三木城の東に10kmほど離れたところに淡河城があった。現在は再建された櫓があり公園になっている。城主は淡河定範1539-1579、播磨一帯の豪族であった北条時房の末裔である。北条時房は北条時政の子、北条義時の異母弟にあたり、承久の乱の2年前、鎌倉幕府の 源実朝の後継者については朝廷(太政大臣・藤原頼実の妻・藤原兼子)と幕府(北条政子)間で親王将軍の合意ができていたが、後鳥羽上皇がこれを拒否したために、幕府側は時政の子・北条時房以下千騎の軍勢で朝廷に迫った。そういった歴史を持つ北条氏の末裔・淡河定範は、別所長治よりも20歳年長の義理の伯父である。もちろん別所側について織田軍と戦うこととなる。三木合戦は1578年5月から1580年2月まで続いたが、1579年6月には奇襲作戦により羽柴秀長(豊臣秀吉の異父弟)を破っている。しかしその3ヶ月後の9月には羽柴勢の逆襲にあって自刃したとされている。これにより淡河城は三木城と共に落城し、有馬則頼1533-1602が城主となっている。有馬則頼はもちろん秀吉に仕えた人物であるが、そのむかしは三好長慶や別所長治に従っており、正室は別所忠治(別所長治の従兄)の娘・振である。
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