豊臣秀吉が亡くなった後の約15年間は、徳川家康が実質上天下を取り、秀頼・淀君に次第に圧力が迫ります。とうとう大阪冬の陣・夏の陣を迎え、真田幸村の奮戦むなしく侍従30人あまりとともに自刃を遂げた秀頼・淀君の碑が大阪城天守閣の西にひっそりと立っています。
時の右大臣菊亭晴季の娘・一の台局は三条顕実に嫁いで美耶姫をもうけたが顕実と死に別れて秀吉の妾になっていた。 もちろん政略結婚であり菊亭晴季は秀吉の関白昇進に骨を折り、自らも右大臣となった。 その頃に秀吉の側室となって現れたのが茶々である。 ゆうまでもなく茶々の母・お市の方の遺言により織田と浅井の血を残すべく秀吉に嫁いだのである。 豊臣秀吉の血を残すためではなかった。 茶々と同様に秀吉の側室になりながら秀吉を恨んでいる人に京極局がいる。 京極局こと竜子は浅井長政の姉・京極マリアと近江源氏の佐々木高吉との間に生まれ、武田元明と結婚したが、その美貌に目をつけていた秀吉は 元明が明智光秀に加担して秀吉を攻めたとして謀殺し、妻を奪ったのである。 竜子の兄に京極高次がおり、茶々の妹・お初と結婚している。 高次は本能寺の変のとき光秀に味方して長浜城攻めに加わり失敗すると秀吉に追われることとなる。 しかし竜子の取立てにより罪を免れて一万石の城主にまでなっている。 茶々はそんな竜子を唯一の味方と考えていた。
聚楽第では公家と武家の合同歌会や、後陽成天皇の行幸が行われ、秀吉が天皇の代理として天下を統率することが公認されたのであるが、これは一の台局の父・晴季の功績といってよい。 そんな父を称えるように秀吉は一の台局を労うと、一の台局は茶々の鋭い視線を感じた。 一の台局は側室ではあるが、ほとんど秀吉の相手をしていない。 20歳も年の離れた秀吉に抱かれたいなどと思うこともなかったが・・・。 茶々は母お市の方のような絶世の美人ではなかったが秀吉は寵愛した。 一の台局も京極局も華奢な体つきであったが茶々は父親似の大柄で豊満である。 小柄な秀吉はそういう 豊満な茶々に惹かれたのである。 しばらくして茶々が身篭ったことに秀吉は狂気して喜んだという。 というもの秀吉には南殿との間に秀勝という男子がいたが、7歳でなくなった。 以来子供に恵まれることはなく、その後養子の何人かに秀勝の名を与えていることから余程最初の男子をかわいがったようである。 それから12年、待ちに待っていた男子が誕生したから狂喜したのも無理はない。
懐妊の噂は一の台局の耳にもはいった。 秀吉に子胤がないと経験から確信を持っていた一の台局は、茶々の秀吉に対する復讐ではないだろうかと感じた。 1589年5月、茶々は淀城で鶴松を産んだのである。 鶴松誕生の宴が聚楽第で催されたとき、一の台局は侍女の楓が言った「茶々は他の子胤を宿したのでは・・」という言葉を思い出しながら落ち着かなかった。 このとき近江八幡城主の秀次も出席しており、こともあろうにその夜二人は情事に耽った。 翌日、一の台局は秀吉から二度目の暇を告げられている。 侍女の楓は秀吉の動きを探るために家康の腹心・本多正信が送った密偵であり、秀次との情事を正信に報告していたのである。 鶴松4ヶ月のときに、秀吉につれられ大阪城へくると北の政所や大政所と対面したが、その顔は秀吉にそっくりで、一の台局と同じような疑問を抱いていた一同はまぎれもない嫡子であると思ったようである。
1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。 7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。 奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。 翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。 1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。 その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 1593年、淀君は男子を産んだ。 捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。
秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。 秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。 秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。 秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。 そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。 秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。 その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。 また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。 考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。 一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。
秀次が亡くなった後の秀吉は、自分を見失うかのように秀頼を寵愛し、体調を崩していった。 いよいよ家康が長年の我慢の成果がでてきた。 明智光秀征伐を秀吉に許したばかりに、天下取りの先を越された家康は、この日を待っていた。 秀吉が62歳で亡くなると、尾張出身の加藤清正、福島正則を推す北政所と、近江出身の石田三成、長束正家を推す淀殿との対立は周知のこととなるが、家康は尾張勢に接近することとなる。 北政所の淀殿も家康が次の担い手であることは認めていたが、淀殿は三成によって家康を阻み、秀頼の安泰を図り、北政所は家康に飛び込むことにより豊臣家の永続を考えていた。 淀殿は石田三成の忠誠に心強く思うが、家康の勢力に勝てるはずもなかったが、前田利家の秀頼に対する忠義により、豊臣家と家康はかろうじて均衡を保っていた。 ところが前田利家の病死により一気に展開が変わるのである。
三成が昵懇にしている常陸水戸城主 佐竹義宣が火急を告げてきた。 加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の七将が三成襲撃を企てているというのである。 このとき三成は家康のふところに飛び込むと、家康は保護し、息子の結城秀康の警護の元、近江佐和山城へ送り届け、石田三成の地位は失墜し発言権もなくなった。 徳川家康は伏見城から大阪城へ入城して政務を指揮することとなった。 石田三成が挙兵したのはそれから1年半後のことである。天下分け目の関ヶ原の合戦である。 結局、小早川秀秋の寝返りにより家康側の勝利となると、家康は大阪城に入り、淀殿と秀頼親子と会見を持ち、危害は加えない旨を伝えた。 家康の孫・千姫7歳が大阪城に入り、秀頼11歳と結婚の儀をかわしたのは、それから3年後のことである。 家康は征夷大将軍となり、秀頼は内大臣が約束され、家康の孫・千姫が嫁になったことで、淀殿は、秀頼が成人すればいずれは天下を譲ってくれるのではないかとの望みを捨てきれないでいたのであるが、家康は征夷大将軍を辞し、秀忠に譲ると徳川家の世襲として代々天下の政権を握ることを表明した。 千姫が嫁いできたことによって秀頼の将来が保証されたと思い込んでいた淀殿は衝撃を覚えた。 それ以降、淀殿は鬱状態になり暗雲立ち込めるようになる。
家康の三男・秀忠の娘・千姫を秀頼に嫁がせると、江戸へ戻り諸大名の負担により大都市への改造を行った。 1605年、将軍就任後二年にして息子秀忠に将軍職を譲ると、秀忠を二条城に入らせ、大阪城の淀殿・秀頼に二条城に上洛するように命じる。ところが淀殿の強硬姿勢により、家康は豊臣家を滅亡に導く決意を固めるのである。 淀殿の姿勢を和らげようと奔走したのは加藤清正、浅野幸長である。 1611年、家康が居城である駿府を出発し上洛したとき、清正らの説得でやっと秀頼は家康との対面を果たす。 ところが対面直後に清正は肥後熊本への帰国の途中で病死するのである。 また対面に奔走した浅野幸長も1613年に38歳で亡くなった。 秀吉派のこれらの勇士が次々と亡くなったことで豊臣家の滅亡が現実のものとなっていったのは云うまでも無い。
またこの頃、家康は膨大な豊臣家の資産を浪費させている。 つまり秀吉の供養と称して多くの寺院を復活させ、方広寺の再建や、大仏殿の鐘である大梵鐘も鋳造され、1614年にはほぼ完成していた。 梵鐘に刻まれた「国家安泰君臣豊楽」の銘文が問題となり、弁明の使・片桐旦元が結果的には徳川家の陰謀にはまって豊臣家から10月退去したのであるが、 家康にとってのこの契機が大阪攻めを決断させることになる。 大阪冬の陣である。 この戦いで大阪側に味方した大名は一人もおらず、味方は所領を失った関ヶ原の敗者のみである。 ところが徳川の総攻撃にもかかわらず落城する気配は無く、逆に真田幸村の巧みな防戦により豊臣方が勝っていたのであるが、大阪方からの講和申し出により豊臣家は命取りとなる。 1614年12月から翌年にかけて秀忠の指揮の下に大阪城の堀が全て埋められたのである。 淀殿は家康の要求を断固受け入れなかったことから5月になって本格的な戦い・大阪夏の陣が始まった。 このときは流石の真田幸村も奮闘するものの、数に勝る徳川連合軍におされて討死を遂げたのである。 燃え上がる大阪城から奇跡的に助け出された千姫が祖父家康のもとに辿りついたのは有名である。 やがて淀殿と秀頼は最後まで付き添ったわずかな近臣とともに自害した。 秀頼には二人の子がいたが、男子は捕らえられ六条河原で首をはねられたが女子は後に東慶寺の住持となった天秀尼である。
北の政所(正室)後に高台院1542-1624
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近衛信輔(左大臣) ┃加賀局(前田利家娘)1572-1605
二条昭実(前関白) ┃┃
┗ 豊臣秀吉(関白)1536-1598 姉川合戦:浅井、朝倉討伐
┃ ┃┃ ┃┣ 豊臣秀勝1570-1576 山崎合戦:明智光秀討伐
┃ ┃┃ ┃┣ 娘1571-1571 賤ケ岳合戦:柴田勝家討伐
┃ ┃┃ ┃南殿(山名善幸娘)
┃ ┃┃三の丸殿(信長九女)
┃ ┃姫路殿(信長の弟信包の娘)
┃ ┣ 豊臣秀勝1569-1592(信長の四男で妻はお江与、子は茶々が養育)
┃ ┗ 豊臣秀次1568-1595(近江八幡城主)母は秀吉の姉・日秀
┃ ┣-
┃ ┏一の台局(元秀吉の妾)-1595
┃ ┃ ┣ 美耶姫-1595
┃ ┃三条顕実
┃ 菊亭晴季(右大臣)1539-1617 側室:おいちゃ
┃ ┣奈阿姫1609-1645(天秀尼:千姫が養母)
┣ 豊臣鶴松1589-1591(3歳で病死)┣豊臣国松1608-1615(斬首)
┣ 豊臣秀頼1593-1615(大阪夏の陣で母と自害)
お市の方┃ ┃乳母は大蔵卿局
┣ 淀君 茶々1569-1615 ┃ ┣ 大野治長
┃ ┃ ┣ 大野治房
┃ ┃ 大野佐渡守
┣ お初1570-1633(常高院) ┃
┃ ┣ 忠高 ┃
┃ 京極高次1563-1609 ┃
┣ お江1573-1626(崇源院) ┃
┃ ┃ ┣ 千姫 ━━┛
┃ ┃ ┣ 子々姫
┃ ┃ ┣ 勝姫
┃ ┃ ┣ 長丸
┃ ┃西郷局┣ 竹千代(家光)
┃ ┃ ┣徳川秀忠1579-1632
┃ ┃徳川家康1543-1616
┃ 佐治与九郎一成(母は信長の妹)
┣ 万福丸
┏ 浅井長政 武田孫八郎元明1552-1582(光秀に加担したとして自害)
┃ ┣ 武若
┗ 姉マリア ┣ 俊丸
┣ 京極局(竜子)1557-1634 後に芳寿院
┣ 京極高次1563-1609
近江源氏佐々木京極高吉
極楽橋 大阪城天守閣横の秀頼・淀殿自刃の地