本城惣右衛門覚書は、本能寺の変で明智光秀に従軍していた光秀配下の足軽・本城惣右衛門が、江戸時代に入って晩年、親族と思われる三人の人物に宛てた記録の内の一番乗りで本能寺に侵入したという部分を掲載したものである。 この覚書から本能寺の変がどのように行われたのかが伺える貴重な資料となっている。
現代文訳:守天働児
『明智光秀が謀反を起こし、織田信長様に腹を召させた時、本能寺に私たちより先に入ったと言う人がいたら、それは嘘です。まさか、信長様に腹を召させるとは夢とも知りませんでした。その時は、太閤秀吉様が備中で毛利輝元様と対峙していたので、明智さまが援軍を申しつけられたのです。京都の山崎の方へ行くと思っていたら、逆の京都市内の方へ行けと命じられましたので、、。討つ相手は徳川家康様であるとばかり思っていました。また、本能寺というところも知りませんでした。進軍の途中、軍勢の中から馬に乗った二人の武将が前に出てきたので、誰かと思ったところ、斉藤内蔵助殿(利三)の子息で小姓を二人連れていました。本能寺へ向かう間、我々はその後ろについて行きました。片原町に入った時、子息殿は北の方へ行き、我々は南の堀に沿って東に向いて進んだところ、本能寺に入る道に出ました。橋の側に門番がいたので私たちは殺して首を取りました。そこから本能寺内に入ろうとしたところ、門は簡単に開いて、中は、ネズミ一匹いないほど静かでした。門番の首を持っていたところ、北側から入ってきた三宅弥平次殿と伝令将校の二人がやってきて、「首は討ち捨てろ。」と言われましたので、堂の下に投げ入れました。本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人、捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とは分かりませんでした。この女は斉藤内蔵助殿のもとに連れて行きました。旗本衆の二、三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。一人の男が、奥の間から、麻の単衣(寝間着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので、
私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。その頃には建物の中には我が軍の多くが入っていました。この襲撃時には、以上のとおり、敵の首を二つ取りました。褒美として、槍を貰ったので、野々口西太郎殿に伝えます。』
と、こうである。公家に反信長の動きは存在し、更に義昭、堺衆、本願寺、雑賀衆、丹波衆等、反信長勢力は各地に数多く存在し活動していた中で、本能寺の変の当時、光秀は在京信長軍団幕僚のトップとして織田軍に関わる情報のすべては光秀のもとに集っていた。そして、光秀は変前の一年間、ほとんど信長の周辺にいた。 そして覚書にあるように、本能寺攻めは明智光秀方の将兵達にも敵が信長であることを知らせないまま、粛々と実行されたのである。明智軍兵士達は、「徳川家康」を攻撃するとばかり考えていた。 本能寺攻撃の現場に明智光秀はおらず、直接指揮をとったのは、斉藤利三や明智秀満勢であった。 本能寺には信長以下100人に満たない将兵が、守りをほとんど行わないまま滞在していた。本能寺では戦いらしい戦いはされず、しかも、信長のみを狙った襲撃作戦であった。