶盛のとき織田信孝・柴田勝家に加勢し、豊臣秀吉に反したため移封されました。代わって稲葉貞通が城主となるが、関ケ原の戦いで西軍に属したため移封となり、遠藤慶隆が二万七千石で入封し、城の増築を行う。

                          竹中半兵衛1544-1579
                          ┣竹中重門1573-1631
                         安東守就(西美濃三人衆)・娘姉(徳月院)
  遠藤盛数(美濃・斉藤氏家臣)  安東守就(西美濃三人衆)・娘妹   
         ┃            ┣
        ┣慶隆・長男 八幡城主二代目    
       ┣慶胤  
         ┣慶直
           ┗千代(見性院)1557-1617
              ┣与祢1580-1586
  山内盛豊    ┣忠義1592-1665(養子)
    ┣山内一豊1546-1605(初代土佐藩主,秀吉の家臣)  
  ┣山内康豊   
  ┃ ┗忠義    
 梶原氏・娘

 

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五藤吉兵衛と三段崎為之と山内一豊

2010年05月31日 | 戦国時代

 四国・安芸へ行ったときについでということで安芸城跡を訪れた。 まわりは結構整備されていて、大変な田舎であるのに観光バスも受容れられる状態で、資料館まであった。 行ったときには既に閉館していたが、その壁一面には山内一豊が三段崎勘右衛門を討ち取る様子を描いた大きなパネルがあった。何年か前に放映された「巧妙が辻」を思い出した。 三段崎為之?-1573は朝倉氏の家臣で通称、勘右衛門という。三段崎氏は朝倉高景を祖とする朝倉氏の一門(庶流)である。 為之は強弓の使い手として知られる猛将で、1573年織田信長の越前進攻の際に殿軍を務め、刀禰坂の戦いで織田家臣山内一豊に挑まれ、重傷を負わすが逆に殺された。 首は織田家臣の大塩正貞が取り、一豊に渡したという。 また弟も剛勇を知られた武将であったが、一旦は助太刀した兄を見捨てて退き、その戦いで戦死したという。 なお、三段崎氏の子孫は後に医師・谷野一柏に弟子入りし、朝倉氏が11代義景滅亡後は、福井県で代々医業を生業としたという。 

織田信秀 濃姫1535-1612                
 ┣信広 ┣-        
 ┣織田信長1534-1582(本能寺の変1582で、重臣・明智光秀に討たれる)
 ┃  織田氏本家をのっとり、尾張に勢力を張る。桶狭間合戦1560で今川義元を破る。  
 ┃  徳川家康と同盟を結び、美濃平定後足利義昭を奉じて近江の六角氏を討ち入京。
 ┃ 安土城を築く。 
  ┣信行   
 ┣お市の方1547-1583 
 ┣お犬の方┣淀殿 (徳川秀吉側室)1567-1615 
土田御前  ┣常高院(京極高次正室)1569-1633 
      ┣お江与(徳川秀忠正室)1573-1626
       ┣万寿丸
浅井久政   ┃   朝倉高景(2代当主)・・・朝倉孝景
 ┣浅井長政1545-1573(小谷城が陥落 六角義賢 ┗朝倉義景11代当主と同盟) 
井口守経娘 ┣万福丸
     平井定武・娘(六角重臣)後に六角氏離反の為、離縁

 五藤為浄1553-1583は、山内一豊に仕えた武将で、通称は吉兵衛という。 尾張国の出身。 五藤家は吉兵衛の父・五藤浄基が盛豊の代から山内氏に仕え、為浄もまた当主・一豊に従い浅井・朝倉攻略(刀禰坂の戦いなど)などに転戦する。 天正11年の賤ヶ岳の戦いの前哨戦である伊勢亀山城攻撃の際に討死した。 家督は五藤浄清が継ぎ、弟の五藤為重は山内家の家老となり、山内一豊が土佐入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。 安芸城を陥落させた際、主君・山内一豊が三段崎勘右衛門の矢を顔に受けたときに、その矢を抜いたのが五藤吉兵衛で、 小説『功名が辻』でもこの場面は登場する。  

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岩崎弥太郎の故郷・安芸を支配していた安芸親氏

2010年05月30日 | 戦国時代

 四国の土佐から40kmほど東に海岸沿いをひたはしると、安芸という地方がある。 幕末に岩崎弥太郎が産声をあげたところである。 その昔の鎌倉時代1309年に安芸親氏がこの地・安芸に城を構え、一帯を支配していた。  安芸氏は土佐東部の安芸郡を支配し、戦国時代には勢力を伸ばしていったのである。 安芸国虎の戦国末期の時代になると、隣接する長宗我部元親と対立し、元親の居城である岡豊城をしばしば攻撃した。  1569年、安芸国虎は妻の兄である土佐国西部を支配する一条兼定 (土佐一条家の最後の当主 藤原北家で摂関家の九条家からででた家柄で、応仁の乱後、家領回復の為に一条教房が土佐の幡多本庄中村へ下向し土着し、単なる公家ではなく戦う公家として、「戦国公家大名」とも言える存在になった。) と結び、八流の戦い(長宗我部氏討伐の合戦)を起こしたが、総崩れとなり安芸城を攻められる。 一条氏と同盟を結んで長宗我部氏を挟み撃ちにしようとしたのであるが、情勢は苦しく 安芸城での籠城では食糧も尽き、長宗我部側に内通した横山民部(安芸家譜代の家臣)が井戸に毒を入れ、倒れるものが続出したことから、国虎は一子・千寿丸を阿波へ落とし、夫人を実家の一条氏に送りかえしたのち、自害を条件に元親に残存する兵士と領民の助命を願い出ると、国虎は自決し安芸城は落城し、長らく土佐に君臨した安芸氏は滅亡したのである。

 安芸氏の出自については説が色々あり、壬申の乱で土佐へ流された蘇我赤兄(623-?)の後裔と伝えられる。 因みに安芸本家は橘姓を称し、分家畑山家は蘇我姓を名乗っている。  また、645年に藤原鎌足とともに蘇我入鹿(?-645)を討った、蘇我倉山田石川麻呂(?-649)の系統となる安芸郡少領・凡直伊賀麻呂の子孫であるとの説もあるが定かではない。  安芸氏初代は安芸行兼とされ、安芸郡の豪族として、郡の西部から香美郡東部を領し、1185年の源平合戦では、大領・安芸広康の子実元・実俊(安芸実元は実俊の兄にあたり、身長2メートル20センチの巨漢で、30人力の剛の者といわれた) は長門国・壇ノ浦で平家随一の武者・平教経と組んで入海したと伝えられる。 もともと土佐は陸の孤島であったことから、古来より罪人などが流される地であり、南北朝時代には細川頼益が守護代として安定を見せたが、応仁の乱で細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。 これを土佐七雄というが、安芸氏はそのひとつ。  安芸氏は、室町時代に入ってからは細川氏の庇護下で頭角をあらわした。 応仁の乱時に、安芸元康は細川方として出陣し、父子ともに戦死する。 そのため、畑山氏より元盛が入って本家を継いだ。  元盛の子の元親のあとを山城守・元泰がつぎ、つづいて家督は国虎に譲られた。 安芸国虎は一条房基の娘をめとり、名門を誇示したが、やがて長宗我部元親と対決することとなる。

長宗我部国親1504-1560
 ┃蘇我赤兄623-?(蘇我馬子の孫 天智天皇に仕えた左大臣)
 ┃┗惟宗行躬-惟宗行親-安芸行経-安芸行春-安芸行兼(安芸氏初代)-安芸兼実┓
 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛       
 ┃ ┗安芸実親-安芸経道-安芸実広-安芸広貞┓
 ┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃┗安芸広康(源平壇ノ浦の合戦では源氏側に就く)
 ┃   ┣安芸実俊(源平壇ノ浦にて討死)
 ┃   ┣安芸実元(源平壇ノ浦にて討死)
 ┃   ┗安芸実経-安芸実清-安芸実国-安芸実忠-安芸実信-安芸知信-安芸知親┓
 ┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛       
 ┃┗安芸親氏(築城)-安芸忠氏-安芸忠親-安芸忠行-安芸元重-安芸元実-安芸元信┓       
 ┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃┗安芸元康-安芸元盛-安芸元親-安芸元泰       
 ┃                          ┗安芸国虎1530-1569
 ┃                                   ┣千寿丸(阿波・矢野氏へ落延る)
 ┃       一条兼定(関白一条房通は養父)の妹
 ┃       ↑
 ┃       ↓
 ┣長宗我部元親1539-1599
 ┃┣長宗我部信親1565-1587
 ┃┃┣娘(長宗我部盛親正室)
 ┃┃石谷頼辰娘
 ┃┣香川親和1567-1587
 ┃┣津野親忠1572-1600
 ┃┣長宗我部盛親1575-1615
 ┃┃┣盛恒、盛高
 ┃┃長宗我部信親娘
 ┃┣長宗我部右近大夫-1615(加藤清正に出仕)
 ┃石谷光政娘(明智光秀の家臣・斉藤利三妹)
 ┣吉良親貞  1541-1576(一条兼定追放)
 ┣香宗我部親泰1543-1593(安芸城主) 
 ┣島親益       -1571
斉藤氏娘

 落城後は元親の弟・香宗我部親泰が安芸城に入城し、元親の死後は家督を継いだ長宗我部盛親が関ヶ原の戦いにおいて西軍に所属したため改易となる。 その後、山内氏が土佐一国を与えられると、重臣の五藤為重(兄の名は吉兵衛、山内一豊とともにほとんどの合戦に出陣 )に1,100石を与え安喜郡に配した。 為重は居留地として安喜城を選んだが、1615年の一国一城令により城ではなく「土居」と称し、「安芸土居」として五藤氏が居住すると、土居の周囲には家臣団の武家屋敷が整えられた。

 

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四国全土を統一した長宗我部元親

2010年05月09日 | 戦国時代

 ゴールデンウイークに強行した高知・土佐の史跡 桂浜の次は戦国の武者・長宗我部元親公の紹介です。 四国の覇者といえば、愛媛は河野氏、香川・徳島は三好氏、そして高知は長宗我部氏が支配していました。 長宗我部元親は、戦国時代の土佐の大名で、長宗我部氏第19代当主・長宗我部国親の長男にあたり、第20代当主となります。 母は美濃斎藤氏の娘。 正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹で、「元親」は管領・細川晴元の偏諱を受けたものです。 側室に明智光秀の妹の娘がいます。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い1575年に四国の覇者となりますが、織田信長の手が差し迫り、その後は信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ1585年に土佐一国に減地となっています。

土佐・桂浜近くにある長宗我部元親公墓所

  

 高縄寺は、河野氏の祈願所、菩提寺として建立された寺で、河野氏が湯築城に移るまでは、高縄城があったところでもあります。  河野氏の祖は、伊予の越智氏とされ、饒速日命から出て越智国造となった小致命の子孫とされています。 藤原純友の乱の時には、純友討伐軍に加わり、その功あって越智郡の押領使となり、武士団として成長することになります。 越智氏が伊予地方における初期の土着勢力であったのに対して、河野氏は北条高縄地方にその発祥のルーツがあります。 河野氏が急成長することになるのは、頼朝による平家討伐に源氏軍として参加してからです。 義経の壇ノ浦合戦での勝敗を決定する要因になったのが義経の軍として壇ノ浦で活躍した河野氏配下の河野水軍です。 来島海峡など瀬戸内海有数の瀬戸での船の扱いに長けた河野水軍は、壇ノ浦での潮の流れをうまく活用し功績を挙げることとなります。 こうして北条地方を根拠にして、河野氏は伊予の豪族として発展していきますが、承久の乱では宮方についたため、一族は没落離散する悲運に見舞われます。 この一族悲運に出会い、一族の菩提を弔うために全国を行脚した人物こそ、鎌倉時代の新しい宗派を作り出した一遍上人そのひとで、河野通信の孫にあたります。 鎌倉幕府から足利幕府へとかけて、再び動乱の中に巻き込まれた河野通盛(通信の孫)は終始宮方と戦い、この頃に河野氏の本拠地を高縄城から平地の湯築城に移したと見られます。  湯築城に移った河野氏を待ち受けていたのは、戦国時代末期に四国統一を果たした土佐の長曽我部元親の攻撃と秀吉による四国征伐軍でした。 1585年豊臣秀吉による四国上陸作戦が敢行されると、伊予方面から小早川隆景の軍が上陸。ときの河野氏の当主は河野通直、22歳。毛利元就の厳島合戦に支援したことから河野氏と毛利氏とは深い関係になり、小早川隆景とは親戚関係に当たっていました。隆景は通直に書面で降伏を勧め、通直は家臣との合議の上即刻開城します。 小早川隆景は伊予平定の功として伊予国35万国を、安国寺恵瓊は和気郡の2万3千石を秀吉より宛がわれます。河野通直は、隆景がそのまま湯築城に留まったため、湯築城に留まりますが、隆景が筑前に配置換えになると、河野氏の行く末を心配した毛利氏は、河野通直を小早川氏と縁が深い竹原に移します。かくして河野通直は譜代の家臣50余名を引き連れて竹原に移り住みます。 竹原市にある長生寺は、河野通直が竹原に移り住んで2年後に死亡したため、その菩提を弔うために小早川隆景が建てたものです。 

 織田信長が明智光秀に本能寺にて暗殺された1582年であるが、三男の信孝に任せるつもりで四国征伐が計画されていた。 当時四国の統一を図っていたのは長曾我部元親である。 もともと土佐の領主であった長曾我部元親は三好氏を圧倒し織田信長とは同盟を結んでいた。 ところが織田信長はこの同盟を破棄して四国を織田領とする意思を固めたのである。 このときに織田政権において長曾我部元親との外交を担当していたのが明智光秀であり、重臣・斎藤内蔵助利三の妹を長曾我部元親に嫁がせており、信親を生んでいた。 かくして斎藤利三は光秀をたきつけて暗殺に持ち込んだという説がある。 この黒幕は織田信長に追放されていらい信長打倒に暗躍していた足利義昭という説や、天皇家を危うくする信長を朝廷が主導して光秀を操り織田信長を滅ぼしたという説などあるが真実は定かではない。

長宗我部国親1504-1560
 ┣長宗我部元親1539-1599
 ┃┣長宗我部信親1565-1587
 ┃┃┣娘(長宗我部盛親正室)
 ┃┃石谷頼辰娘
 ┃┣香川親和1567-1587
 ┃┣津野親忠1572-1600
 ┃┣長宗我部盛親1575-1615
 ┃┃┣盛恒、盛高
 ┃┃長宗我部信親娘
 ┃┣長宗我部右近大夫-1615(加藤清正に出仕)
 ┃石谷光政娘(明智光秀の家臣・斉藤利三妹)
 ┣吉良親貞  1541-1576(一条兼定追放)
 ┣香宗我部親泰1543-1593(安芸城主) 
 ┣島親益       -1571
斉藤氏娘

長宗我部元親公 初陣の像

   

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