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平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

村上海賊の娘-11 来島村上水軍衆 

2014年05月18日 | 戦国時代

 ここ四国今治にある糸山公園から大島に向かって架かっている橋により、来島海峡を越えることができる。来島海峡に浮かぶ小さな島が来島で、このあたりを支配していたのが来島村上水軍である。 当時の水軍党首は来島通総、年はまだ若く実質的には村上通康が来島水軍をまとめていたと思われる。また村上吉継という家老が当主補佐をしており、かなりの実権を握っていた。村上吉継の本拠は甘崎城で、瀬戸内海一帯の水軍城の中では一番古く、古城島に建設された。古城島は、この一帯では一番霊験あらたかな大三島の東に近接して浮かんでいる。したがって村上水軍の中では来島水軍が歴史的には一番古いのかもしれない。ということで大三島についてもう少し詳しく触れる必要があるが、それは後ほどにして、その昔由緒のあった来島に代わって能島水軍が村上武吉の功績によって繁栄したということは、最初に記した。しかし系図にも現れているように、来島城主・村上通康の娘が村上武吉に嫁ぐことによって元吉、景親、琴姫を生んだことから、元々は来島水軍のほうが能島水軍よりも上位にいたと察する。能島が古来より上位にいれば、これはありえない。また、村上通康は河野通直の娘を娶っている。以前紹介したが、河野通直は河野水軍の党首であり、村上水軍は元々河野水軍の家臣なのである。その河野氏の娘を来島が娶っていることからも、昔の来島勢力のほどがわかる。村上通康は当時43歳の村上武吉よりも15歳年上である。従ってこの15年の間に両者は逆転したのだろう。村上水軍の因島、能島、来島を説明したところで、毛利兵糧輸送に戻ることとする。

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村上海賊の娘-10 能島村上水軍衆 

2014年05月17日 | 戦国時代

 因島の次は能島村上水軍である。大坂本願寺への兵糧輸送作戦の護衛の棟梁は因島水軍・村上吉充であるが、本来は能島の村上武吉である。能島水軍は、もともと毛利方に加勢をする意思はなかった。この男、毛利家の家臣ではあるが毛利氏の周防・長門の平定に協力し瀬戸内海一の水軍勢力となった。誰もが一目置く存在であった。塩飽諸島など瀬戸内の他の水軍衆とも手を結び、通行する船から帆別銭という通行料を取り立てることで栄えた立役者である。そんな人物を毛利家が放っておくはずもなく、1570年に毛利元就・毛利輝元・小早川隆景の三者が起請文を武吉と交わしたことで、村上水軍における村上武吉の立場を確立する。石山合戦で毛利が織田信長と戦うと決すると、村上水軍は小早川・児島・乃美水軍などと共に毛利方水軍として戦うことを決めた。かくして1576年7月13日の第一次木津川口の戦いに向けて始動したのである。この戦いの目的は兵糧10万石を大坂本願寺の長期篭城に備えておくること。その為には途中織田側の勢力と木津川河口にて大戦となるのはわかっているため、兵糧輸送船団を護衛する必要がある。能島村上水軍を率いたのは村上武吉の嫡男・元吉、毛利元就から一字を拝領した名である。サポートしたのが次男の景親、主君・小早川隆景より偏諱を賜った名である。

 さて、毛利水軍と村上水軍が大坂本願寺に兵糧を輸送開始した1576年7月の約2年後はというと、播磨三木氏の別所長治が大坂本願寺の信徒を数多くかかえて篭城作戦に入った。というのも1578年4月18日の上月城・城主(黒田官兵衛の義兄弟)が毛利と戦って、尼子勝久とともに惨敗した(この時毛利軍として村上水軍が参戦している)のをきっかけに、播磨の数多くの城主が毛利側へとなびき、織田信長に相対することとなる。播磨野口城、志方城、神吉城が次々と陥落したことで、三木氏の篭城作戦が始まったのが1578年5月5日。また、織田の家臣・荒木村重が謀反を起こして始まった有岡城の戦いが1578年7月、そして竹中半兵衛が三木合戦の途中亡くなったのが1579年7月6日ということも併せて踏まえながら、これから始まろうとする木津川の戦いを見るのは面白い。 

  北畠親房              乃美宗勝の妹
     ┗北畠師清(信濃村上氏)    ┣景隆
            ┣義顕:因島 ┏村上吉充?-? 青影城主
            ┃      ┗村上亮康?-1608
           ┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
           ┃       ┣元吉1553-1600
           ┃       ┣景
           ┃       ┣景親1558-1610
           ┃       ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
           ┃       ┃┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
           ┃   (来島城主)┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
           ┃   村上通康┃
           ┃  1519-1567┣娘 
           ┗顕長:来島  ┣得居通幸1557-1594        
                           ┣来島通総1561-1597当主
                  ┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
                         河野通直の娘 

巨大な大島と伯方島の間にある能島は実はこんなに小さい

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村上海賊の娘-9 因島村上水軍衆 

2014年05月16日 | 戦国時代

 毛利水軍による大規模兵糧輸送を護衛した村上水軍の中心となった村上因島水軍、これを率いたのは党首・村上吉充である。因島は「しまなみ海道」の向島と生口島に挟まれた大きな島で、因島北ICを降りて南東に1kmほど走ると因島水軍城(青影城ともいう)が現在も残されている。ただし昭和になって再建されたものである。城主・村上吉充は小早川家海賊衆の党首・乃美宗勝の妹を娶っているから、毛利庶流の小早川家とは結びつきが深い。兵糧輸送船団を率いるのは小早川家海賊衆の党首・乃美宗勝が中心人物であるから、乃美宗勝と村上吉充は最高のコンビといえる。数年前に訪れた因島の村上水軍城は、再建されたというものの立派である。城への登城はかなり急な坂道をかけあがる必要があり体力に自信がないと楽にはのぼれない。また村上水軍の菩提寺ともいえる金蓮寺には多くの墓所が並んでおり、因島村上水軍の勢いが強かったことが偲ばれる。党首・村上吉充は乃美宗勝の妹を娶ったが子供には恵まれなかった。そこで弟の村上亮康の子景隆を養子にした。こういう背景があったためだろうか、村上海賊の娘では主人公・景と村上吉充は結婚するのかな?という描かれ方もなくはなかった。景は男勝りの戦士である。そんな景が考えていた結婚相手は、海賊のなかの海賊である。したがってこのような男として描かれてはいるが、少し物足りなさを村上吉充に感じていた。一方村上吉充は嫁に景を考えるなど眼中にない。景のような当時の姫には似つかわしくない女は村上水軍の海賊からは相手にされない状況である。そのような描写を挟みつつ、村上吉充の描写は海賊の勇士であった。なんだか、今気づいたが歴史の状況を淡々と記載するのに比べると、男女の人間模様を書くのはダメな自分に気づいた。

金蓮寺(村上家の菩提寺)にある因島村上水軍の墓 

因島水軍城二の丸にある展示館

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村上海賊の娘-8 村上水軍衆 

2014年05月15日 | 戦国時代

 毛利水軍による大規模兵糧輸送を護衛したのが村上水軍、その数700艘。小説「村上海賊の娘」では300艘とあったが、実際には700艘以上あったと考えられる。その中心となったのが村上因島水軍率いる村上吉充である。この輸送作戦では、村上能島水軍の党首・村上武吉は参加していない。また来島水軍党首・来島通総も年若のため参加していない。ではそもそも村上水軍全体を取り纏めていた村上能島水軍の党首・村上武吉は何をしていたのか?当然の事ながら、これが謎である。実質の党首不在の戦いというものは士気が上がらないから、ふつう党首不在は考えられないことなのである。党首が若い場合には、お飾りであったとしても戦いに参加するものである。この謎にヒントを得て書かれた小説が和田竜氏著の「村上海賊の娘」と考えられる。(この辺は私の勝手な想像であるから真実はわからない) では村上海賊の娘とは誰かというと、能島村上水軍衆の党首・村上武吉の娘である。名前は景、小説では慎重180cmのがっちりした体躯の20歳の大女で、真っ黒な肌色にギョロっとした目つきのこの娘、まるで村上武吉を女にしたような娘である。そしてこの娘が10万石兵糧作戦では大活躍することとなるのである。従って村上武吉の代わりに娘・景をこの作戦に参戦させた。小説であるからここのところは史実ではない。また私の知る限り景という娘は村上武吉にはいない。しかし著者・和田氏は、この小説の末尾で、景の戦後について触れている。伊予の黒川氏に嫁いだあとは云々とある。この戦いおよび景のその後についてはあとで触れるとして、ここでは村上水軍の話に戻る。

 村上水軍が活躍の場としたのは、下記の地図で示した四国愛媛と本州尾道に挟まれた瀬戸内海に浮かぶ大小数多ある島一帯である。現在では「しまなみ海道」として知られ、7箇所の大橋で結ばれたために、交通の便は格段によくなった。じつはこの場所に私は3回行っていて、2回はお泊りだったので、総計かなりの歴史の散策を行った。当時のメインイベントは河野通信を勉強することであった。河野通信は平安時代の伊予の水軍で、源義経が平家と戦ったときの援軍の総大将なのである。だから当時は村上水軍は存在しない。河野通信は村上武吉の時代を遡ること600年くらい前のことである。では河野氏は戦国時代にはどうなっていたかというと、脈々と続いていて、1576年当時は河野通直が伊予守として党首を務めていた。そして村上水軍の系図に描いている村上通康、来島通総、村上武吉の面々は、実はこの河野氏の家臣だったのである。つまり、河野氏は伊予の大名として君臨していた。因みに愛媛松山に行くと良く見かける正岡子規、幕末の伊藤博文、慰安婦問題で話題となっている河野談話で有名な河野洋平氏などはすべて河野水軍の末裔である。

河野親清
  ┣河野通清-1181
河野親経娘┣河野通信-1223
      ┃  ┣通俊
     ┣通孝┣通政
      ┗通経┣通末
        ┣通久(母は北条時政娘・やつ) 
        ┃┣通時 
        ┃┣通継━通有 
        ┃┣通行 
        ┃┗通盛 
        ┣通広(母は二階堂行光娘) 
        ┃┣通朝 
        ┃┣通尚 
        ┃┗通定 
        ┗通宗  

北畠親房                     乃美宗勝の妹
     ┗北畠師清(信濃村上氏)    ┣
            ┣義顕:因島  村上吉充?-? 青影城主
           ┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
           ┃           ┣元吉1553-1600
           ┃           ┣景
           ┃           ┣景親1558-1610
           ┃           ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
           ┃           ┃  ┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
           ┃   (来島城主)   ┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
           ┃        村上通康 ┃
           ┃  1519-1567  ┣娘 
           ┗顕長:来島      ┣得居通幸1557-1594        
                                 ┣来島通総1561-1597当主
                         ┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
                              河野通直の娘

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村上海賊の娘-7 毛利水軍衆 

2014年05月14日 | 戦国時代

 織田軍の大勝で天王寺砦の戦いは1576年5月7日に幕を閉じた。この戦いで大敗した大坂本願寺軍は徹底した籠城戦に持ち込んだのである。こうなると必要なのは長期戦に備えた兵糧であるが、底をつくまでの期間は3ヶ月であったようだ。従って大量の兵糧を何とかしなくてはならない。しかも木津川河口などの海路は泉州和泉を中心とした水軍衆によっては固められている。そこで大坂本願寺が頼ったのは毛利の水軍による兵糧輸送作戦で、その量は10万石という莫大な量であった。これだけの兵糧を運ぶためには約1000艘にも及ぶ大輸送船団が必要となる。毛利家がこの要請に呼応したのには理由がある。しかしここでは割愛させていただくとして、毛利輸送船団の成り立ちについて解説する。もともと安芸武田氏直轄の水軍衆や譜代家臣であった児玉氏の水軍衆を毛利家が取り込んだことから毛利水軍が始まったという。また、安芸国の豪族・竹原小早川氏へ毛利元就・三男の隆景を養子に送り込み、小早川氏は毛利家に取り込まれた。小早川氏直轄の水軍が毛利氏直轄になり誕生した水軍が毛利最強の小早川家海賊衆で、その党首が乃美宗勝である。従って乃美宗勝の本拠地は竹原忠海町で、賀儀城城主でもある。ところで、村上水軍はというと、小早川氏と姻戚関係を結んでいた河野氏の被官で、瀬戸内海の芸予諸島を中心に活動していたことから、当然のことながら毛利家とも深く結びついていたのである。系図を見れば毛利小早川家海賊衆・乃美宗勝が最強であったゆえんがわかる。毛利家をここまで巨大にした毛利元就の側室に乃美大方がいることでもわかる。

 さて、大坂本願寺が織田勢と交戦するに際して篭城を決め込み、毛利家は兵糧10万石の輸送を決めた。船団数は1000艘、その護衛に必要な水軍船団は300艘である。実質的な総大将は、小早川家海賊衆であり賀儀城主の乃美宗勝ではあるが、形式的な総大将は毛利家海賊衆の棟梁・児玉就英となる。毛利家宗流に仕える児玉就英のほうが、小早川家庶流の乃美宗勝よりも上位であるから乃美宗勝としてはやりにくい。それぞれの本拠地から続々と集まった1000艘の大船団は、兵糧を積むべく乃美宗勝の本拠地である竹原忠海町・賀儀城に程近い港にひしめいている。ところで、竹原忠海町というのはその昔、平家の棟梁・平忠盛(平清盛の父)ゆかりの地で、平忠盛が瀬戸内海の海賊退治の功績を称えられこの地一帯を賜ったことから忠海は忠盛の名を冠して付けられたと云われている。今やその乃美宗勝という海賊が忠海一帯を支配しているのだから歴史は皮肉なものである。10万石の兵糧を積み終えた船団は難波目指して出航した。そしてこの船団を護衛するのが村上水軍300艘なのである。実はこのとき、毛利水軍に対して播磨の英賀衆も援護をしている。英賀は一向宗勢力が根付き寺内町が形成され、堺と同じく町衆による自治が行われ河川交通・海上交通の要所として商工業が繁栄していた。時の英賀城主は三木氏9代目・三木通秋で、妻は黒田職隆女というから黒田官兵衛とは兄妹となる。黒田官兵衛はもちろん織田側に就いており、英賀城主は毛利側に就いているのであるから、戦国の世は悲しい運命を背負うことが、ここからもわかる。

乃美隆興1513-1598
┗乃美大方?-1601
  ┣毛利元清1551-1597
毛利元就1497-1571  
  ┣毛利隆元1523-1563       
  ┃    ┗輝元1553-1625             
  ┃ 児玉就方1513-1586
  ┃  ┗児玉就英1534-1612(毛利家海賊衆)
  ┃
  ┣吉川元春1530-1586       
  ┣小早川隆景1533-1597    
  ┃ 乃美賢勝
  ┃  ┣?村上吉充室
  ┃  ┗乃美宗勝1527-1592(小早川家海賊衆:賀儀城主) 竹原忠海町豊臣秀吉の文禄の役で宗勝も朝鮮へ出陣
  ┃    ┗嫡男の浦盛勝
吉川国経女

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村上海賊の娘-6 天王寺砦戦 

2014年05月13日 | 戦国時代

 この天王寺砦の戦いでは織田側の総大将・原田直政は討ち死にした。大坂本願寺側の大勝利というのが天王寺砦戦の前半戦である。総大将・原田直政が泉州和泉水軍衆・眞鍋七五三兵衛率いる眞鍋水軍、佐久間信盛率いる沼間任世の沼間水軍、寺田又右衛門・松浦安太夫兄弟率いる松浦水軍、をもってしても大坂本願寺の軍勢1万と雑賀衆鉄砲隊を崩すことはできず、明智光秀の天王寺砦までが苦戦を強いられていた。明智光秀の救援要請に立ち上がったのが何と織田信長本人であった。事は急を要していただけに、信長側軍勢がほとんど集まらなかったにもかかわらず、わずかな手勢で本願寺勢を強襲、翌7日には信長は3000ほどの兵で本願寺勢1万5千に突撃したという。先陣は佐久間信盛・松永久秀、2番手は滝川一益・羽柴秀吉、3番手は信長の馬廻りで、信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取ったのである。本願寺勢は多数の鉄砲で防戦したが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流した。

 合流された本願寺勢も退却せず、陣形を立て直しつつある。信長の再度攻撃に、家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今が好機」とばかりに、本願寺勢を撃破して2700余りの敵を討ち取ったという。こうして織田軍の大勝で天王寺砦の戦いは幕を閉じた。この戦いで大勝した織田軍は、摂津方面での陸戦での優位を確立すると、本願寺軍は徹底した籠城戦に持ち込んだのである。こうなると必要なのは長期戦に備えた兵糧であるが、陸路は固められ、海路も泉州和泉を中心とした水軍衆によって木津川河口は固められている。そういう状況下で、本願寺は毛利からの兵糧に期待を寄せながら篭城していたのである。天王寺砦は現在の四天王寺のすぐ北側にあります。因みにこの一帯は大坂冬の陣に際して真田幸村が真田丸を設け、徳川軍と激戦を交えた地でもある。

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村上海賊の娘-5 雑賀衆・鈴木孫市  

2014年05月12日 | 戦国時代

 石山本願寺を取り囲んだ荒木村重の野田砦、明智光秀の守口砦、原田直政の天王寺砦に対して、楼の岸砦から出陣した本願寺勢・約1万の援護をしたのは数千丁の鉄砲を所有する最強鉄砲隊の雑賀衆、率いるのは鈴木孫市である。原田直政の軍勢はこの攻撃に耐えられず、一族と共に討死し原田軍は崩壊し、織田信長側・天王寺砦も危機に瀕した。「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」というのはこの国時代に実際に言われていた言葉である。戦国最強の鉄砲傭兵集団 「雑賀衆」は 大名家とも寺社勢力とも異なる特殊な集団で、それを率いた鈴木孫市は伝説の鉄砲使いとして恐れられた。雑賀衆は、紀伊半島の南西部を支配していた勢力で、大阪の南の一帯には肥沃な土地が広がり、瀬戸内海と太平洋を結ぶ海運に適した土地でもあったため多くの人々が住んでいた。この人々が、「雑賀衆」 と呼ばれる集団である。その 「最強の戦力」 ゆえに、戦国時代の荒波に翻弄される運命となっていく。雑賀衆は、近畿地方の大名 「三好家」 と 「織田家」 が戦う時に、織田家軍勢として戦った事もあったが、織田信長は、当時強大な権力を握った 「一向宗」 の総本山である 「本願寺」 と対立していった。雑賀衆 にはこの 「一向宗」 の門徒が多く、もともと本願寺とは友好的な関係にあったため、やがて織田軍勢と戦う事になるのである。伝説の鉄砲使い 「雑賀孫市」 率いる雑賀鉄砲衆は鉄砲隊を2列に並べ、前列が撃っている間に後列が弾を込め、交互に前に出て連続発射するという戦法を取っており、これは後に長篠の戦いでの織田信長による「三段撃ち」へと姿を変えることとなった。ところで、この鈴木孫市という人物は以下のように複数存在するようで、雑賀衆の棟梁になると鈴木孫市との名を受け継いだのかもしれない。

 鈴木孫市1534-1589 
 ┣鈴木孫六
 ┗鈴木重意1511-1585
   ┣鈴木重兼1540-1589
   ┣鈴木重秀1546-1586
   ┗鈴木重朝1561-1623

     ┗鈴木重次1598-1664

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村上海賊の娘-4 泉州眞鍋水軍 

2014年05月11日 | 戦国時代

 1570年の石山合戦開戦以来、本願寺と織田軍は一進一退を繰り返していたが、顕如の義兄である武田信玄の死や長島一向一揆滅亡などで大坂本願寺は追いつめられていく。しかし1576年2月、足利義昭の呼びかけに応じた毛利輝元が大坂本願寺に援助を始めたのである。士気を取り戻した顕如率いる大坂本願寺は信徒を総動員して5万の兵力集めたという。これによって大坂本願寺と織田信長側の戦闘が本格化していくのである。信長は大坂本願寺を一気に包囲する。荒木村重には本願寺の西に野田砦を築かせ、明智光秀には本願寺の東に森河内砦、北東に守口砦を築かせた。また原田直政には真南に天王寺砦を築かせ、完全に本願寺の包囲を固めたのである。1576年4月末までに3方向包囲網を敷くと、信長はこれを一気に打ち破ろうというのである。一方、本願寺側はすぐ西に楼の岸砦、南西の木津川河口から木津砦・三津寺砦・難波砦・崎砦など4箇所に砦があり、本願寺への水路を確保していた。木津砦の攻撃には眞鍋水軍という和泉衆や松浦水軍という岸和田衆、また原田直政率いる大和衆があたった。しかし、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、織田軍を包囲しつつ数千丁の鉄砲で銃撃を加えたのである。銃撃に参加したのはかの有名な精強鉄砲隊の雑賀衆、率いるのは鈴木孫市である。原田直政の軍勢はこの攻撃に耐えられず、一族と共に討死し原田軍は崩壊した。本願寺勢は勢いに乗じて天王寺砦を攻撃する。このとき窮地に陥った明智光秀は、京都に滞在していた信長に援軍を要請したのである。この戦いを天王寺砦の戦いといい、1576年5月3日織田信長側が木津に対して仕掛けてきた。本願寺優勢の中、天王寺砦を一気に攻めようとしたのは3日後のことである。

 この戦いで討ち死にした原田直政は織田側の総大将である。従って大坂本願寺側の勝利というのが天王寺砦の戦い前半戦となる。では後半戦は?それについては次回解説するとして、ここでは泉州和泉水軍衆の長・眞鍋七五三兵衛について記す。眞鍋七五三兵衛率いる眞鍋水軍は元々は瀬戸内の塩飽諸島にある眞鍋島の出身であるらしい。塩飽諸島は現在では笠岡諸島といって、福山市から香川県多度津市に延びる諸島をいう。因みにこの眞鍋島の隣にある北木島はお笑いの千鳥の大悟さんの出身地である。この眞鍋島に眞鍋島城があり水軍の本拠地となっていたが、そのずっと南西に位置する愛媛県新居浜にも眞鍋城があり、真鍋氏が移住した伝承が残っているらしい。1576年当時眞鍋の長が眞鍋七五三兵衛、その父親が眞鍋道夢斎。彼ら眞鍋水軍は泉州に活路を見出して、佐久間信盛軍の与力的存在となっていた。実は泉州の水軍として元々名を馳せていたのは、同じく佐久間信盛に仕えた沼間任世率いる沼間水軍と寺田又右衛門・松浦安太夫兄弟率いる松浦水軍であった。ところが眞鍋七五三兵衛、眞鍋道夢斎親子が眞鍋水軍としてのし上がり、沼間、松浦両水軍を追い抜き、友が島水道を支配していたようである。さて村上海賊はというと、この戦いには参加していない。基本的には村上海賊の党首・村上武吉は中立的な立場をとっていて織田信長、大坂本願寺いずれにも恩があるわけではなく、敵対するでもない。しかしながら大坂本願寺は毛利家には兵糧物資の輸送を求めており、村上海賊は毛利家とは極めて縁が深いことから兵糧運搬の護衛に一役買おうということにはなっていた。

原田直政?-1576(天王寺砦の戦い総大将) 
 ┗佐久間信盛1528-1582
   ┃  ┗佐久間信栄1556-1632
   ┣(和泉衆)眞鍋道夢斎
   ┃     ┗眞鍋七五三兵衛-1576 泉州海賊衆和泉水軍
   ┣(和泉衆)沼間任世和?-?(泉水軍衆・佐久間信盛の配下)

   ┃     ┗沼間義清?-1576 
   ┃   
   ┗┳(和泉衆)寺田又右衛門 岸和田城主 岸和田水軍松浦肥前守に仕えていた
    ┗(和泉衆)松浦安太夫 松浦肥前守を謀殺し松浦姓を名乗る

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村上海賊の娘-3 一向宗 

2014年05月09日 | 戦国時代

 一向宗というのは大坂本願寺のことである。しかし当時は石山本願寺といったほうが良いかもしれない。本願寺第8世の蓮如は法主を実如に譲り、自身は京都山科にある本願寺の南殿に隠居した。ここを山科本願寺という。その頃から大坂への布教活動は定期的に行われており、大坂に坊舎の建設が開始され、これが後に石山本願寺となる。実は当時大坂という名称は存在せず、難波という呼び方が一般的であった。後にこの地を大坂と名づけたのは石山本願寺の蓮如なのである。蓮如の時代から約70年経った頃の本願寺座主が顕如・第11世である。このときには大坂本願寺と呼ばれ、難波の真ん中に位置し、そこは大阪城の跡地にあたる。現在も大阪城内には蓮如の石碑がある。ところで、この本願寺派はもともとは親鸞の教えに従う門徒であったが、蓮如の後継者である実如の時代に摂津、河内の門徒衆の反対を押し切るかたちで、武装集団へと変貌していく。

 経緯を少し解説する。細川勝元の嫡男・細川政元1466-1507は守護大名・管領の足利氏の庶流であったが、将軍をしのいで事実上の最高権力者となっていった。このとき足利将軍・義材は畠山政長と共に畠山義豊討伐のために河内国へ出兵する。一方京都に残留していた政元は日野富子・伊勢貞宗と組んでクーデターを起こしたのである。つまり以前に将軍候補に推げた清晃を第11代将軍に擁立しようというのである。この1493年に起きたクーデターを明応の政変という。かくしてクーデターは成功し、畠山家の勢力は衰え、足利義材は京都・龍安寺に幽閉された。一方石山本願寺法主・顕如の義兄に当たる細川晴元は細川氏本家京兆家当主である。

 蓮如の後継者実如は明応の政変以降、細川政元から参戦を求められるようになる。やがて本願寺は武士勢力という位置づけが濃厚になり、実如の後継者・証如の代では兵数10万まで膨れ上がったという。強大な力を蓄えた本願寺に対して恐れをなした細川政元は、三好長慶を擁して石山本願寺の制圧にかかる。この頃本願寺の指揮官として赴任したのが下間頼盛、「村上海賊の娘」に登場する坊官の下間頼龍とはもちろん縁がある。細川晴元らとの抗争の中で寺領を拡大していった石山本願寺は顕如の時代となり莫大な財力を誇ることとなる。ここに立ちはだかったのが織田信長なのである。1570年石山本願寺の明け渡しを要求したことから石山合戦は始まる。この合戦は10年以上も続くことになるが、開戦6年後の1576年が「村上海賊の娘」の舞台となる。 

藤原不比等-房前-真盾-内麻呂-真夏-濱雄-家宗817-877-□-資業(日野薬師)-□□-経尹
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗日野有範?-?(崇徳天皇の侍講)
  ┣親鸞1173-1263(日野忠範)
 吉光女┣範意   
    ┣小黒女房 ┏如信1235-1300(本願寺第2世) 
    ┣善鸞1217-1286
    ┣明信
    ┣有房   小野宮禅念
    ┣高野善尼  ┣唯善1253-1317
    ┣覚信尼1224-1283
   恵信尼1182-1268 ┣覚恵1239-1307
           ┣光玉尼 ┣覚如1271-1351(本願寺第3世)
         日野広綱 中原某娘┗善如1333-1389(本願寺第4世) 
                   ┗綽如1350-1393(本願寺第5世)
                    ┗功如1376-1440(本願寺第6世)
                     ┗存如1396-1457(本願寺第7世)
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
蓮如1415-1499(本願寺第8世:中興の祖) 
  ┣順如1442-1483
  ┃ 
  ┗実如1458-1525(本願寺第9世)
   ┗円如1489-1521
     ┗証如1516-1554(本願寺第10世 九条家猶子)
      ┣顕如1543-1592(本願寺第11世)      ⇔ 織田信長
   庭田重直娘┃大坂本願寺・一向宗      1570-石山合戦
        ┃下間頼龍1552-1609(顕如の坊官-寺侍)
        ┃┣播磨新宮藩主・池田重利 
        ┃池田恒興の養女
 
      ┃       
        ┣教如1558-1614(東本願寺第12世)

        ┃ ┣尊如 
        ┃ ┣観如  
        ┃ ┗宣如1602-1658(東本願寺第13世)渉成園は隠居所 
        ┃  ┗琢如1625-1671(東本願寺第14世)大谷大学を創設 九条道房養子
        ┃   ┣常如1641-1694(東本願寺第15世)
        ┃   ┃┗真如1682-1744(東本願寺第17世)
        ┃   ┃ ┗乗如1744-1792(東本願寺第19世)
        ┃   ┃  ┗達如1780-1865(東本願寺第20世)
        ┃   ┃   ┗厳如1817-1894(東本願寺第21世)
        ┃   ┃    ┗現如1852-1913(東本願寺第22世)
        ┃   ┃     ┗彰如1875-1943(東本願寺第23世)
        ┃   ┃          ┗闡如1903-1993(東本願寺第24世)
        ┃   ┃           ┗興如1925-1999(東本願寺第25世)
        ┃   ┃            ┗聞如1965- (東本願寺第26世)
        ┃   ┗一如1649-1700(東本願寺第16世)
        ┃    ┗海彗
        ┃     ┗従如1720-1760(東本願寺第18世)
        ┃冷泉為益娘(元誠仁親王妃)
        ┃ ┣准尊1585-1622(室:毛利輝元養女)
        ┣顕尊
        ┣准如1577-1631(西本願寺第12世)
        ┃ ┣良如1613-1662(西本願寺第13世)
        ┃准勝┗寂如1651-1725(西本願寺第14世)
        ┃   ┗住如(西本願寺第15世)
        ┃    ┗湛如(西本願寺第16世)
        ┃     ┗法如1707-1789(西本願寺第17世)
        ┃      ┗文如(西本願寺第18世) 
        ┃       ┗本如1778-1828(西本願寺第19世)
        ┃        ┗広如1798-1871(西本願寺第20世)養子
        ┃         ┗明如1850-1903(西本願寺第21世)
        ┃          ┣九条武子1887-1927
        ┃          ┣大谷尊由
        ┃          ┣鏡如1876-1948(西本願寺第22世)室:籌子
        ┃          ┗浄如
        ┃       ┏籌子 ┣勝如1911-2002(西本願寺第23世)
        ┃       ┣九条紝子┗即如1945-(西本願寺第24世)
        ┃       ┗節子(皇后) ┣専如1977-
     ┏如春尼(三条公頼娘)       範子┣
     ┗三条の方(武田信玄室)       古川流豆美

石山本願寺の祖・蓮如の石碑は大阪城跡地にある

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村上海賊の娘-2 村上武吉と娘 

2014年05月08日 | 戦国時代

 村上海賊の娘、この物語は村上海賊の説明から始まる。ここで簡単に系図を紹介すると以下となる。村上水軍の祖は源頼信の次男・頼清が村上天皇の皇子・為平親王の子源憲定の娘 婿として村上姓を名乗ったという説があるが、平安時代に活躍した村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、その後越智大島移って伊予村上氏の祖となったという説が主流のようである。そして信濃村上氏である北畠師清の息子がそれぞれ因島、能島、来島水軍に枝分かれていったという。時代は流れ、この小説に描かれている時代は、村上水軍全盛期、織田信長が大坂本願寺と対峙していた1576年頃である。大坂本願寺というのは親鸞を祖とする一向宗の顕如を座主とした浄土真宗の勢力であり、織田信長が浄土真宗本願寺勢力、つまり一向宗に合戦を仕掛けたのが1570年であるから、それ以来6年も経過して今なお合戦は続いていたのである。これを石山合戦という。この時村上水軍の中でも能島水軍が圧倒的支配権を持っていた。能島村上水軍の当主は村上武吉、当時43歳である。また因島村上水軍の当主は村上吉充、来島村上水軍の当主は村上通康といって娘を能島村上水軍の当主村上武吉に嫁がせていた。年齢では村上通康が最年長であったがなにしろ57歳という高齢であるから息子に当主の座をゆすりたいところであったが息子はまだ19歳。かくして能島村上水軍の当主・村上武吉が村上水軍全体を取り纏めていたのである。さてこの小説での主役・海賊の娘というのは能島村上水軍の当主・村上武吉の娘なのである。名前は景。村上武吉には琴姫という娘がいるが、毛利家に嫁いでいて主人公ではない。しかし村上武吉には他に娘はいないはずである。さてこの娘は誰なのか。

源満仲━頼信┳頼義 
      ┣頼清━仲宗┳惟清         
      ┗頼季   ┣顕清┳宗清
            ┣仲清┣為国 ┳信国(木曾義仲側)
            ┗盛清┃(崇徳)┣泰遠
            (配流)┃   ┣安信
               ┃   ┗明国
               ┃(伊予村上氏)        
               ┣定国┳清長━□□□□━義弘┓
               ┗業国┗正季        ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛  
┗━━北畠親房              乃美宗勝の妹
     ┗北畠師清(信濃村上氏)    ┣景隆
            ┣義顕:因島 村上吉充?-? 青影城主
            ┃      ┗村上亮康?-1608
           ┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
           ┃       ┣元吉1553-1600
           ┃       ┣景
           ┃       ┣景親1558-1610
           ┃       ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
           ┃       ┃┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
           ┃   (来島城主)┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
           ┃   村上通康┃
           ┃  1519-1567┣娘 
           ┗顕長:来島  ┣得居通幸1557-1594        
                           ┣来島通総1561-1597当主
                  ┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
 
                       河野通直の娘

武吉の小早

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村上海賊の娘-1

2014年05月07日 | 戦国時代

 本屋大賞を獲得したのは「村上海賊の娘」著者は和田竜である。本屋大賞・・・直木賞などと違って少し威厳が低い賞なのか?と思いきや決してそんなことはない。評論家、書店員など本読みのプロが選んだ一番売りたい本を選ぶというのだから、かなり価値があるそうな。実際本屋大賞に選ばれると、売りたい本!というのが賞のコンセプトなだけに、著者にとっては労せずして売れる!というおいしい賞であることはいうまでもない。上下併せて百万部間近らしい。さてこの本のタイトル村上海賊の娘、というくらいだから村上海賊の娘が活躍する話だな・・・ということはわかる。しかしどこの海賊がどの戦いで?とついつい思ってしまう。早速購入してこのGWに読んでしまおうと思ったのである。何故村上海賊について反応するかというと、約7年前に村上水軍に興味を示し、本拠地まで泊まりで旅行に行ったことがあるからだ。ここであえて海賊ではなく、水軍と記載したのには理由がある。瀬戸内海を牛耳っていたのは海賊ではなく水軍だからだ。しかし”カイゾク”という場合もあるが、それは海族であって海賊ではない。つまり海を支配した一族であってパイレーツではないのである。その本拠地というのは広島県竹原と愛媛県今治に挟まれた瀬戸内海に広がる小島一帯である。現在では簡単にその小島の全貌を見ることができる。何故なら瀬戸内しまなみ海道という全長70kmにも及ぶ高速道路になっていて、7箇所に架かる大橋からは因島、伯方島、大三島だけではなく、まさに村上水軍の本拠地を眼下に一望しながら通れるからである。村上水軍はこの一帯を治め、船の通行料により得る収入で繁栄しただけではない。村上水軍は能島水軍、因島水軍、来島水軍を総称して言うのであるが、それぞれに立派な武力を有していた。そしてこの武力に頼っていたのが毛利家である。さてこれら3-水軍の詳細、時代背景、そして村上水軍の娘を含めた系図については次回紹介する。

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高野山46 丹波出石小出家墓所

2014年05月06日 | 戦国時代

 但馬国出石藩主・小出吉親1590-1668は吉親系小出家初代である。徳川家康から4代将軍・家綱まで仕えた大名で、父・吉政が没すると兄・吉英は和泉国岸和田藩に移封されたために吉親が但馬出石3万石を領することとなる。しかし1619年に兄・吉英が出石に再封されたため吉親が丹波国に園部藩を2万8000石で立藩した。

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黒田官兵衛24 神吉城主・神吉民部太輔頼定

2014年05月05日 | 戦国時代

 兵庫県加古川市にある神吉城は、赤松氏一族の神吉氏が築城したものである。赤松範次の子・元頼が神吉城主となり神吉氏を称したという。加古川城での毛利討伐の軍議により、別所氏が秀吉側と決別したときに城主・神吉頼定は、同じ赤松氏一族の別所氏に就いた。これにより始まった秀吉との戦いが神吉合戦である。神吉頼定は兵約二千で、秀吉勢の織田信忠、明智光秀、荒木村重ら約3万に立ち向かったが善戦むなしく、また神吉頼定の伯父が秀吉の調略にも会い、神吉頼定は暗殺されることとなる。神吉、秀吉の軍勢は2千対3万であるから秀吉勝利は決まっている。こういうときにも秀吉は調略作戦にでる。もちろんこれにより和睦にもっていき、少しでも犠牲者数を減らすことが目的である。神吉だけではなく播磨一帯には浄土真宗の信徒が数多くいた。親鸞上人を祖とする大坂本願寺の信徒であり、この時代に権勢を振るっていたのは第十一世・顕如である。もちろん敵対していたのが織田信長であるから、神吉城主をはじめとする神吉城下の民衆は織田信長と敵対することとなる。織田側の総大将は織田信忠、織田信長の長男であるからいかにここ播磨制圧に力を入れていたかがわかる。また摂津一国を治めていた荒木村重の軍勢1万5千も加わっている。わずか2千の敵に対して3万もの兵を送り込んだのか。浄土真宗の信徒は、親鸞の教えにもといて「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生できると信じていた。ところが顕如の時期には「敵と戦えば極楽往生、敗走すれば地獄行き」と教えられて感がある。大坂本願寺の軍旗には「退かば無間地獄」とあるから、親鸞の教えとは全然違うのである。しかし信徒にとっては顕如の教えがすべてであり、大坂本願寺はこれを利用したといえる。敗走すれば地獄の教えは最強であり、信長側は大坂本願寺の役10倍の兵力は必要と考えていたようだ。したがって神吉2千に対して織田側3万は妥当な兵力なのである。 

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黒田官兵衛23 志方城主・櫛橋政伊

2014年05月02日 | 戦国時代

 久しぶりに黒田官兵衛ネタです。天気もいいことだし昨日は気分転換に城めぐり。播磨というところは結構城跡があるのです。そのひとつ、志方城を紹介します。ここは黒田官兵衛の妻・光姫の実家でもあり、1492年に櫛橋則伊により築かれて以来4代にわたって存続した。櫛橋家はもともと神奈川を本拠地とした鎌倉御家人であったが、南北朝時代に播磨へ来て土着したという。このとき赤松氏に仕えて赤松氏の台頭に貢献した。やがて浦上家の下克上によって赤松氏が衰退して行ったときに、櫛橋家は独立して志方に勢力を築く。また御着城主・櫛橋伊定の娘を娶るなどして播磨での基盤を固めた。1578年4代城主・政伊の時に羽柴軍の北畠信雄が10000の軍勢で迫ったとき、黒田官兵衛の助言もあり、城主櫛橋伊定は降伏した。しかしまもなく秀吉の播磨制圧が始まると櫛橋政伊は秀吉側ではなく毛利家に就いたことで窮地に追いやられた。織田信忠率いる織田軍本隊が播磨へ進軍しており、集結した織田軍は三木城およびその支城であった志方城などを包囲する。このころ神吉頼定の神吉城が落城している。北畠信意・長岡藤孝らの包囲を受けて志方の重臣の多くはこのときに命を失う。これによって士気を喪失した政伊は間もなく降伏して自刃、志方城主としての櫛橋氏はここに滅亡したのである。以後、孤立した三木城は羽柴秀吉による包囲戦を強いられていく。その10年後の1587年に城主を弔うために志方城跡に観音寺が建立された。本来は立派な観音寺ですが、当日は本堂の改修工事中、しかも観音寺説明板は写真のように大河イラスト仕立てで少し興ざめでした。

黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
  ┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
  ┃┣娘         蜂須賀正勝1526-1586           
  ┃┃┣-         ┣蜂須賀家政1558-1639   
  ┃┃浦上清宗-1564    ┗イト
  ┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604  ┣-  
  ┃┃      ┣①黒田長政1568-1623
  ┃┃      ┣黒田熊の介 ┃      
  ┃┃ 櫛橋伊定 ┃1582-1597  ┃

  ┃┃    ┣光姫1553-1627  ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代  
  ┃┃    ┣櫛橋政伊?-?   ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代  

  ┃┃    ┣妙寿尼1545-1613┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代  

  ┃┃ 小寺政隆娘┣黒田正好  ┃  
 
 ┃┃     上月景貞    ┃  
 
 ┃┃             ┃  
  ┃┣黒田利高1554-1596     ┣黒田長興1610-1665秋月藩初代      

  ┃明石宗和娘(小寺養女)    ┣②黒田忠之1602-1654
  ┣黒田利則1561-1612      栄姫 
  ┣黒田直之1564-1609         
 神吉氏

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黒田官兵衛22 黒田官兵衛の子孫・黒田長高氏

2014年03月21日 | 戦国時代

 黒田官兵衛の子孫はいるそうです。パネルになっているのが本人の黒田長高氏である。現在如水興産のCEOであるとの話を聞いた。実は6代継高氏で黒田家の血筋は途絶えており、一ツ橋家などから養子を迎え入れている。したがって16代目長高氏は黒田官兵衛との血縁関係はないのである。

黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
  ┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
  ┃┣娘         蜂須賀正勝1526-1586           
  ┃┃┣-         ┣蜂須賀家政1558-1639   
  ┃┃浦上清宗-1564    ┗イト
  ┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604 ┣-  
  ┃┃      ┣①黒田長政1568-1623
  ┃┃幸園(櫛橋伊定娘)    ┃
  ┃┃            ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代  
  ┃┣黒田利高1554-1596    ┣黒田長興1610-1665秋月藩初代      
  ┃明石宗和娘(小寺養女)   ┣②黒田忠之1602-1654
  ┣黒田利則1561-1612    栄姫 ┗③光之
  ┣黒田直之1564-1609        ┗④綱政  
 神吉氏                 ┗⑤宣政
                       ┗⑥継高
                         ┗⑦治之
                           ┗⑧治高
                             ┗⑨斉隆
                               ┗⑩斉清
                                 ┗⑪長薄
                                   ┗⑫長知
                                     ┗⑬長成
                                       ┗⑭長礼
                                         ┗⑮長久
                                           ┗黒田長高

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